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「邪悪な夢・異常犯罪の心理学」第2弾です。加害者の心の闇に焦点を当てて、その犯罪が引き起こされた要因を探ってみます。当該犯罪者の社会心理面と時代背景を読み解いて、なぜその犯罪が引き起こされたのか、どうすれば良かったのかを解明します。意欲的なコンテンツを目指します。応援をよろしくお願い致します。

 

婦女暴行の代名詞となった強姦魔---「大久保清事件」が残したもの

事件発覚当時、犯行に使われた人気マツダ車「ファミリアクーペ」は思わぬ風評被害を受けていた。その白いクルマは彼の重要なアイテムであった。そのため新聞報道には連日「マツダの白いクーペ」は記事になっていた。この強姦魔の名前をご記憶だろうか。希代の強姦魔「大久保清」である。昭和犯罪史を語る上でなくてはならない名ではある。では事件を振り返ってみたい。1971年(昭和46年)3月から群馬県下で年若い女性が次々と行方不明になっていた。ちょうど前年の1970年には「三島由紀夫割腹自決事件」が起きているが、日本経済が進展し様々な社会問題を孕みながら経済成長を遂げていた時代である。スポーツタイプのクルマで女性をゲット(当時ではガールハント)するのがいわば定番ともされた牧歌的な時代であった。出会い系サイトも無ければインターネットもまだ出現していない。ましてや群馬県下で発生していた女性行方不明事件である。逮捕当時マツダファミリアの走行距離はなんと9537㌔であった。1日平均では200~300㌔を走行した計算である。彼が声をかけた女性は2カ月間で150人にも上っている。そしてファミリアクーペに乗ってきた女性は50数人、そのうち20数人と関係したという。さらに強姦され埋められた被害女性は8人であった。遺体が発見される度に報道は熱を帯び、いつしか「大久保清」の名は「強姦殺人魔」の代名詞と化していった。では、40日間の連続殺人を時系列で再現しよう。

①3/31 多野郡の女子高生17歳を2回目のドライブで絞殺した。殺害現場は榛名湖畔。

②4/6  高崎市のウエイトレス17歳をこれも2回目のドライブで絞殺。殺害は造成中の工業団地。

③4/17  前橋市の職員19歳を5回目のドライブで絞殺。殺害現場は上記と同じ工業団地。

④4/18  伊勢崎市の女子高生17歳を3回目のドライブで絞殺した。殺害現場は砂利採取場。

⑤4/27  前橋市の女子高生16歳を3回目のドライブで絞殺。殺害現場は前出の工業団地。

⑥5/3   伊勢崎市の公社職員18歳を2回目のドライブで絞殺。殺害現場は前出の工業団地。

⑦5/9   藤岡市の会社員21歳を最初のドライブで絞殺。殺害は桑畑であった。

⑧5/10  前橋市の無職21歳を7回目のドライブで絞殺。殺害現場は畑。

殺害された女性の半数は女子高生たちであった。ベレー帽を被って画家を自称する「ヘンなオジサン」になぜ女子高生たちが簡単にクルマに乗ってしまったのか。当時の新聞報道は、被害者には酷な論調がまかり通っている。「なぜこんな男の誘いにのってしまったのか」

なぜ群馬の女性は騙されやすいのか」などと。経済が熟していた時代である。喰うためだけに真剣な時代から芸術的なゆとりの時代に移行しようとしていたのだ。その時代背景を考慮しないと真相が見えて来ない。「---絵のモデルになってくれませんか? 私は画家です。私のアトリエまでドライブしましょう」この誘い文句で50数人が「マツダの白いクーペ」に乗り込んだ。群馬の女子高生たちにはなんとも甘美な誘いかけであった。この自称画家は「白馬にまたがった王子様」ならぬ「白いクーペを運転する殺人鬼」であった。「大久保清」1976年1月22日、東京拘置所にて死刑執行。いったい彼はどのような生育環境にあったのか、検証してみる。「大久保清」は高崎市で生まれた。裕福な家庭であった。彼の母方の祖母はロシア人である。つまり彼はロシア人クオーターである。事件が発覚したとき彼は36歳であったが、母親は彼を「ボクちゃん」と甘い声で呼んでいて、それがこの時に流行語になっている。清を溺愛していたようだ。そして彼は大変早熟だったらしい。小学校6年生で早くも性欲が亢進し、同級生にいたずらして問題になった。ロシア人もそうなのだろうか、と世間の人は妙な納得をした。1審の判決で彼の両親が厳しく断罪されている。曰く「父親の性的な放縦、母親の冷血で利己的な血を受け継いでいる」と。また、取調官の吐いた言葉も語り草になった。曰く「へびの血でさえお前の身体に流れている血よりは温かいぞ!」彼は容易に自供しなかったが、噂にすぎないが、大久保清の枕元に殺した女子高生の霊があらわれたせいだともいう。

”永山則夫”を超えた凶悪少年---「市川一家4人強盗殺人事件」の救いの無さ

事件当時19歳であったために実名を伏せられた凶悪犯の名前は「関光彦」だ。この殺人鬼を憶えておいて欲しい。読み方は「せき てるひこ」だ。彼の名は、たぶん犯罪史に残るだろう。「関光彦」---現在死刑執行を待つ身である。事件は、1992年(平成4年)3月5日に、千葉県市川市幸2丁目のマンションで発生した。押し入った当時19歳の少年が一家4人を殺害した。彼は、フィリピンパブの女性従業員を自宅に招き入れ強姦していた。従業員を強姦されたパブの経営者は激怒した。そして、関光彦に”落とし前”を付けさせるために、ヤクザに相談する。それが世にも残忍な強盗事件へと彼を誘ってしまうのである。彼はヤクザから狙われるハメになった。一度は捕まって手ひどいリンチを受けている。さらに、そのヤクザから200万円を要求されていた。クルマで帰宅すると強面の男たちが待ち構えている。家には入らずに逃走。そう、関光彦は、手段を選ばずにお金を作る必要に迫られていた。彼は幾たびも強姦致傷で警察の厄介になっていた。「真面目に働いてお金を作ることなど」考えたこともなかった。では知能もなかったのかと云えばそうではない。彼がこのマンションを強盗のターゲットに選んだのは、ここの住人に女子高校生の娘がいることを知っていたからである。なぜなら、この少女は関光彦に1度強姦されたことがあり、生徒手帳を奪われていたのだ。彼はその際に住所や名前を控えていた。部屋に押し入ってお金を奪い、家族の尊い命まで奪ったのである。そう、ここまではありがちな強盗殺人である。だが、彼は違った。事前調査まで行っていたのである。家族構成、父親の職業、滞在時間、侵入経路、犯行シナリオまで考えた。目の前で家族を殺され、怯えている少女に襲い掛かる。そして血の海の中でこの少女を強姦した。なんと2度目の強姦であった。読者の皆さんは想像できるだろうか。この状況下で劣情を催すとは。少年犯罪とはいえ、「関光彦」に死刑判決が下されたのも当然であった。彼は、どんな環境下で育ったのだろうか。健全な家庭ではなかったと容易に想像できる。彼の境遇が暗転したのは小学校3年生の時である。ギャンブル狂いの父親に母親は愛想を尽かして家を出て行ってしまう。つまりは両親の離婚である。同時に光彦少年は極貧家庭へと投げ込まれてしまう。彼の心が歪んでいくのは、小3の時に遭遇した、この家庭不和が発端であった。光彦少年は、風呂にも入れず、臭かったようだ。彼は級友から「臭い、汚い」とからかわれイジメられたらしい。同じく「永山則夫」も同様に極貧家庭に生まれていた。彼は親にも見捨てられ、餓死同然の小学生時代を過ごしている。昭和の貧困と平成の貧困に何ら差異は無いだろう。どちらも未成年が故に実名報道が自粛された。死刑囚の「関光彦」には、今日も、犯した罪を後悔する様子がないという。店長の私見だが、20歳になっていなくても、義務教育を終えていれば、その加害者を手厚く守る必要などどこにもない。どちらにせよ、ネット社会においては、個人情報など「ダダ漏れ」になるのだ。いつの時代からなのか、犯罪を取り巻く日本人は感性が逆転している。被害者の”人権”を無視して、不確かな情報でも興味本位に書き立てる。その反面、加害者の人権を手厚く保護し、社会が税金まで投入してその生命を護っている。どこか間違ってはいないだろうか。

戦後の日本で起きた信じられない事件---父親に弄ばれた娘の悲惨「栃木実父殺し事件」

皆さんは、栃木県で起きたこの悲惨で忌まわしい事件を知っていましたか?店長の私は、日本ではこの種の事件は起きないと考えていた。ところが、現実に父娘間のレイプは珍しい事ではないようである。児童相談所には夥しい件数の相談が寄せられているらしい。ただし、それが表沙汰になるのは、こうした事件が起きてからである。事件を振り返ってみる。実の父親の子供を5人も生んだ娘がいた。彼女の名を「相澤チヨ」という。14歳で実の父親に処女を奪われた。それから15年も父親に自由を奪われていた。皆さんは想像できるだろうか。1968年(昭和43年)10月5日(相澤チヨ29歳)である、栃木県矢板市の市営住宅でその父親殺しが起きた。父親は泥酔していた。そして当然のように彼は娘の身体を求めていた。彼女は、すでに覚悟を決めていた。「もうこれ以上耐えられない、あの獣を今夜こそ退治しよう---そして人生を取り戻そう---」父親は娘を支配し、15年も性の奴隷にしていた。もう父親から逃げることを諦めていた。すでに5人も父親の子供を出産していた。この日も身体を要求してきた。娘はこれを払いのけ、馬乗りになって獣の首を絞めた。店長の私は、日本では起きないことだと思っていた。諸外国では稀に見聞することもあるが、日本では起こり得ないと思っていた。だからこの事件を知った時には唖然とした。1973年4月4日最高裁は犯人の「相澤チヨ」に懲役2年6ヶ月執行猶予3年の温情判決を下した。情状酌量が十分考慮された判決であった。というのも、当時父親殺しは死刑か無期懲役とされていたからである。これを「尊属殺人」という。殺人でも自分の親殺しが最も重い罰を受けたのだ。だが、この事件以降は有名無実化し適用されなくなり、やがては正式に廃止された。その契機になった事件でもあった。「相澤チヨ」は14歳の忌まわしい夜の出来事をある日母親に打ち明けている。それを知った父親は逆上し、包丁を持って母親と娘を追いかけ回し「おまえらあ!ぶっ殺すぞオ!」と叫んでいる。それから父親のチヨへの性交強要がさらにひどくなった。母親は他の兄弟を連れて家を出た。だが、チヨを連れ出すことが出来なかった。父親が妨害して引き離すことが出来なかったのである。家庭崩壊しても父親はチヨを自由にさせなかった。父親殺害を決意したのは、彼女に好きな男性が出来たからである。その男性に告白し、父親にその男性との結婚の希望を告げたが跳ね返された。「おまえがこの家を出ても、どこまでも追いかけるぞ!」と大声で喚いていたそうだ。まるでストーカーのセリフである。彼女は、普通ではない父親のもとで生まれてしまった。そして14歳から15年間、実の父親に人生を台無しにされた。この不運以外にどのような「不運」が世の中にあるだろうか。店長が思うに、この父親は重度の精神障害を患っていたのではないだろうか。ほかに説明ができないのだ。とにかく、この昭和43年には歴史的事件が多発している。これらを俯瞰しておく。この時代の息吹を感じ取ってもらいたい。この年の同じ10月に「永山則夫事件」が発生している。12月には「3億円事件」が発生した。疑惑の「札幌医科大学心臓移植事件」は8月9日の暑い夏であった。(この項は「血も凍る女の重大事件簿<その2>とコンテンツを共有しています)

パリからの便り---「佐川一政パリ人肉嗜食事件」の衝撃

遠くパリからびっくり仰天のニュースが届いた。1981年6月11日、留学中の佐川一政は、オランダ人の女子大学生をダマして部屋に招き入れる。そして、その肉を食べる目的で射殺する。佐川は、記念撮影しながらその遺体をレイプした。こうして佐川には至福の時間が訪れる。彼は射殺した女子学生のカラダを解体した。もうここまでで十分異常である。さらに太ももと胸の肉片を細かく切り、フライパンで炒めた。二日にわたり、その人肉を塩、胡椒、辛子で調理、味付けをして食べたのであった。彼は「大腿部の肉を生で食べたが、マグロのようで美味かった」と恐るべき感想を残している。人肉を口に入れた瞬間、佐川は魂が震えるほどの喜びを感じていたらしい。そして他の部位は、あとで食べるつもりで冷蔵庫に保管した。ところが、食べ残した遺体から悪臭が漂い始めたので、それ以上食べることを諦める。残りの部位をスーツケースに詰めた。翌日、ブローニュの森の公園そばの池に投棄しようとした。その池の付近でカップルと遭遇する。佐川はスーツケースを放り出して逃げた。だが、すぐに見つかり逮捕された。この佐川には文学の才能があったらしい。仏語で著した修士論文は出版される直前だったという。佐川は、小学生のころから人の肉片を食べたくて仕方がなかった。彼はそのことでずっと悩んでいたそうだ。16歳のとき精神科医の元を訪れ相談しようとした。だが相手にされなかった。このとき、何か適正な処置が行われていれば、この事件は起きなかったかも知れない。そして、怪奇文学の世界で彼の才能が発揮され、すぐれた文学作品を後世に残したかもしれない。現地の法廷で佐川一政は、「心神喪失」と判定され無罪となった。これには、父親が有能な弁護士を雇ったせいではないかと噂される。佐川は犯行前も後にも計画を練り、合理的ともいえる行動に出ている。「心神喪失」が正しい判定だったのか、店長の私にははなはだ疑問に思う。そして、無罪となった彼は、精神病院「アンリ・コラン」に収監された。1984年に退院、国外追放となり帰国をする。帰国後、精神科の専門病院都立松沢病院に入院。そして退院後、創作活動を続けている。この佐川一政であるが、未熟児で生まれたためか、発育が正常ではなかったようだ。身長は150cm足らず。頭脳明晰であったらしいが、身体上の劣等感には相当悩んでいたようである。彼は、彼にとって大柄な白人女性に異常な程憧れたらしい。それが幼少期の人肉食欲求と結びついてしまった。事件後、彼はオランダ人学生に激しい恋愛感情を抱いていた、と報じられたが、後の供述ではそれを否定している。彼は今どうしているのだろう。先ごろ、彼は脳梗塞を発症し治療中であると1部の週刊誌に報じられた。店長は、この事件は、1988年に発生する「宮崎勤連続幼女殺人事件」と共通点があると思う。犯人はどちらも未熟児で虚弱体質である。どちらも水準以上に裕福な家庭に育ち、どちらも両親から甘やかされて育った。では「佐川一政」は、どうすれば良かったのだろうか。彼には文学的才能があったとされている。その方面に磨きをかければ、彼は後世に残る文学作品を残していたかも知れない。店長の私は、とても残念に思うのだ。

無謀な脱サラ・割烹店経営に失敗---連続強盗殺人犯「澤地和夫」の罪と罰

その凶悪犯「澤地和夫(当時55歳)」は4年前まで警官であった。退官時の階級は警部である。1984年(昭和59年)11月11日、11月25日の両日、膨れ上がった借金の返済に困った澤地和夫は、凶悪事件を引き起こす。澤地は借金苦によって人の心を失っていた。彼は追い詰められていた。そして最初の事件が起きた。宝石商の太田三起夫さんをダマして殺害、貴金属6千万円相当を奪う。さらに、金融業者の滝野光代さんを呼び出して絞殺し、4千万円を奪う。澤地和夫は、「山中湖連続強盗殺人」の主犯者として逮捕された。1993年7月5日、澤地は死刑制度に反対するあまり、法務大臣に抗議し、上告を取り下げる。そして死刑囚となってからの澤地は、まるで「犯罪評論家」のように週刊誌に執筆を繰り返す。「アサヒ芸能」には「わが遺書」と題するエッセイを15回に渡って連載した。澤地が書く原稿は美しい文字が並び、その歯切れの良い文章は、彼が水準以上の知性を備えていたことを物語る。その彼が、なぜ死刑囚の境遇に堕ちてしまったのか。彼は「割烹店の経営」よりはむしろ「犯罪評論家」に向いていたと思う。才能の発露先を間違えている。大衆割烹店開店が、長年の夢であったというなら、なぜ自己資金が0円であったのか。当初の借入金はおよそ4千万円であるが、澤地には担保さえもなかった。同僚の現職警察官が保証人になってくれた。新宿西口に出店した割烹店は「はし長」という。借金での開店にしては規模が大きすぎると思う。地下1階に40席、2階と3階には宴会専用のそれぞれ20席の和室があった。開店当初こそ元同僚や部下が宴会を開いてくれた。それ故に開店半年ほどは繁忙を極めた。だが、当然の事だが、彼には運転資金が不足していた。借金は一向に減らない。追加融資も受けられない。累積した借金は1億5千万円にもなった。1983年7月に閉店。保証人になっていた同僚は、代行返済のため自宅を手放したという。それも一人だけではなかった。澤地和夫は思い悩んだ。もとより彼は生一本の真面目な人柄である。同僚が保証人になってくれたのもその人柄を敬愛していたからだ。だから彼は余計に悩むことになる。彼が出した結論は”他人のお金を奪う”ことであった。そして、彼はドストエフスキーの名作「罪と罰」を愛読していたという。「澤地和夫」---彼は、人並み以上の知性と教養がありながら、家族の反対を押し切り、勝算もない無謀な脱サラにふみ切り、自ら進んで破滅した。仲間に迷惑をかけたばかりか、強盗殺人まで犯してしまった。人は誰でも過ちを犯す。料理好きが昂じるのは悪い事ではない。だが、好きだけでビジネスは成り立たないものだ。澤地和夫は開店前に十分な立地調査を行ったのだろうか。彼は、確定死刑囚になって初めて「犯罪評論家」の方面に才があることに気が付いたのではあるまいか。だとすればこんな悲劇は無い。獄中でその文学的才能を発揮した「永山則夫」と共通点がある、と店長の私は思っている。2008年12月16日「澤地和夫」は、胃がん治療中に多臓器不全を併発し、死刑執行前にその不本意な生涯を閉じた。享年69であった。

終戦直後、殺し合いに発展した「アナタハンの女王事件」---若い女性をめぐって男たちは殺し合った

太平洋戦争が終結する1年前の1944年(昭和19年)6月、日本軍への食糧を輸送していた漁船が米軍の攻撃を受けて沈没した。生き延びた乗員30名が「アナタハン島」に上陸を果たす。この島は、サイパン北120㌔付近の小さな島であった。無人の島ではなかった。ここには日本人の農園技師と、夫に取り残された一人の女性が住んでいた。島に上陸した30人は、この日本人たちと合流する。つまり、一人の女性と31人の男とが共同で暮らすことになったのである。女性の名前は「比嘉和子(事件当時28歳)」沖縄出身である。これが「アナタハンの女王事件」と呼ばれる凄絶な殺し合い事件の幕開けであった。しばらくすると、気の合った者同士に分かれて暮らすようになる。「和子」は、農園技師と関係を持って暮らし始めた。彼らは1945年8月15日の終戦記念日を知らずに島で生活を続けたのだ。そして翌年、山中に墜落したB29が発見された。その機体の中に存在した物こそ「悲劇」を呼ぶ代物であった。「ピストルと弾丸」である。そのあとで彼らがどうなるのか、容易に想像できる。ピストルを手にした男は、農園技師を脅して「和子」を奪ってしまう。ところが、この男が殺されるのだ。さらに「和子」を巡って殺し合いが続いた。殺された男は合計で9人になった。残った男たちは集まって協議した。「---この際、和子を殺してしまおう」その夜であった。「和子」の部屋にメモ書きが投げ込まれる。「逃げろ!殺される!」身の危険を感じていた彼女は、すぐにジャングルに身を隠す。数日後、小笠原の漁船が見えた。彼女はジャングルを飛び出し大声で助けを求めた。1950年5月であった。この「アナタハン島」では、太平洋戦争とは違う戦争が始まっていた。極限状況に投げ出された20代の男たちであった。リーダーの不在、ピストルの発見、露出度の高い布を纏っただけの女性の存在。これらが揃ったとき「女性争奪戦争」が持ち上がってしまった。やがて生き残った20名の日本人たちがようやく帰還する。1951年7月6日であった。この「和子争奪戦」は7年も続いている。そしてその間に13人が死んだ。特異な事件は時効が成立、全容が解明されたわけではなかった。彼女は「アナタハンの女王」と云われ、長く語り草になった。数奇な運命に翻弄された「比嘉和子」は、沖縄に戻って結婚し1972年に死去した。享年52歳であった。

第一通報者故の嫌疑をかけられた「河野義行」さんの悲劇---「松本サリン事件」への終わらない怒り

犠牲者の一人は「河野義行」さんの妻澄子さんであった。澄子さんはサリンを大量に浴びたために14年間意識が戻らなかった。その物言わぬ妻の看病を続けていたが、とうとう2008年8月5日、澄子さんは意識が戻らぬまま旅立ってしまった。「河野義行」さんは、事件発覚から9カ月もの間、犯人同然の扱いを受けたのである。疑いが晴れたのは「地下鉄サリン事件」が発生したからである。カルト集団「オウム真理教団」による犯行であった。過去に例がないほどの過激な「報道被害」と云えた。この14年間というもの、怒りや悔しさを感じない日はなかった。澄子さんが亡くなってから、「河野義行」さんは、その苦難の体験について考え続けた。ある日、河野さんを訪ねて来る人があった。10年間刑務所で過ごし刑期を終えた人の名は「藤永幸三」であった。元オウム真理教信者であり「松本サリン事件」で使われた噴霧車を作った人物であった。この犯行を計画したのは、後に刺殺される「村井秀夫」である。彼は事件後に「毒性が強すぎた---」と、事も無げに言ってのけたという。「藤永幸三」は、幹部の村井から命じられるままにこの噴霧車製作に着手する。詳細は知らなかった。まさか、この装置が大量殺人兵器であろうとは。事件後、藤永は甚大な被害を出したことを知る。彼はひどくショックを受けた。河野さんに謝罪することを服役中から考えていた。そして、その時がきた。「藤永幸三」は、謝罪するために河野さんを訪れたのだ。河野さんは、このとき「彼は償いを終えて詫びるために来てくれた。---もう恨みを持たないことにしよう---限りある人生をつまらないものにするのも、豊かな心で生きるのも自分なのだから---」と、思い直す。河野さんは、藤永が庭木の手入れができることを知る。そして庭木の手入れを彼に任せることにしたのである。藤永は月に1回河野宅にやってくる。庭木の手入れをするためである。死刑を待つ身となった教祖「麻原彰晃」への恨みの感情が消えたとき「河野義行」さんは、澄子さんの死を前向きに受け入れることができたのだ---

美しい女性に嫉妬した”孤独な革命家”「永田洋子」---彼女の”恋人”は「左翼思想」であった

日本にも存在した政治カルト集団、その名も「連合赤軍」である。当時は「新左翼」と呼称されていた。この「連合赤軍リンチ殺人事件」が発覚したのは1971年であった。武力による革命を志向する彼らは、銀行を襲い、銃砲店を襲い、そしてアジトを設営して武装訓練を開始する。この「連合赤軍」の残党5名が軽井沢の別荘に人質を取ってろう城したのが「あさま山荘事件」である。警官隊と激しい銃撃戦が繰りひろげられ、その様子はテレビ中継もされた。視聴率は89.7%を記録したそうである。この「あさま山荘事件」の解決後に彼ら「連合赤軍」の驚愕するリンチ殺人が発覚する。---「総括せよ!」リーダー「森恒夫」と「永田洋子」がこう宣言するとそれは「私刑にせよ」と同義語であった。「死」を意味したのである。はて、どこかで似たような事件が---「ポアせよ!」の宗教カルト「オウム真理教事件」である。時代背景の違いが、こちらでは「政治カルト」であり、記憶に新しいのが「宗教カルト」なのであった。両方とも、世の中に不満があり現状を打破したいと願う「理系秀才」が絡めとられてしまった。その点において共通点がある、と店長は勝手に考えている。このリンチ事件は「山岳ベース事件」と名前が付けられている。また、このアジトから脱走した二人を探し出し殺害して埋めたとされる「印旛沼事件」が直前に起きていた。「山岳ベース」で殺害されたのは12人である。永田洋子たちは、計14人を私刑にしてしまった。事件が明るみになるや世間に衝撃が走ることとなったが、同時に学生たちの「左翼的な活動」は急速度に収束に向かった。極論すれば、若者たちの「興味と関心」が世の中の矛盾や有り様に向かわず、極めて個人的な問題だけに向かい始めたのである。「永田洋子」---事件発覚当時、もう少し人並の容姿で生まれていれば、こんな凶悪犯罪を起こさなかっただろうとまで云われていた。彼女は、醜い容姿のために恋愛や結婚には縁がなかった。ここからは、店長の勝手な想像であるが、彼女はその少女時代から、容貌に劣等感を抱いていたに違いない。男子生徒からイジメられもしたであろう。おそらく、男女交際よりもいっそう勉強に打ち込んだと思える。”女性は見た目が一番”といった風潮を呪ったとしても不思議ではない。彼女が革命思想にのめり込んだ理由は、そのあたりにあるのだろう。そのせいなのか、同志たちの「恋愛」沙汰には特に神経過敏になっている。「山岳ベース」では、妊娠していた同志もいた。その「妊婦」に対しては自らリンチに加わった。彼女は、妊婦のおなかを容赦なく蹴りつけたそうだ。「森恒夫」はひたすら「左翼思想」の観念の世界に堕ち込んでいたが、「永田洋子」は、顔が美しい女性を憎悪した。妊娠するなんてもってのほかであった。嫉妬に狂った孤独な革命家「永田洋子」---2011年2月5日、最後まで再審請求を続けていたが、死刑執行を待たず、脳腫瘍のため獄死した。享年65歳であった。たぶん、この時代が選んだ女性だったのだろう。「革命思想」に恋をして「革命思想」に生きた「永田洋子」彼女は幸せだったのだろうか。現在に生きる女性なら迷わず”整形手術”にふみ切ったであろうに。そして、もう一方の「森恒夫」だが、逮捕の翌年獄中自殺を遂げている。彼女たちは、いったいどのような夢を見たのだろう。

わが国初の心臓移植ドナーは、生きているのに心臓を摘出されていた---疑惑の「和田心臓移植」驚愕の真実

当初こそ、その報道は驚きと歓喜をもって日本中を駆け巡った。それは「日本初の心臓移植手術に成功」というものであった。昭和43年8月8日である。この移植手術については、執刀医の和田寿郎札幌医大教授(当時)は殺人罪で告発された。だが関係者による信じられない口裏合わせが行われ、うやむやにされてしまい、和田教授を裁くことはできなかった。医学界が一致して真相に封印をしてしまった。移植手術後83日で宮崎信夫青年は早すぎる人生を閉じてしまった。彼の疾患は必ずしも心臓移植を要するものではなく、他の適切な治療が実施されれば20年以上長生きしただろうと云われていた。また心臓提供者の山口義政青年は、海水浴で溺死したとされていたが、真相は違っていたらしい。彼は救急搬送中に必死の救命隊員の心臓マッサージにより、呼吸が自然呼吸に戻っていたという。さらに、搬送された病院では「筋肉弛緩剤」を投与されていたらしい。これは「殺人」ではないだろうか。移植手術当時は、関係者は口裏合わせをしていたが、30年以上も経過してようやく真実を明かす関係者も現れ始めた。青年の意識はまだ回復していなかった。だが、その意識が戻ることは二度となかったのである。そのとき、生きていた彼の心臓は取り出されてしまったからである。さらに驚くべきことに、山口青年の心電図の記録は破棄されていた。脳波や血圧の記録もないのだ。つまり周囲の医師たちは、蘇生した彼を生かそうとする努力を一切行っていないのである。搬送された病院で彼の姿を見た当時の麻酔医は「異常な光景」を目撃している。「まるで手術直前の様相を呈していた」という。1947年8月14日札幌地検は「嫌疑不十分」として和田寿郎教授を「不起訴」とした。傲岸不遜の彼は、昭和62年東京女子医大を65歳で定年退職した。人の命よりも自らの医学的功名心を優先させ、この移植手術は、二人の若者の未来を無慈悲に奪ってしまった。これが、心臓移植の発展に必要であったとは到底思われない。この名を覚えておいて欲しい、「和田寿郎札幌医大教授」---彼は、医師になるべきではなかった。人の命を救うのが医師の仕事であるが、彼は人の命を犠牲にしても自分の名声が欲しかった。「虚栄の篝火」に照らされたなんと空しい一生であろうか。(この項は「歴史に埋もれた重大事件<その1>」とコンテンツを共有しています)

残念な”自殺サイト”報道----「ドクターキリコ事件」の憂鬱な背景

この事件は、1998年(平成10年)12月12日、杉並区在住の女性(当時24歳)が自宅で青酸カリによる服毒死を図ったことから発覚した。彼女はネットで薬物を購入していたが、送り主の記載された伝票が残されていた。高井戸署が調べたところ、札幌に住む塾講師「橋本直明」(事件当時27歳)であった。署員からの電話に「---ええっ!あのカプセルを本当に!------彼女が死んだら---ぼくも死にます---」電話の向こうのただならぬ様子に、高井戸署は女性の死亡を隠すことにした。この時点では、送り主は「草壁竜二」名を使っていた。警察が札幌市に向かったとき、彼もまた青酸カリを服用していたのだ。当時この事件は、平成のネットによる「遠距離心中事件」と大々的に報じられた。図らずも「草壁竜二」は、被疑者死亡のまま殺人ほう助罪に問われる。彼が死んでしまったので「真相」は藪の中に消えた。だが、事件記者の取材などで、この事件の憂鬱な背景が明らかにされた。まず「心中」ではなかった。そして「自殺願望サイト」の存在が明らかになった。このサイトは「安楽死狂会」というもので、もちろん事件発覚後即座に閉鎖された。このサイトには「キリコの部屋」というコンテンツがあり、それは自殺願望に苦しむ男女が意見を交換する”自殺コミュニティ”であった。簡単に説明を加えると、「ドクターキリコ」は、手塚治虫の人気漫画「ブラックジャック」に登場する医師で「安楽死」の専門家である。このコンテンツでは、自殺願望に悩む人に「草壁竜二」が””その量では死ぬことが出来ません”などとアドバイスしていた。また、時には青酸化合物を希望する人に頒布していた。彼もまた根強い自殺願望に苦しんでいたが、青酸カリの入ったカプセルを身に着けることで克服していたという。閉鎖されたサイト「安楽死狂会」の管理女性は警察で事情聴取に応じた。「キリコの部屋」に「草壁竜二」を招いたのはこの女性だった。報道された事実は間違いだと主張している。”彼は真摯にアドバイスを行っていた。青酸入りカプセルを頒布したのは「服毒死」のためではなかった。むしろ自殺を抑止するためにカプセルを頒布していた”のである。平成10年の頃、生活ツールとしてのインターネットはまだ”花盛り”ではなかった。だから世間では、この事件は余計に奇異な現象として受け止められた。ここで問題にされなければならなかったのは「安楽死の是非を巡る論議」であったはずである。また、世間では相当数の「自殺願望に苦悩する人たち」が生きていることが知られることになる。この「草壁竜二」はメディアからバッシングを浴びた。だがサイトの掲示板には好意的な意見が相次いだのである。この報道を契機としたのかどうか、その後「自殺関連サイト」が激増することになる。また、掲示板で”自殺仲間を募るといった不適切な”書き込みも増えたのだ。