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最近の犯罪第3弾です。世の中を震撼させた犯罪が登場します。事件の背景を検証します。

動機は「無理心中?」元警官家族殺害の憂鬱

福岡県小郡市で母子3人の遺体が見つかった事件で、元警官の父親が2017年9月15日に再逮捕された。同期は無理心中と思われる。

再逮捕されたのは「中田充元巡査部長39歳」だ。容疑を否認している。捜査を待ちたいが、母親が子供を道ずれにした可能性もある。

何があったのだろうか。この記事は執筆中です。

崩壊する家族---「千葉息子監禁衰弱死事件」の憂鬱

世間に衝撃を与えた事件が発覚した。場所は千葉県市川市である。1991年12月から1992年4月までの5ヶ月の間、父親(当時48歳)は、非行に走る17歳の息子を家庭で拘束し、食事も満足に与えなかった。トイレ代わりにバケツを持たせ、入浴さえ許さず、行動の自由を奪い衰弱させたのである。1992年4月24日、様子がおかしくなった息子を父親は病院に運ぶ。5月7日、病院で治療を受けた息子は死亡する。この、およそ信じられない事件発覚に世間は震撼する。発端となった家族の出来事は、ありがちな話なのである。母親の死とそれに続く父親の再婚だ。おそらく、新しい母親には馴染めなかったのだろう。17歳の男子は、微妙な年ごろだ。父親は、再婚するにあたり、息子と十分な話し合いを行なっていたのだろうか。長男は家から現金を盗み出し、外泊を繰り返した。手持ちのお金がなくなるとその都度万引きをして通報されている。父親は激怒した。息子は、父親を困らせようとして非行に走ったのだ。父の再婚が気に食わなかったのだ。だが、この不幸な父親は、息子の心情を全く理解できなかったようである。それは、必要以上の体罰を与えたのをみても容易に推察できる。17歳の息子には、新しい母親はどこまでいっても”異性”であった。これは、報道されていないので、店長の勝手な想像であるが、息子はこの母親に複雑な感情を抱き始めていた。”母親”としてみることが出来なかったのだろう。それがどのようにつらい事か、本人にも、もちろん父親にも分からなかったのではないだろうか。息子にとって、新しい母親は「女性」以外の何物でもなかったのだ。家に帰らず、無断外泊を続けたのは、そのような複雑な想いを彼なりの方法で解決したかったのではあるまいか。17歳の少年にとって、父親と「女性」がベッドを共にすることにとても耐え難いものだったと思える。再婚してきた新しい母親も同罪であった。彼女は、息子の監禁を黙って見ていたのだろうか。父親と闘っても監禁をやめさせるべきであった。店長が思うのに、加害者の父親も息子への対応を誤っている。お互いが「子供のまま」なのである。父親は、再婚よりも先に息子を独立させれば良かった。せめて再婚は、息子の成人式まで待つべきだったのではないだろうか。「男」はいつまでも「成長」しないものだ。やれやれ---憂鬱な気分をぬぐえない。

”性春を謳歌した”高校生---岐阜県中津川市が揺れた青春の殺人者「岐阜中2女子殺害事件」

この事件の犯人は15歳の男子高校生である。そして被害者は13歳にすぎない女子中学生だ。一見、若いカップルの愛憎劇のように見えるが、実はそんな単純な事件ではない。岐阜県のみならず世間が仰天し、暴露サイト2チャンネルが大盛り上がりをした”性春”事件であった。2006年4月21日に、行方不明になっていた中津川市立第二中学校の2年生「清水直さん」の遺体が廃墟になっていた店舗で発見された。被害者らしき女子中学生と男子高校生とが言い争いになっていたところを目撃されている。この二人は、世間の中高生よりも性的に早熟で、おそらく”乱行状態”にあったと噂される。加害者の男子高校生には、驚くべきことに2歳になる子供がいた。その母親は被害者の中学生ではない。別の女子高生だ。つまり、彼は13歳にして父親だったことになる。この子供は施設に預けられて誰も面倒を見ていないそうだ。警察は、被害者の交友関係を洗った。そこで浮上したのが男子高校生である。彼は取り調べで素直に少女殺害を認めた。生徒は「---言い争いになりカッとなって殺した---」と供述している。ここから、店長の勝手な妄想であるが、彼らにどのような争いがあったかを再現しよう。たぶん、それほど的外れではないだろう。13歳になる被害中学生は、友人に「わたし、妊娠したかも---」と話している。彼女はもちろん彼氏(この事件の加害少年)にも告げようとしたに違いない。「---ねえ、あんたの子だわ---」「嘘つけ!誰だかわかるもんか!」「---何を言うのよ。ひどい!」「お前は誰にでもやらせるだろう!」「あんたこそ!何よ!」ざっとこんな感じだったのだろう。そして、これが15歳と13歳のリアルな口喧嘩なのである。皆さんは想像できますか。加害少年は、ふざけたブログを残している。曰く「特技は数分で女をイカセルこと」だそうな。13歳から少年の性的乱行は続いていた。最近の教育現場を店長は知らないが、「道徳」を教えるのと同時に「性道徳」を教える必要がありそうだ。被害中学生も乱交グループに加わっていたそうである。少女は「明るく勉強もできる良い少女」として中学校では評判だったそうだ。この現実とのギャップに世間は当惑した。女子中学生は加害少年との性的関係を続けていたが、同時に別の男子高校生とも交際していたらしい。おそらく、喧嘩になったのはそのせいだろう。いまや世間が考える以上に13歳から15歳の少年少女たちは不気味なほど早熟している。

「アドルフに告げよ!」---孤独な殺人鬼「植松聖」が迷い込んだ深い闇

「抹殺することが障害者を救う方法」と言ってのける平成の殺人鬼「植松聖」彼が、いつから極端かつ身勝手な思想を持つに至ったのか、今後行われる取り調べや精神鑑定の結果を待ちたい。彼は、今年2月20日に緊急措置入院しているが、その際に「ヒトラー思想が降りてきた」と話しているそうである。彼の云う「ヒトラー思想」とは、「ナチス・ドイツのホロコースト」を指している。「ナチス・ドイツ」は障害者を組織的に殺害したとされる。その指導者が「アドルフ・ヒトラー」だ。相模原知的障害者施設「津久井やまゆり学園」が「植松聖」に襲撃されたのは7月26日午前2時頃であった。襲われたのは45人、死亡者は19名に上った。戦後最大の犠牲者数であった。店長には、この「植松聖」と「アドルフ・ヒトラー」には、共通点が見える気がしている。もちろん「偉大な独裁者」と「孤独な青年にすぎない植松聖」とでは、そのスケールからして違う。「暴論」の誹りを覚悟の上で論考を進めたい。

「植松聖」の持論、それは「重度の障害者に安楽死を与えよ」であった。それを法案化させようと直訴まで行っている。「ヒトラー」は厳格な父親にしょっちゅう殴られて育っている。彼は他人の苦しみを共感できない、非情で冷徹な性格であった。劣等感が誇大妄想を生み出していた。これらを「自己愛性人格障害者」と呼ぶ。おそらく「植松聖」も同様の「人格障害者」ではないだろうか。1945年、ベルリン陥落後「ヒトラー」は愛人「エバ・ブラウン」と結婚式を挙げ、その翌日にその夫人とともに服毒自殺を遂げた。一方の「植松聖」に「自殺願望」はなかったのだろうか。池田小学校を襲った「宅間守」は、両親への「復讐心」と強固な「自殺願望」に心を苛まれていた。そしてまた、「植松聖」が、どのような生育環境にあったのかを知りたいと思う。

この項は「邪悪な夢・異常犯罪の心理学」とコンテンツを共有しています)

避けられなかった悲劇---名古屋発「17歳双子刺殺事件」の憂鬱

その仲の良かった兄弟が暮らす愛知県名古屋市名東区牧の原。双子の兄弟と母親が住む住宅で、その悲劇が起きてしまう。弟が兄の胸に刃をあてたのだ。嘱託殺人であった。当時17歳の聡明そうな眼をした弟は、意識の戻らぬ兄の介護に明け暮れていた。兄が自殺に失敗して植物人間になってからもう5ヶ月になる。「---自殺に失敗したらお願いだ、殺して欲しい」と兄は話していた。兄がそう話したのは自殺を決行する前日のことである。弟が聞いた兄の最後の言葉である。その”遺言”は、介護を続ける今でも脳裏から離れなかった。そして悲劇が起きてしまう。平成13年2月25日午後2時45分頃、弟は警察に通報し自首した。そして弟は実兄の殺人未遂容疑で逮捕された。この事件、避ける手立てはなかったのだろうか。この日、物言わぬ兄のパジャマを開け、その左胸に折り畳んだバスタオルを載せた。そしてジャックナイフを持ち替えた弟は全体重をかける。搬送された病院で兄の死が確認された。死因は出血性ショック死であった。兄は中学3年の3学期に精神の安定を欠くようになってしまう。高校生になった兄弟は、家計の足しにと新聞配達を始めている。高校の部活を断念。真面目な勤務ぶりだったらしい。そして兄は自殺願望と闘っていた。彼はときおり弟に「オレは死にたい」と呟く事があったという。兄の自殺決行に、弟は別段に驚かなかった。一卵性双生児には、兄弟お互いの心の動きまで察知できるのだろうか。弟は、物言わぬ兄の嘆きや苦痛が手に取るように分かったのだろう。ここで疑問が残るのだが、なぜ母親は兄を退院させたのだろうか。自宅に連れ帰り、母と弟だけで、外部との接触を拒んで懸命に兄を介護した。入院先での兄への病院側の対応が、この母と息子にはとても不満があったのだろう。だが、結果として、兄の退院はさらなる不幸を招くことになってしまう。読者の皆さんは、「植物人間の介護」というものが、どんなに大変なことなのか、想像できるだろうか。身体が、寝たきりだと内臓に良くない。防ぐためには、定期的に姿勢を変える必要ある。この兄は体格が良く、体重もあるので身体を動かすためには骨が折れる。植物状態でも「痛覚」は機能するようだ。毎日そばに居て介護している弟には、その兄の苦痛を自分の事のように感じ取ってしまう。5カ月間というもの、弟にはさぞやつらい日々が続いたことだろう。それにしても、この事件のあとでも、「安楽死」是非の議論が起きないのはいかなる理由だろうか。

海外では”自爆テロ”そして国内では”自殺テロ”が起きる---「元自衛官爆死事件」の憂鬱な背景

驚くべき一報が国内を駆け巡ったのは、2016年10月23日、栃木県宇都宮市で発生した爆破事件である。爆発炎上したクルマの中で焼死体が見つかった。焼死したのは「栗原敏勝さん(当時72歳)」である。栗原さんは、自衛隊を定年退職していて、最近ではボランティアで社会活動を精力的にこなしていた。その爆発したクルマのそばで3人が負傷して倒れていた。栗原さんは、なぜ自殺を選んだのだろう。はた迷惑な御仁だ、と非難するのは間違っている。栗原さんの家庭はすでに崩壊していたのだ。自衛官を退官して、民間企業ではあり得ないほどの退職金を手にしていた。だから経済的に困窮していた訳ではない。いや正確には、栗原家に「ある問題」が発生する前までは。だが、栗原さんは妻が起こした離婚裁判に負けてしまうのだ。栗原さんは、老後の生活資金に、自衛官の退職金をあてるつもりだった。それを妻に奪われることになってしまう。退職金だけではないのだ。邸宅も手放すはめに陥る。離婚の原因の一つに、精神疾患を発症して、措置入院を繰り返していた娘の存在が大きい。栗原さんは、包丁を持った娘に殺されかけたことがある。妻は怪しげな「信仰宗教」に入会し、家庭を顧みなくなった。栗原さんは、家庭をそして希望を失った。気が付けばすでに72歳であった。これから先どうやって生きていくべきか。若き頃には「国を守る」という使命感に燃えていた。自衛隊という職業に誇りを抱いていた。家庭を疎かにしてきたつもりはない。娘も大事に育ててきた。虐待してきた覚えは無かった。妻とも結構仲よくやってきたつもりだ。---それが、こんな最終章を迎えるなんて。栗原さんに、いったいどのような落ち度があると云うのだろう。

一般家庭の安全を脅かす”仮出所”---「北九州母娘殺傷事件」の衝撃

強盗犯は無期懲役で仮出所中の男であった。飢えた野獣を野放しにする現代社会。たまたま狙われた家族の悲劇。男は金が欲しかった。所持金がなく、帰る家もなく、ポンと放り出されても、その男に何ができるだろう。盗みに入る以外の選択肢はなかった。こうした再犯を防ぐためには司法制度の在り方を熟考し直す必要はないだろうか。とりあえず市民が対抗手段を講じるとすれば、自主的に防犯カメラ(ダミーカメラ)を自宅に設置することである。事件を振り返ってみたい。平成2年3月12日であった。仮出所中の「牧野正(当時40歳)」は、強盗を計画する。そして北九州市の会社員宅に侵入した。ところが、この家の長女(25歳)に見つかってしまう。牧野は包丁を持っていた。服役経験(殺人)がある彼には怖いことなどはなかった。牧野正にとって、怖いのは生き続けることだけである。強盗に入り、その場で長女をめった刺しにして殺害した。そして、母親が帰宅してきた。牧野正は、現金2千円を奪って逃走する。その際に母親も刺し、2ヶ月の重傷を負わせている。彼は想像もしなかった。奪ったのは2千円である。たったの2千円で死刑執行されるとは---だが、無理もない。彼は2度目の殺人を犯したのだ。「仮出所」が実行されなければ、牧野正が強盗殺人を繰り返すことなどなかっただろう。彼には「刑務所」こそが終の棲家であったのだ。ところで、「仮出所」は何のために、そして誰のためにあるのだろうか。

いまだ消えない謀殺説---「石井紘基代議士殺害事件」の謎

白昼のテロ事件発生に世間が騒然となったのは、2002年10月25日午前10時25分のことであった。石井議員が、衆院第一議員会館に向かうため、自宅玄関を出た直後に襲われたのだ。刃渡り約30cmの柳刃包丁が、石井議員の左胸を刺し貫いた。さらに顎と左手を切り裂く。犯人は、驚いて近寄った運転手を威嚇するように睨みつけて、その場から逃走した。目撃証言によれば、犯人は年齢50歳くらい、グレーのジャンパー姿、頭に紺色のバンダナを巻いていたという。石井議員は鮮血にまみれ、そのまま目黒区の国立東京医療センターへと緊急搬送された。到着時点で、すでに心肺停止状態であった。午後0時5分に死亡が確認された。死因は失血死であった。現役代議士を死に追いやった白昼の惨劇に政界は騒然となった。当時の「鳩山由紀夫民主党代表」は、「強い憤りを禁じ得ない---」とコメントを発表している。ここで「石井紘基議員」の半生を振り返ってみたい。石井議員は、1940年東京で生まれている。中央大学法学部卒業後にモスクワ大学大学院に留学した。帰国後に社民連の結成に参加する。そして、いくつかの政党を渡り歩き、1996年9月に民主党に合流した。初当選は、1993年日本新党からの出馬である。彼の政治活動は、一貫して「政治と金」であり、不正追及に全力を注いでいた。そのような背景があり、「スキャンダル」によって生命を奪われたのではないか?と噂が広まったのだ。---ところが、犯人が自首してきたことにより、そのような「政治と金」の黒い霧が吹き飛ばされてしまう。刺殺事件の翌日10月26日に、一人右翼「守皇塾」を名乗る「伊藤白水」(事件当時48歳)という男が警視庁に現れたのであった。「伊藤白水」は、殺害動機を「金銭トラブル」だと供述した。2005年6月30日控訴審棄却、1審通り無期懲役が確定する。「伊藤白水」は、誰に頼まれて、何を隠していたのだろうか。謎だけが深まっている。

驚愕の保険金殺人---「熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件」の昏い闇

熊谷市の養鶏場に火の手が上がったのは、1989年4月5日午後9時20分頃であった。プレハブ宿舎が全焼し、住み込み従業員の妻(事件当時48歳)が死亡した。また、その夫の従業員も全治4ヶ月の大やけどを負った。放火したのは他の従業員である。経営者に2773万円の保険金が支払われている。警察の調べで恐るべき背景が明らかになる。なんと、従業員に宿舎を放火させたのは、この養鶏場の経営者であった。保険金詐取が目的であった。放火した従業員に「謝礼金」として300万円が渡っていた。2003年さいたま地裁で、放火した従業員に「死刑」が、経営者に「無期懲役」が言い渡された。2005年11月29日の上告審で、経営者の「無期懲役」が確定する。一方の従業員であるが、控訴審では東京高裁が、「被告は経営者に利用され事件に巻き込まれた」として、「1審の死刑判決を破棄し、無期懲役刑とする」と判決を下した。彼は無罪を主張して上告したが、2007年5月28日に病死した。享年82歳であった。ここで疑問が残る。なぜ、住み込み従業員がいる間に宿舎に放火したのだろうか。火災保険金は2700万であったが、リスクを考えると割りに合わない。放火犯の従業員にしても報酬が300万では割りが合わないのだ。死刑を免れたとはいえなんという取引であっただろうか。この放火殺人事件も時代の空気を見ておきたい。1989年といえばバブル真っ盛りである。昭和から平成に年号が変わった年でもある。4月に3%の消費税が施行された。ソニーが米国の映画会社「コロンビア」を買収したのは9月であった。12月には、日経平均株価が史上最高を記録した。

バブル経済全盛期の象徴的な事件---「杉並資産家女性殺人事件」の狂乱

杉並区在住の資産家女性の遺体が発見されたのは、1990年(平成2年)の元旦である。被害者「遠藤ウメさん」(事件当時82歳)は、神奈川県津久井郡の高速道路高架下で腐乱死体で発見された。警察の捜査が開始される。同じころ、遠藤さんのアパートに入居していた女性(当時47歳)が行方不明になっていた。そして驚くべき真相が明らかになる。その女性は、遠藤さんの資産に目を付け、彼女と親しくなっていた。女は、遠藤さんの長女44歳が長期入院していることを知る。女は、知人の男を焚き付け長女との婚姻届けを出させる。悪女の黒い計画が始まる。さらに3番目のプレイヤーが登場する。中古車販売業者の男である。彼は権利書を偽造して、遠藤ウメさんが所有する不動産・アパートを世田谷区の不動産会社に売却した。その額2億800万円だった。ところが、この3人は、騙し取ったお金の配分でもめる。長女と偽装夫婦になっていた男が殺された。この時代は、バブル経済の爛熟期であり市中に有り余るお金は、揃って株式・土地取引に向かっていた。土地価格は際限なく上昇し、その狂乱ぶりは大蔵省(現・財務省)の不動産取引総量規制まで続けられた。土地を転がして一儲けを企む地下の住人が跋扈していたのだ。この3人のように、重大犯罪が珍しくはなかった。大金を手にした女と中古車販売業の男は行方をくらます。それから5年後(平成3年)7月23日に、岐阜県養老郡で男性の首なし他殺遺体が見つかった。男性は遠藤さんの長女と偽装結婚した男である。その後の調べで、被害者は、金銭を巡って争った行方不明の女の仲間であることが判明する。さらに3年が経過した。事件解明が暗礁に乗り上げていた頃、覚せい剤事件の男女が逮捕された。取り調べるうちに、件の男女であることが判明する。婚姻届けで土地の権利書を偽装し、2億円を超える大金を騙し取る。そしてお金の配分で揉めて射殺、首を切断して遺体遺棄。バブルが生んだ非道な事件であった。狂乱の中で踊っていたのは、政治家や芸能人まで、すべての日本人であった。

貧困の無間地獄---世間が仰天「千葉少女墓石撲殺事件」の背景

治安の悪さは、千葉県屈指の「千葉市若葉区千城台市営住宅団地」だ。だが、この団地は地図から消える運命にある。それは周辺の再開発が、この地を飲み込もうとしているからである。事件当時は、不良だらけだが街には活気があった。今では治安が安定しているが、むしろ高齢者の”オールドタウン”となってしまい活気は無くなっている。この住宅団地で、前代未聞の陰惨な殺人事件が発生していた。2003年10月1日である。若葉区内の墓地が舞台であった。事件に関わった少年たちは、全員が市営住宅に住んでいた。彼らは、おしなべて貧困環境にあり、発達障害なのか読めない漢字が多く、定職にも就けないような少年少女ばかりであった。殺された少女「石橋裕子さん」も例外ではなく、事件当時16歳で「抜きキャバ」と一般に呼ばれる風俗店に勤務していた。その「石橋裕子さん」は、実は「偽装結婚」していた。それは、風俗店で働くためであった。働くためには既婚者でなければ、彼女は年齢が届かなかったのだ。当然だが、「夫・石橋広宣(事件当時22歳・旧姓鈴木)」に対して愛情などはなかった。やがて、「石橋広宣」は裕子さんからお金をむしり取るようになる。では、彼は、どのような青年だったのだろう。これが札付きのワルであった。窃盗・暴行を繰り返し、最終学歴は少年院である。事件当時も執行猶予中の身の上だった。裕子さんは、「石橋広宣」に離婚したいと申し出る。さらに、裕子さんは「---警察に行って全部話す」と石橋に云ったのだ。そうなれば、執行猶予が解かれ収監されてしまう。石橋は、サラ金に多額の借金があり、新たな偽装結婚で姓を変え、借金を繰り返すことを計画していた。これらの計画がパーになる。石橋は、裕子さんの殺害を決意する。知能が低い彼には、ほかの解決方法などなかった。「市営団地」のワル仲間(10代の少年)を集めて謀議した。刃物を使えば鮮血が飛び散る。絞め殺すか殴り殺す方が良い。身元確認ができないように歯形や指紋を残さない方法を悪い頭で考えた。団地内の墓地に裕子さんは呼び出された。石橋広宣が集めたワルたちは、合計4人で、いずれも10代であった。一人は高校生だが、ほかの二人は学校に行かず仕事にも就いていない。彼らも同じ市営住宅に住んでいる。そして同じ様に貧困家庭であった。裕子さんが指定された墓地に行くと、そこでは石橋と少年たちがハンマーを用意して待ち構えていた。こうして、犯罪史上稀にみる残虐な暴行が始まった。裕子さんは、歯形の痕跡も留めないほどハンマーで顔面を殴られた。さらに倒れてぐったりした彼女の頭部に重さ7㌔もある墓石が落下された。もう誰なのか、人相も判別できないほど頭部や顔面が破壊された。彼らは、裕子さんの遺体にライターオイルをたっぷりかけて火をつける。10月1日に発見されたとき、裕子さんの遺体は、なかば炭化し、まだくすぶっていたという。あまりにも残忍な殺害方法であった。おそらく、身元特定を防ぐためであったのだろう。だが、漢字さえ読み書きできない、知的障害さえ疑われる少年たちは、残忍であるとは考えもしなかった。店長の私は、残忍な殺害に対してよりも、少年・少女たちの置かれた悲惨な環境に戦慄を感じている。犯罪現場は、経済発展から取り残された地方の過疎地ではない。貧困とはおよそ縁がないと思える関東のしかも千葉市で起きた事件なのだ。これは、21世紀のわが国で本当に起きた事件なのか。誰かが考えた犯罪小説ではないのか---。偽装結婚が犯罪と結びつく事例は、不法滞在する外国人に多いと時折耳にする。これらを防ぐ手立てはないものだろうか。取り締まることはできないものだろうか。

報道されなかった対テロ特殊部隊の活躍---「全日空機函館ハイジャック事件」の顛末

羽田発函館行全日空857便が、乗員乗客365人を乗せて離陸した。1995年6月21日午前11時32分定刻である。巡航高度に達した全日空機はベルトサインがオフになった。乗客たちにくつろいだ空気が広がった矢先である。サングラスをかけた一人の乗客が、いきなり大きなバッグを下げて調理室に侵入した。男は液体の入ったビニール袋を見せ「---これが何か分かるな、云う事を聞けば危害は加えない」とCAを脅迫したのだ。ハイジャック事件の勃発であった。男が「オウム真理教信者」と告げた時、CAたちは恐怖に震えた。それは、3カ月前に発生した「地下鉄サリン事件」を鮮明に覚えていたからだ。CAはコクピットに緊急連絡する。「ハイジャックです---オウム信者がサリンを持っています---」機長は、反射的にパネルのハイジャック信号<A/3-7500>を発信した。ターミナル内で食事中だった「足立空港長」は、連絡を受けて急ぎ足で空港事務所に駆け戻った。足立空港長は、すぐに空港対策本部を設置した。同時に「空港保安委員会」が招集された。---30分後にハイジャック機がこの函館空港に到着する---さらに3つの対策・対応本部が緊急設置された。そしてターミナルビル2階には、函館中央警察署の現地警備本部がおかれた。函館空港は騒然となっていた。関係者の脳裏には、あの「地下鉄サリン事件」のような地獄絵が蘇っていた。その頃、函館東消防署から救急隊2個小隊と特別救助隊1個小隊で編成された第一次出動部隊が空港に到着していた。この日天候は曇り、午後12時45分、857便の機体が雲の中から姿を現した。車輪が正常に降ろされ火災も起きていない。関係者一同は胸を撫で下ろす。足立空港長は、857便を咄嗟に判断して7番スポットに誘導する。火災が発生しても、警官たちの突入が行われても最適の場所であった。情報では、ハイジャック犯はプラスチック爆弾を用意しているはずである。犯人は、東洋信託銀行員「九津見文雄」であった。彼は生活にくたびれていた。自殺願望が頭をもたげていた。なんとか閉塞状況を打ち破りたかったのだ。彼はオウム真理教を語れば世間が大騒ぎになると考えた。彼は要求した。「教祖麻原彰晃に会わせろ!」「羽田に引き返せ!」などと。空港では機動隊や救助隊などの配備が完了した。だが、対策本部には857便の機内がどのような情況なのかまだ分かっていなかった。そして機体に給油が行われる。その隙に、機体整備員の作業服を着た工作支援班の警官たちが、機体底部のパネルを外して内部に忍び込み、集音マイクを取り付けた。CAは目隠しされていた。彼女たちは恐怖に怯えていた。機長も同じであった。情報が遮断され余計にパニックになっていた。爆発が起きればサリンが同時にまき散らされる。それだけは防がなくてはいけない。「羽田へ引き返せ!さもなくば乗客を一人ずつ殺す!」「麻原彰晃を羽田へ連れてこい!」九津見文雄は叫んだ。足立空港長の心配は、そのサリンにあった。対策本部で解毒剤の手配が続けられる。同時に北海道全域の消防署に出動要請が下った。最終的に45隊の消防隊、総員147名が集結していた。解毒剤空輸の準備も行われた。機長は殺害が実行されていると思い、さらに精神的に追い詰められていた。---だが、現地警備本部は複数の集音マイクから、機内の状況をほぼ正確に分析していた。「---犯人は一人、しかもオウムではない---サリンも偽装に違いない---」そして、わが国警察史上初の「ハイジャック対策オペレーション」が発動された。その機内突入は「警視庁第六機動隊特科中隊」であった。この中隊は後に「SAT」と名付けられる。国家機密の対テロ特殊部隊は、その姿をさらすこともなく、函館空港を静かに後にした。

稀に見る劣悪教師---暴力団も脱帽する「岐阜高校教師教え子殺人事件」の震撼

バブル期日本を代表する凶悪事件は、1986年(昭和61年)10月14日夜に発生した。場所は岐阜県羽島市の中古車販売店駐車場である。若い女性の黒焦げ死体が発見された。岐阜羽島署が身元を調べたところ、焼死体は元モデルのソープ嬢「鷲見啓子(すみけいこ)さん」事件当時22歳と判明した。啓子さんは手首を縛られていた。10月19日に、啓子さんのキャッシュカードで36万円の現金が引き下ろされた。防犯カメラから警察は容疑者を割り出す。なんと、岐阜西工業高校の美術担当教諭「久世慈仁(事件当時38歳)」であった。被害女性の教師であった男だ。そして、彼には共犯の女がいた。この共犯者も久世の教え子である。妻子のあった久世は、教え子をダマシ、お金をむしり取っていた。久世は啓子さんの恥ずかしい写真を撮って、それをばら撒くと言って彼女を脅迫していた。同様の脅迫は教え子4,5人に上る。「妻とは別れる。啓子と結婚する」といつも耳元で甘く囁いた。彼女は虜にされた。久世は、啓子をモデルに育てた。さらにダマしてソープランドへ売り飛ばした。啓子は金になると踏んでいた。見込み通りに彼女は人気ソープ嬢になった。中学からバレーボールをやっていた彼女は、長身で美人と評判であったそうな。彼女は荒稼ぎをした。だが、お金はすべて久世の遊興費・娯楽費と消えてしまった。高級外車ベンツも買った。彼女にとって、久世は初体験の相手であった。女の悦びも教えられた。啓子さんは、性の愛玩動物であり、さらに金のなる木でもあった。彼女が、風俗嬢になっても良いと久世に従ったのは、久世との結婚を夢見たからである。日本大学芸術学部出身の久世は、美男子であったが、一風変わっていた。久世は高校教師失格であった。いや、その前に人としても唾棄すべき最低の男である。彼はローラースケート靴を履いて授業した。また、自転車で学校の廊下を走り回った。いつもブランド品を身に着けていた。女生徒たちは「テレビのトレンディドラマから抜け出してきたような都会の先生」に熱中した。共犯の元教え子は、啓子さんをライバル視していた。「彼女が消えれば、先生(久世)は私のものになるかも---」そう思って殺害を幇助した。久世はなぜ啓子さんを殺害するに至ったのか。業を煮やした啓子さんは、久世に告げる。「---私はあなたにすべてを捧げて来た---貢いだお金を返してちょうだい。それができないなら私と結婚して!」そしてある日、決定的な言葉を発する。「結婚も出来ないのなら、すべてを学校と奥さんに話す---」「先生の人生を無茶苦茶にしてやる!」久世は、「デッサンのモデルになって欲しい---きみを見ていると芸術意欲がかき立てられる」などと云って教え子を骨抜きにしていく。1990年2月23日、最高裁上告審判決において、高校教師「久世慈仁」の「無期懲役刑」が確定した。残忍な手口はこうである。クルマに乗せ、睡眠薬を飲ませて意識を失わせた。予め用意しておいた棺桶のような木箱に啓子さんを入れ木箱ごと焼き殺したのだ。ダマしてソープランドに沈め、用済みになれば焼き殺す---暴力団顔負けであった。

届かなかったSOS---39歳「北九州男性餓死事件」の無念

その「餓死事件」は、2009年4月13日に発覚した。まだ若い男性(当時39歳)が餓死していたのは、北九州市門司区内のアパートの一室であった。彼の所持金はわずか「9円」だった。”9円=喰えん”と読み替えられる。そして遺体のそばには、投函されていない手紙が残されていた。1枚の便箋には「た・す・け・て」と記されていた。他にもこの門司区において4月から5月にかけて、なんと3名の「餓死事件」が起きている。信じられるだろうか。これは、NHKクローズアップ現代で報道され、全国に知られることとなる。北九州市は、エネルギー革命のため、筑豊炭田の廃抗が続いたため、貧困者が大量に出てしまった。それが市の財政を慢性的に圧迫した。市では福祉予算を切り詰めるために数値目標を決め、密かに生活保護世帯を抑制していた。貧困家庭にとって生活保護受給のハードルが他の自治体に比べ異常に高くなっていた。2007年10月には、「第三者委員会」によって、生活保護行政の改善を求められている。現在の「非正規雇用者」の割合は40%を超えてしまったが、2009年当時には25%を少し超えて推移していた。この39歳男性の「餓死」というのは消極的な「自殺」ではないだろうか。当然、アルバイトを失った彼も役所を訪れている。「---あなたはまだ若い」と却下されたようだ。だが、仕事は容易に見つからなかった。2010年の総務省の調査によると30代人口が他世代より多い。さらに、この2009年8月の調べでは30代の失業者が80万人に膨れ上がっていた。さらに自殺者の増加だ。この世代が最も増えている。彼らは節目節目で犠牲となってきた。就職のときには就職氷河期に遭遇した。派遣会社に登録する以外に手はなかった。さらに、リーマンショックによる派遣先からの契約解除。30代といえば最もその人生を拡大再生産するべき年代である。この男性は50代であれば「助けて!」と云えただろう。まだ30歳代であるがゆえにSOSを発信できなかったのだ。この事件、レアなケースとは思えない。少子高齢化はさらに激化するだろう。

いびつな絆で結ばれる反社会集団---暴力団より怖い元「関東連合」の狂気

若者の街”夜の六本木”その中で事件が起きた。夜遊びの象徴的なビル「六本木ロアビル」に入居するクラブ「フラワー」に、金属バットを携えた10人ほどの男たちが乱入する。もちろん、彼らはそのクラブで野球をするために集結したわけではなかった。2012年9月2日午前3時すぎであった。VIPルームで飲んでいた一人の男性客めがけて彼らは襲い掛かった。男性は死亡。犯人はすぐに割り出された。それは襲撃直前に、集結した彼らが防犯カメラに映っていたからである。襲撃の主導的役割を担っていたのは、元関東連合メンバーである「石本太一」と「見立真一」である。そして、警察は事件に関わった17人について指名手配をした。翌2013年1月10日、暴行した彼らは自首をする。取り調べで、あの襲撃は「人違い殺人」であったことが判明する。世間は驚いた。彼らは、過去に「関東連合」とトラブルになった暴力団構成員と間違えて撲殺したのであった。彼らはバカではなかった。彼らは「殺人罪」が適用されないことを認識していたようである。誰が持っていた金属バットが、被害男性に致命傷を負わせたのか立証できなかったのだ。一貫して、彼らは「殺意」を否認した。東京地検では、「殺人罪」の適用を断念し、「傷害致死罪」で起訴する。襲撃メンバーの大半は「執行猶予付き判決」を言い渡された。気の毒なのは、容姿がそれとなく似ていたと云うだけで殺害されてしまった被害男性である。

累犯障害者による防げなかった殺人---「浅草短大生殺人事件」の顛末

東京・浅草で起きた「短大生殺人事件」別名「レッサーパンダ帽殺人事件」をご記憶だろうか。むごい刺殺事件が起きたのは2001年4月30日であった。動物帽男が馬乗りになり、刺殺されたのは、板橋区在住の短大に通う「小川真由子さん(当時19歳)」であった。この通り魔的犯行に、全国紙は報道合戦を繰り広げている。女性を刃物で襲って現場から逃走した男は「レッサーパンダ」のぬいぐるみ帽を被っていた。そのために、この事件は「レッサーパンダ帽殺人事件」と呼ばれるようになる。犯人の「山口誠(事件当時32歳)」は、重度の知的障害者であった。それが分かると、報道各社は申し合わせたように一斉に報道を打ち切った。事件発生当初こそ加熱していたが、何かタブーにでも触れたような一斉自粛であった。その日、「小川真由子さん」は、江戸通りの脇に折れた路地で動物帽を被っている男と偶然に目が合ってしまう。彼女は不審そうな男に目を留めた。そうして急ぎ足で路地を抜けようとした。ところが、その男は刃を手にしていきなり襲い掛かってきた。「小川真由子」さんは押し倒されてしまう。男は、馬乗りになり悲鳴を上げる彼女の背中を2度3度と刺した。公判で「山口誠」は、「---バカにされたと思った---」と述べている。何ら根拠のない事である。だが、小学校の頃から彼は頭が悪く、通信簿は「オール1」であった。そのため大変なイジメを受けている。彼には、新聞報道からは到底誰も知り得ない恐るべき家庭環境が存在した。「生い立ち不幸」と云えなくは無かった。1972年2月、彼は札幌市中央区で生まれた。事件後に、彼の父親もまた重度の知的障害者であることが判明している。父親は、金銭管理がまるで出来なかった。そんな父親を助けていた最愛の母親が、「山口誠」が高等養護学校3年の時白血病で他界していた。そして、中学卒業から工場に勤務して、早朝から深夜まで懸命に働き、兄と父、二人の知的障害者の面倒をみて家計を助けていた妹が癌を発症する。ここに、店長の私は、「人間存在」の不可思議なもの「世代をまたぐ業の深さ」を感じざるを得ない。なぜ、本人は知的障害を、妹は癌の発症をみなくてはいけないのだろうか。そして、驚くべきことに、福祉行政が、この一家の窮状に気がついたのは、まさに浅草で「女子短大生が殺害された」からであった。行政に携わる誰かが、この一家と接点を持ち、何らかの救済が実行されてさえ入れば---刑務所出所後の「山口誠」に保護観察が続行されていれば、「レッサーパンダ帽殺人事件」は起きなかっただろう。「小川真由子さん」の未来が、意味もなく無慈悲に奪われることもなかっただろうに。

争点からして不可解---「仙台筋弛緩剤点滴殺人事件」の闇

宮城県仙台市「北陵クリニック」を舞台にした不可解な患者の容体急変騒動。殺人未遂容疑で准看護師「守大助(事件当時30歳)」が逮捕されたのは、2001年1月6日のことであった。彼が点滴を担当して容体急変に陥った患者の数は20名以上とも云われる。そのうちの5名について死亡または重篤な容体悪化に至らしめたとして、殺人および殺人未遂容疑で裁判にかけられる。その「守大助容疑者」は、逮捕直後に犯行を認めたが、その三日後に今度は一転して否認を続ける。「北陵クリニック」は廃院の憂き目にあう。クリニック側では、「守大助准看護師」を当初から疑っていたという。彼が担当した日に限って患者の容体が急変していたからである。当然であるが、彼は解雇される。2002年12月、彼は、退職にあたり私物を整理するためにクリニックを訪れる。クリニックでは、警官が内偵中であった。彼は使用済み薬剤アンプルを処分しているが、いかにも不審な行動だったのだろう。その警官に目撃されてしまう。調べてみると、それこそ筋弛緩剤”マスキュラックス”のアンプルであった。彼は、証拠の隠滅を図ったと疑われたのである。だが、彼は無実を主張し、「一時自白は強要されたもの。交際相手への迷惑を考えた」と後に告白した。そして支援団体も、殺人の動機がなく、そもそも事件性はなかったと言い募っている。真実は藪の中であるが、2006年の控訴審判決で、仙台高裁は1審判決を支持、守被告の控訴は棄却されている。

バレンタイン無差別大量殺人計画---「八重洲地下街青酸入りチョコレート事件」の恐怖

事件は1977年(昭和52年)2月14日に起きている。この当時には、現在と違い、「義理チョコ」「職場チョコ」は行なわれていなかった。チョコは思いを寄せる男性に対して女性がその愛を伝える手段であった。この習慣は日本発祥である。欧米には恋人に「チョコレート」を贈る習慣はない。東京都大田区の「メリーチョコレート」の社長が海外視察中に、欧米では”バレンタインデー”といって恋人たちが贈り物を交換する習慣があることを知ったのである。その贈り物には、チョコレートも入っていた。「メリーチョコレート」では、さっそく翌年のバレンタインデーに売り出した。8個ほど売れたと云う。店長の記憶が定かではないが、昭和32年頃の話である。だが、歴史を考察していくと、恐るべきことを知るのだ。「バレンタイン」は、ローマ時代の神父の名前である。ローマでは、兵士の結婚は禁じられていた。それは戦乱が続いて戦死する兵士が多く、未亡人を出さないという政策である。それでも国禁を冒して結婚したがる兵士はいたのだ。バレンタイン神父は、心を痛めていた。気の毒に思い内緒で結婚の契りを行った。それがローマに伝わってしまう。彼はその咎のため処刑される。その後、ローマの恋人たちの間で「バレンタイン神父」を追悼するために「聖バレンタイン」としてプレゼントを贈りあったのである。だからチョコレートを贈るという習慣は邪道であると店長は考えている。もっとも小学生時代から縁がなかった店長のひがみでもあるけれど。前置きが長くなってしまったが事件を振り返ろう。昭和52年2月14日、デザイン会社の社長が八重洲地下街でラッピングされたチョコレートと思しき落とし物を見つけた。どうせ空き箱だろうと社長は蹴り飛ばした。すると破れて中身が見えた。グリコチョコレートである。そのままにして行き過ぎようとして、「青酸コーラ事件」を思い出した。胸騒ぎを覚えた社長は引き返すとそれを拾い上げ、築地警察署に届け出た。グリコ「セミスイート」40箱が入っていた。警察では10日間保管したが落とし主が現れないので、グリコ東京支店にそのチョコレートを返却した。グリコでは念のために大阪にあるグリコ中央研究所で中味を調査した。すると恐るべきことに、青酸ナトリウムが検出されたのである。グリコ社は驚いてすぐに通報、警視庁科学検査所でさらに詳しく調べた。各箱10粒の内1粒のチョコレートに致死量を上回る0.2gの青酸ナトリウムが含まれていたのだ。さらに中箱の裏には「おごれる日本人に天誅をくだす」とカタカナで書かれていた。この計略が実現していれば、「血に染まったバレンタイン・チョコレート」として語り継がれたに違いない。(この項は、「知っておきたい毒薬犯罪ファイル」とコンテンツを共有しています)

報復は”生き埋め”学生たちの応援歌----「東大阪集団暴行殺人事件」の震撼

初めはどこにでもある女性を巡る若者たちの争いに過ぎなかった。それが猟奇的な暴行事件に発展したのだ。2006年6月19日、東大阪大学の学生たちが暴行され生き埋めにされて死亡した「東大阪大学暴行事件」は、集団心理の怖さを感じさせる凶悪事件である。この事件で二人を襲った総勢9名を指揮したのが大阪府立大学生の「廣畑智規(事件当時21歳)」---主犯格として無期懲役--である。この大阪府立大学は、おバカが入学出来る駅弁大学ではない。だから世間は余計に驚いた。しかも、彼は争いの復讐シナリオを描き、仲間を指揮して実行させている。恐るべき大学生なのだ。それに、彼はそもそも当事者でさえなかった。仕返しに加わったのは、友人に頼まれたからである。発端は、恋人の争奪を演じた2名のけんかである。それが東大阪大学のサッカー・サークルに籍を置く「藤本翔士」と「徳満優多」であった。楽しそうにサッカーをしていた二人は、一人の女性を巡って喧嘩になった。それが凶悪事件のきっかけであった。キーワードは「慰謝料として金銭の要求」および「暴力団関係者の知り合いに伝える」である。どちらも大学生には無縁とされる言葉である。「徳満優多」は、”恋人を寝取られた”と怒り狂った「藤本翔士」に叩きのめされ、金銭の支払いを要求された。しかし、悔しくてどうにも仕方がない「徳満優多」は、仕返しのため友人に相談する。惨劇の第二章幕開けである。二人はそれぞれに仲間を引き入れる。友人同士の喧嘩は、抗争に発展していくのだ。大抵は次の喧嘩で事態は納まっていくものだが、そうはならなかった。「徳満優多」は、「佐藤勇樹21歳」「佐山大志21歳」を加勢仲間に加える。一方の「藤本翔士」は、友人「岩上哲也」と会社員一人21歳を仲間に加えた。そして、さらに恐るべき「役者」が招集された。それが、本件の残虐な実行犯とされ、死刑を求刑される「小林竜司21歳」である。彼を引き入れたのは「佐藤勇樹」である。そうして惨劇第二幕が上がった。「徳満優多」たちは、慰謝料として50万円を指定場所で支払うから来てほしい、と伝える。その話に「藤本翔士」は迂闊にのってしまう。そして、「お前ひとりで行かせられない」という友人の「岩上哲也」と共に、会社員が運転するクルマで指定の場所に向かった。そこで待っていたのは、鉄パイプや野球のバットで武装した「徳満優多」の仕返しグループであった。場所は岡山県玉野市深山公園。残虐なリンチが始まる。「藤本翔士」「岩上哲也」「会社員」は顔面や頭部が原型を留めないほどに殴られ「---助けてください---」と虫の息で懇願している。だが、彼らは容赦しなかった。さらにリンチが続けられる。彼らはクルマのトランクに半死半生の3人を押し込め、岡山市灘崎町の建設資材置き場に移動した。そこでは、生き埋めにするために土木建機ユンボで穴が掘られた。関係のない会社員は暴行を受けたが、生き埋めを免れた。意識を失っていた二人はまだ息をしていたが、無慈悲に埋められた。ご丁寧に埋め戻す前に大きい石の塊やコンクリート片を顔面に向けていくつも投げ落とされている。司法解剖の結果、二人の死因は窒息死であった。生き埋めを免れた会社員は報復を恐れて警察に保護を願い出た。それによって事件が発覚した。指名手配された仕返しグループはそれぞれに自首して出た。彼らは21歳、中学時代からの仲間であった。およそ当事者とは無関係の彼らは、いったい何の義侠心で徒党を組んだのだろう。まして「廣畑智規」は秀才でもあったのだ。