世界で起きた話題の事件・事故を店長が偏見で選出しました。

なかでも不審死には、疑惑が晴れません。おそらく見えない力が

働いているのでしょう。

当時のソ連の命運を握ったスパイ---幾多の謎を残す「ゾルゲ事件

戦後、一躍有名になったスパイ「リヒャルト・ゾルゲ」1933年から1941年の間、日本でスパイ活動を行っていた。日本と同盟国ドイツの主に軍事情報を盗み、本国ソ連に流していたとされる。1983年に日本に潜入する。当時の日本は「満州国」をでっちあげ中国への権益を強化していた。さらにソ連への侵食が懸念されていた。彼は朝日新聞社の「尾崎秀実」ら数名と諜報活動を開始する。ソ連は日本との同盟国ドイツの動向が心配であった。1941年「バルバロッサ作戦」と呼ばれるドイツのソ連侵攻作戦の秘密情報をゾルゲたちは入手した。だが、「スターリン」はこのスパイ情報を無視、ソ連は緒戦でドイツに大敗を喫してしまう。1941年、今度は日本軍の「南進」をキャッチ、ソ連は、この情報をもとに極東に配備していた部隊をヨーロッパ西部に再配備する。そうしてドイツの進攻をくい止めることに成功した。そのころ、日本で、共産党幹部の「伊藤律」が逮捕された。1941年10月であった。伊藤の密告から「ゾルゲ」は日本で逮捕された。事件の詳細は1949年にGHQによって発表されたのであった。

メンフィスの疑惑の銃弾---キング牧師暗殺事件

黒人解放運動の指導者、キング牧師が撃たれたのは、1968年4月4日であった。当時はベトナム戦争の最中で、多くの若い黒人が兵士としてベトナムに送られていた。マーチン・ルーサー・キング牧師は、そのことに心を痛めていたのである。米国では1964年に公民権法が制定され、黒人隔離政策が廃止されていた。1965年には黒人の投票権も認められた。だが、特に南部では差別が根強く行われていた。そうして「南部キリスト教指導者会議」が設立された。議長がこのキング牧師である。キング牧師は、黒人公民権運動と平行してベトナム反戦運動に精力的に取り組んでいた。そして事件が起きる。1968年4月4日、遊説先のテネシー州メンフィスで殺害されてしまった。犯人は脱獄囚の白人で指紋の付いたライフル銃が見つかりスピード解決した---はずであった。だが犯人は供述を翻し別の男の名前を白状した。しかし判決は覆らなかった。再捜査はもちろん行われた。疑惑が深まる中、暗殺事件の収束が宣言された。疑惑は憶測を呼んだが、解明はなされなかった。噂の一つがFBIの関与説である。当時、キング牧師を「危険人物」としていたのがFBI長官フーバー氏であった。フーバー長官黒幕説が現在でも噂されている。

ネパールの惨劇---ナラヤンヒティ王宮事件

国王一家が銃弾に倒れるという前代未聞の惨劇は2001年6月1日に起きた。王族10人が殺害されたのである。ネパール首都カトマンズの王宮で晩餐会が行われた。酔った皇太子が国王一家を次々と射殺したのであった。全世界を震撼させるに十分な事件である。犯行に及んだ皇太子は、その後付近で頭を打ちぬかれた状態で発見された。

皇太子は、希望する女性との結婚に国王夫妻から猛反対されていたらしい。皇太子の死因は自殺と発表されている。だが事件は、そんなに単純では無さそうであった。この事件、国内外で他国の謀略説が根強いのだ。犠牲者の遺体は検視すらなく葬られた。皇太子は、右利きのはずだった。それなのに、銃弾は皇太子の左こめかみに撃ち込まれていたのだ。だが、この疑惑が解明される気配はない。

世界史で有名---サラエボ事件

サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたのは1914年6月28日である。世界史では、この事件が第一次世界大戦のきっかけであったと習ったのを店長は覚えている。試験では、年号暗記に自分で語呂合わせを考えた。戦争に「行く意思ある」サラエボ皇太子、というものだ。何年たってもこの年号を覚えている。それはともかく、この暗殺には疑問が多いらしい。当時の複雑なバルカン半島をめぐる情勢から、オーストリア政府の関与が噂されている。だが、一般にはセルビアの秘密結社に関わっている青年が犯人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告を行った。これがきっかけになり第一次世界大戦へと戦火が拡大したのであった。暗殺された皇太子夫妻であるが、その結婚には、周囲のすべてが反対していた。身分の差が開きすぎていたからである。皇太子が妻に選んだ女性は、古い家柄の伯爵令嬢であった。だが没落して貧しくハプスブルク家の嫁になれる立場ではなかったのである。仮に皇太子が皇帝になっても妻には皇后の称号を与えない、子供が生まれても帝位継承権を与えない。その条件を妻は受け入れていた。彼女は宮廷で下女として働いているときに皇太子と恋におちたのであった。壮絶な宮廷内でのいじめに遭いながらも3人の子供に恵まれ、彼女は幸せに暮らしていた。それをオーストリアは戦争の道具として利用したのだ。なんという悲劇だろう。愛し合ったのが皇太子であったばかりに。

フィリピンの謎--今も残るマルコス黒幕説

フィリピンでは、マルコス大統領が独裁を強化し、国民は疲弊していた。その裏にはイメルダ夫人がいた。そして、国民の大多数は土地を所有できない貧困層であった。そして反マルコスを掲げた期待の政治家がベニグノ・アキノである。アキノは国外追放中であったが、命の危険を覚悟で帰国した。その計画を知ったとき、親交のあった石原慎太郎はアキノの帰国には反対していた。「帰国すれば身を拘束されるだろう。下手をすれば暗殺されかねない」そう言って懸念を表明していたが、果たしてその通りになってしまった。マニラ国際空港への到着直後のことである。警備していた兵士に後頭部を撃たれて絶命したのである。1983年8月21日であった。だが、いったい誰が命令を下したのか、明らかにされなかった。結局、マルコス政権は崩壊し、アキノの未亡人が後を継ぐことになった。

ブルース・リー親子怪死事件---陰謀説がいまだに燻ぶる

ブルース・リーが謎の死を遂げて20年後、今度は息子のブランドン・リーが亡くなった。撮影中の不可解な事故死であった。疑惑が疑惑をよんだ。親子そろって謎の死であった。20年後の呪いともいわれたが本当だろうか。「燃えよドラゴン」が世界的なヒット作になった時には、ブルース・リーはすでにこの世の人ではなかった。当時のハリウッドは白人至上主義であった。アジア人や黒人ではスターになれなかった時代である。同じことは大リーグにも言えた。今でこそ、黒人のスターがプロスポーツでもスクリーンでも活躍しているが、まだ人種差別が色濃く残っていたのだ。噂にすぎないというものの、映画ビジネスに絡んで、香港マフィアによる暗殺ではないか、あるいは中国本土の武術界による抹殺ではないかなど噂が世界を駆け巡っていた。息子の死は、撮影中にピストルの銃弾が誤って腹部に命中したからであった。謎である。

美貌のモナコ王妃は、ハリウッド女優---消されてしまったのか

ダイアナ元皇太子妃と同じように、自動車事故で非業の死を遂げた人物がいる。1982年9月14日であった。「モナコ王妃事故死事件」である。この清楚で完璧な美人と称賛されていたモナコ王妃は、ハリウッド女優出身「グレース・ケリー」その人であった。この事故は、いまも自殺それに他殺説が消えていない。

グレース・ケリー、フィラデルフィアで裕福な家に生まれ、22歳で女優になった。その美しい容貌が注目され「クール・ビューティー」と称賛された。そして、1950年代にトップスターの地位にあった。あの「マリリンモンロー」と人気を二分していたが、彼女は人気絶頂のころ惜しまれながら引退。豪華、華麗なロイヤルウエディングは世界中で話題になった。ところが、順風満帆はこの時まで。宮廷生活に馴染めなかった。さらに旦那の女性問題に悩まされ、わがまま三昧の子供たちに悩まされ、次第に酒浸りに陥った。彼女は女優時代に戻りたかった。華やかなスポットライトの世界へ戻りたかった。だが、いまやどうにもできなかった。すべてが暗転してしまっていた。自動車事故の直後から自殺ではないかと憶測をよんだのは当然でもあった。そして、さらにマフィアによる他殺説も、まことしやかに囁かれた。当時、モナコのカジノにはマフィアが群がっていたのであった。彼女はそれに心を痛めていた。そしてマフィアを一掃しクリーンなカジノを作るべく運動を繰り広げていたのである。店長は、この暗殺説を採用したいと思う。ダイアナ元皇太子妃にも通じるものがある。

劇場型犯罪のルーツ---イギリス発「切り裂きジャック事件」

英国ロンドン、1888年8月31日から11月9日に起きている、世紀の未解決事件。それこそ「切り裂きジャック」である。当時イギリスではようやく新聞社が興隆を極めようとしていた。そこへ犯行声明文を送り付け社会不安を煽ったのだ。現在にも通じる劇場型犯罪のルーツでもある。ロンドンの「イーストエンド」と呼ばれる地域で娼婦ばかり刃にかかってしまう。殺害方法は残忍極まりない。胴体と首がすぐにも離れてしまうほどの傷、さらに腹部が裂かれ、腸が取り出されていたという。わが国でいえば明治時代である。このころ、血液型や指紋などの科学捜査はなかった。だから聞き込みしか犯人を割り出す方法がなかったのである。挑戦的な犯行声明は、警察をあざ笑うかのようであったらしい。

史上最強の未解決事件---ジョン・F・ケネディ暗殺事件

事件後容疑者オズワルドが逮捕され、彼もまた射殺されてしまった。1963年11月22日のことであった。政府の公式見解は矛盾しており、オズワルドの他に真犯人がいるだろうことは誰の目にも明らかだった。だが、事件はやがて風化していった。事件当時は米ソが鋭く対立する「冷戦下」にあった。ケネディ大統領は史上最年少であり国民に熱狂的に迎えられた。この日はテキサス州ダラスでオープンカーでパレードを行っていた。銃弾は複数大統領に命中しており、単独で成しえる技ではなかった。狙撃手が数人、しかも別の位置から狙っていることは明白であった。だが、公式見解ではオズワルド単独犯だとされた。真犯人説は様々登場している。当時の副大統領説、マフィアの犯行とする説、CIA実行部隊とする説、キューバのカストロ陰謀説などがあった。ケネディ大統領の方針が邪魔だった組織が多く、それらのどれもが当たっているように思われた。後に弟のロバートも凶弾に倒れている。

元プリンセス「ダイアナ」さん不可解な事故死---暗殺説が世界を駆け巡った

英国王室の差し金ではないかと世界の話題になった。事故車に同乗していたのは、当時の恋人である、「ドデイ・アルファイド」彼は、イスラム教徒のエジプト人である。ダイアナさんは、チャールズ皇太子とは離婚していた。皇太子には、「カミーラ」というダイアナさんと結婚する前からの恋人がいた。1997年8月31日、パリ郊外のアルマトンネル内を制限速度の4倍の猛スピードで激突。ダイアナさんは1時間も現場に放置され、息を引き取ったのである。ダイアナ急逝の訃報は世界に打電されたのである。警察の発表では「ダイアナさんを付け回すパパラッチから逃れようと、加速を続け激突した」ということであった。しかしそれをすぐに信じる人はいなかった。英国王室にとっては、ダイアナさんの死は願ってもないことだったからであった。それはエジプト人の新恋人である。彼はイスラム教徒でもあり、もしダイアナさんが結婚すれば、王子の義理の父はイスラム教徒ということになってしまうのだ。それは、到底受け入れられない事態であった。そして事故後の新事実として、即死した事故車の運転手「アンリ」の口座に10万ポンド(日本円で2200万円)が振り込まれているのである。

マリリンモンロー・ノーリターン---闇に消えた死の真相

裸の遺体が発見されたのは、1962年8月5日であった。自宅寝室で発見された。監察医トーマス野口は「睡眠薬の過剰摂取による急性中毒」と診断し、「自殺の可能性が高い」と結論した。だが司法解剖の結果は、この結論に疑問を投げかけた。胃の中に服用したとみられる「バビタール錠」が発見できなかった。死の直前には映画出演が50万ドルで決まっていて、演技の訓練も続けていた。自殺説には疑問符がついた。さらに遺書も残されていなかった。電話の通話記録がなかった。そしてモンローには、全裸で寝る習慣はなかったのである。そのため他殺説が幅を利かすようになったのである。こうして世紀のアイドルは、疑惑の闇に沈んでしまった。そして、最も怪しい、とされているのが「ケネディ」兄弟であった。兄弟はモンローとただならぬ関係にあった。大統領の兄ジョンFは、上院議員の頃からの付き合いがあったらしい。弟の司法長官ロバートは、その夜モンローの家を訪ね、激しい口論をしていたとの証言もあったという。その後、ケネディ兄弟は相次いで暗殺されてしまった。そのため、モンロー死亡もハリウッドの闇に消えてしまったのである。

美貌と策略で大統領夫人に---貧困家庭に生まれた「エビータ」

国民から聖女と崇められた美しい女性。アルゼンチン大統領フアン・ペロンの夫人「エバ」である。貧困の母子家庭に生まれた彼女は幼少のころからお金持ちになりたかったという。15歳の時ブエノスアイレスに出る。彼女は世にも美しい女性に成長していた。野望は膨らみすすんで権力者にすり寄った。身体と美貌を武器にのし上がっていった。映画女優として活躍しているころ政界の実力者「ファン・ペロン」と知り合った。まず彼の愛人になった。エバの目標は、この実力者を大統領にして、自分はファーストレデイになることであった。エバはそのプランを練った。頭も良かったのだろう。当時、アルゼンチン国民の6割が貧困であった。エバは、その貧困層を味方にすることを思いつく。エバは彼にその策を授けた。労働者階級のリーダーを目指すのだ。そのためスラム街にも二人で出かけては、貧困層に耳を傾けた。やがてペロンは労働・厚生大臣に就任した。そして、貧しい労働者のためにさまざまな改革を打ち出した。第二次世界大戦が終結した時、ペロンは逮捕されてしまう。ナチスを支持した罪であった。だが、エバの飛躍はここからであった。彼女はペロンの支持者をまとめ、ペロン釈放のデモを繰り広げたのである。ペロンは労働者階級での英雄となっていた。釈放後すぐにペロンはエバと正式に結婚した。そして、国民の多数を支持層に持ったペロンは大統領に選出された。ここにエバは野望を完成させた。彼女は、女性に参政権を与え、貧民層の優遇政策を推し進めた。「聖女」と崇められたのはこの頃である。しかしエバの幸福は続かなかった。ガンに冒されたのである。1952年、33歳の素敵な生涯を閉じた。アルゼンチン国民は、深い悲しみに陥り3カ月も喪に服したという。そして「怪事件」はここからである。美貌のエバの遺体は、ペロン失脚とともに忽然と姿を消す。新政府は「遺体のエバ」が反勢力のシンボルとなることを恐れていたと云われる。亡命していたペロンに帰国が許されたとき、エバの遺体がようやく彼の元に戻された。犯人は誰だったのか不明のままである。