世間を驚愕させた犯罪事例第2弾です。

その1と同じく時系列ではありません。随意に選んでいます。

犯罪には、背景となる社会不安や時代によって増幅される個人的な不満が渦巻いています。それを考えてみます。

元祖・ストーカー殺人---湘南暴走族少年の呆れた殺意「藤沢母娘殺人事件」の教訓

桶川ストーカー殺人の17年前にその惨劇は発生した。当時はまだ「ストーカー」という言葉はなく、この事件は元祖とも云えるだろう。この時代、1982年頃から、想いを一方的に募らせて、その女性には相手にされない情けない青少年が増えたように思うのだ。惨劇は1982年(昭和57年)5月27日に起きる。神奈川県藤沢市辻堂の会社員宅に少年(と云っても21歳)が不良仲間を連れて押し入ったのだ。その手には凶器が握られていた。押し入った男はこの家に住む長女「畑真輝子さん(当時高校3年生)」に付き纏っていた。当時はまだ「ストーカー」という概念はなく、当然「ストーカー規制法」は、まだ存在しなかった。制定されたのは17年後に起きる「桶川女子大生殺人事件」まで待たねばならない。この「藤沢母娘殺人事件」も「桶川ストーカー事件」に酷似している。たった一つ異なっているのは、被害者が本人だけではなかったという点だろう。押し入った不良どもは、居合わせた16歳の妹「真理子さん」(当時中学2年生)と母親をもメッタ刺しにした。仕事から帰宅した父親が無残に殺された娘たちを発見した。犯人は、長女に付き纏っていたあの男に違いない。すぐに警察に通報した。そして駆け付けた警官が、勝手口に倒れていた母親を発見する。娘たちが襲われた部屋は血の海であった。犯行に及んだのは「藤間青波(事件当時21歳)」である。中学卒業後も定職に就かず悪の限りを尽くしていた。さらに彼は、暴走族の一人で札付きの不良であった。少年院にも3度入所していた。ふざけた名前だがオリックスとは無関係である。こんな出来損ないと被害に遭っていた高校生がどこで知り合ったのか、腑に落ちないのだが、どうやらナンパされたようであった。当初は真面目な付き合いであったらしい。だが、「真輝子さん」は交際を始めたことをすぐに後悔している。この点も「桶川ストーカー事件」と似通っている。「藤間青波」は、偽名「山田」を名乗っていたそうである。交際をやめたいと切り出された「藤間青波」は、「別れるというなら、今まで使ったお金を返せ!」と彼女に迫っている。この点も「桶川事件」と似通っている。逮捕後の取り調べが進んで、彼は恐るべき犯行を自供する。犯行がバレるのを危惧した彼は、襲撃した仲間をも殺していたのだ。さらに、この事件の1年前には、もう1人を殺していた。どちらも少年院仲間である。彼は5人を殺害したことになる。家族3名を殺した彼は、量刑的には死刑以外の判決はなかった。2004年6月15日、上告棄却、死刑が確定した。そして2007年12月7日、彼は死刑執行された。「藤間青波」享年47、その狂犬のような生涯を終えた。この世に生まれてはいけなかった男なのであった---

去勢手術が必要な犯人"鬼畜・高山正樹”---「仙台女児連続暴行事件」の教訓

被害届が60件以上に及んだ「仙台女児連続暴行事件」が発覚したのは2000年(平成12年)8月8日である。仙台市のアパートで張り込んでいた警官が、目撃証言と一致する不審な男を職務質問した。ほどなく強制わいせつ容疑で逮捕。容疑者は「高山正樹(事件当時26歳)」であった。家宅捜査で女児を襲う様子を撮影したビデオテープなど45人分見つかっている。推定被害者数はなんと100人以上である。彼は好みの女児を選別し、顔のきれいな子を襲っていた。その年齢は3歳から10歳であった。1審で彼の蛮行は厳しく断罪され「無期懲役」が言い渡された。控訴審で、鬼畜「高山正樹」は統合失調症を装った。そのため精神鑑定が行われたが詐病を見抜かれてしまう。控訴審でも1審が支持された。彼は、ビデオの他に「ローション」まで用意して女児を襲っていたという。そして「---誰にも言うな!言うと殺しに来るぞ!」などと口止めしていた。死者がいないのが救いだが、被害に遭った女児には救い難いトラウマが一生残るだろう。この性獣「高山正樹」とは如何なる人物なのか。中国人男性と日本女性との混血であった。何も特異な組み合わせではない。だから彼が”性獣”になった理由は、この日中の混血が理由ではない、と云える。この手の性犯罪には、諸外国も頭を痛めている。なにしろ再犯率が異様に高いのだ。「無期懲役刑」は「終身刑」ではない。だから10年も服役すれば野に放たれるのだ。出てくれば同じように女児を襲うだろう。防ぐ手立てはないのだ。だから、性獣の去勢手術が必要なのである。

熊谷市を恐慌に陥れた”不良外人”の爪痕---「熊谷ペルー人殺人事件」の恐怖

在日10年の「不良ペルー人」が熊谷市の住民を襲撃したのは2015年9月13日であった。犠牲者は6人、小学生二人も含まれる。この事件は警察の落ち度が指摘された。ペルー人「ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(事件当時31歳)」は日本語が話せなかった。事件当時、過度のノイローゼに罹っていたらしい。「統合失調症」でもあった。理由はともかく、この事件は、かつての「深川通り魔殺傷事件」を思わせる。凶器は同じく包丁である。不審な外国人がいるという通報で、熊谷署はこのペルー人を保護したが、男は隙を見て逃げ出す。直後に第一の殺人が起きている。だが、熊谷署にスペイン語を理解できる署員はいなかった。無理もない。当局が非難されたのは、第一の殺人が、件のペルー人の犯行との咄嗟の判断がなされなかったことである。結果6名の連続殺人という最悪の結末を招いてしまう。熊谷市を恐慌が襲った。犠牲者の出た小学校では、児童全員を集めて保護者に連絡。下校の際は保護者がそれぞれ児童に付き添った。この容疑者は、本国ペルーに重大犯罪を犯した兄がいた。驚くなかれ17人もの大量殺人である。「ナカダ」本人もまともではない。事件前に住居侵入を繰り返している。熊谷警察署では、素行の悪い彼をマークしていたのだろうか。出稼ぎのため来日する外国人がすべて異常人格者だというつもりはないが、潜在的に彼らを犯罪予備軍と思って間違いなさそうである。住居の戸締りは万全にしたい。

地図から消えた「浜宿海岸」---「九十九里連続焼死事件」の不都合な一致

今から30年以上前1982年1月17日に、九十九里海岸で炎上したクルマのトランクから焼死体が発見された。死体は灰の固まりになっていた。身元特定は不可能と思われたが、警察の捜査が進み身元が判明する。その死体は行方不明となっていたクルマの所有者であった。千葉県の有名な歓楽街「栄町」でクラブを経営する女性実業家であった。幽霊騒ぎが広まり、新しい心霊スポットとなってしまい、地図から消えた地名は「千葉県長生郡白子町浜宿」である。この地で連続して起きた焼死体事件だが、奇妙な一致点があった。それは犠牲者の年齢である。いずれも44歳である。最初に発見されたのは44歳のクラブ経営者、金融業も営んでいた。彼女はクラブ「漁火」のオーナーママである。このクラブは常時10人ほどのホステスがいた。美人ぞろいで知られていたそうだ。さらに同年4月6日には、炎上する乗用車が発見される。運転席には黒焦げになった男性の焼死体があったのだ。こちらはすぐに身元が分かった。車外に靴が並べてあった。その中に車検証と遺書が入れてあった。自殺と断定される。男性は千葉県東金市のバス運転手44歳であった。そして4月21日、ほぼ同じ場所でトラックが炎上していた。パトロール中の九十九里管理事務所長が発見した。運転席の男性が死んでいた。男性は、その前夜に「---もう帰らないから---」と自宅に電話していた。こちらも自殺と思われた。身元は千葉県柏市の会社員44歳であった。クラブ「漁火」のママは金融業の関係から裏社会と接点があったようだ。捜査は暴力団関係者に絞られたが1997年に時効が成立した。単なる偶然だったのだろうか。さらに同じころ1件の心中事件が起きていた。幼い子供と父親と見られる男性が車内で焼身自殺を遂げたのだ。この男性は44歳ではなかったのだが---

多発する凶悪事件の谷間に埋没---「柏市・みどりちゃん殺人事件」

この事件が起きた1981年(昭和56年)6月14日は、異常な犯罪月間であった。「パリ人肉事件」と「深川通り魔事件」の狭間で起きた世間を震撼させた殺人事件。柏第三小学校6年生の「波多野みどりちゃん」(事件当時11歳)が小学校の校庭で何者かに殺されたのだ。ナイフの刺傷は数か所に及び右手首には刺さったままであった。犯行が行われたのは、柏第三小学校の校庭西側でマラソンコースであった。事件発生当時、世間はこの通り魔的犯罪に凍り付いたが、間もなく忘れ去られてしまう。それは、この年に相次ぐ猟奇・殺人事件が多発したからでもある。なお、「佐川一政」が引き起こした「パリ人肉事件」は、連日放映されたものだ。そのために「みどりちゃん事件」は、隅に追いやられてしまったのだ。そして、近所の中学3年生の少年が(事件当時14歳)殺人容疑で逮捕された。少年は近所のスーパーで同じナイフを数日前に購入していた。少年は「波多野みどりちゃん」と面識があったのだろうか。みどりちゃんの兄が仲間と一緒になって少年をイジメていたらしいのだ。少年の凶行は、イジメに対する「復讐」であった可能性がある。当時の新聞報道では、”姉と喧嘩してむしゃくしゃしてやった””通り魔的犯行””誰でも良かった”などという供述が記載されている。少年の自供通りに自宅からナイフも発見された。真相が「復讐」であったなら、この事件は通り魔殺人ではない。彼は最初から「みどりちゃん」を狙ったのではないだろうか。少年は、少年院送致が決定している。事件後、校庭には血痕が10数メートルに渡って続いていた。ナイフで襲われた「みどりちゃん」は必死に逃げたのだろう。少年の激しい殺意を窺われる。

封印された少女監禁---犯人自殺で幕を閉じた「プチエンジェル事件」の闇

靴も履かず”はだしの少女”が駆け込んで来た。「--助けて!!警察を呼んで下さい。まだ友達がいるの!」2003年7月17日正午過ぎ、一人の少女が花屋に逃げ込んで来た。逃げてきたのは赤坂のウィークリーマンションであった。こうして発覚したのが「少女4人監禁・保護事件」である。通称「プチエンジェル事件」と呼ばれる不可解な事件であった。通報を受けて警察が現場に踏み込んだ時、容疑者はその部屋で自殺していた。監禁されていた4人の少女は小学6年生である。彼女たちは「掃除のバイト」に応募していた。そして手錠をかけられ丸4日も監禁される。「掃除のバイト」とは口実で、実際には「少女専門のデートクラブ」での接客業である。店名を「プチエンジェル」といった。犯人と思しき「吉里弘太郎(事件当時29歳)」の自殺によってこの不可解な事件は幕を閉じた。”小学生が行方不明”の連絡を受けていた多摩中央署では懸命な聞き込み捜査を行っていた。そして一人の少女の自宅から「プチエンジェル」のアルバイト募集というチラシを押収する。そこには「吉里弘太郎」の携帯番号が記載されていた。そのチラシを配っていたのは雇われた女子高生(あるいは女子高生風の女性)であった。警視庁は、失踪少女たちの公開捜査に踏み切る決断をしたが、その前日に一人の少女が脱出に成功したのである。少女たちに、身体的な被害は無かったのであろうか。報道では窺い知ることができない。「吉里弘太郎」は本当に自殺だったのか。司法解剖はされなかったという。だが、遺書も見つかっていないのだ。誰かに消されたのでは?といった疑問が湧いてくる。事件の裏に闇社会の影がちらつく。「吉里弘太郎」とはいったい何者なのであろうか。彼は大学卒業後、真っ当な職業に就かず、”裏ビデオ販売”を行って生活していた。この事件には、明らかにされなかった謎が多い。最大の謎が「吉里弘太郎」名義の通帳である。なんと残高35億円なのだ。非合法ビジネスに手を染めていたらしいのだが、それにしても個人の通帳に35億円とは穏やかではない。件の「プチエンジェル」は、事件後に営業を停止したままである。

引きこもりは凄惨な犯罪を呼ぶ---「土浦・両親姉殺人事件」が暗示する暗い未来

茨城県土浦市、水戸街道沿いの豪壮な屋敷で、姉と両親を惨殺すると云う惨劇が起きた。平成16年11月25日である。犯人は、この家の長男、仕事に就かず引きこもりであった。祖父は市会議員を務めた経歴があり、云わば地方の名士であった。その飯嶋家で、当主「飯嶋一美さん」(当時57歳)は、顔面・頭部をハンマーでたたき割られて絶命。姉も同じように頭部を割られて死んでいた。また、母親「飯嶋澄子さん」は数回刺されて死亡。この母親以外は正視に絶えないほどの損傷であった。姉も父親も100回以上ハンマーで殴り続けたと長男「飯嶋勝」(事件当時28歳)は供述している。駆けつけた警察官は、その凄絶な現場に臨場し息をのんだそうだ。勝は、父親から厳しく養育された。というより虐待に近い育て方であったそうな。先祖はこの一帯の大地主である。また「飯嶋一美さん」は土浦市役所の幹部でもある。「飯嶋勝少年」には、幼いころ祖父母や両親と育んだ思い出はなかった。覚えていることと云えば、殴りつけられたり蹴りつけられたりした憤怒の感情だけである。そのせいか小学校高学年で、母親に暴力を振るうようになってしまう。父親の暴力と、母への仕返しは高校生になるまで続いた。云わば「火宅」の長男であった。「母原病」と云うより、このケースは「家原病」とでもいうべきだろうか。姉をむごく殺したのも激しく憎んでいたからだ。本人の思い込みもあったのだろうと思えるが、この姉はいつも父親に味方をして、弟「勝少年」の告げ口をしていたらしい。犯行の前日もそうである。長男は、姉とストーブを点火する、しないで兄弟げんかになってしまう。姉は、それを父親に読ませるべくメモに残す。長男はメモを見つけて激昂する。「---殺人事件になるぞ!分からないのか!」帰宅した父は激怒した。「仕事もしないで、いつまでも---そのザマはなんだ!」翌日、勝は家族を襲撃したのである。昔年の憎悪が爆発した。何度頭部を打ち据えたのか覚えていなかった。この「飯嶋家の惨劇」は家族内で収まったから良かったのかも知れない。池袋や秋葉原の無差別殺人の例もあるのだ。跡取りの長男とはいっても、子供はのびのび育てるべきである。そして暴力は賛成できない。長男は、裁判で「統合失調症を発症しており責任能力なし」と判定された。そもそも長男が引きこもりになったのは、この家族に責任がある。おそらく「飯嶋一美」さんも祖父から暴力を受けて育ったのだろう。

閉ざされた家族は音を立てて崩壊---「中津川一家6人殺傷事件」の不可解

平成17年2月27日であった。岐阜県中津川市で、ある一家5人が血の海に沈んだ。妻以外の家族全員を殺害した「原平はらたいら」(事件当時57歳)は、暴君の母親(チエコ85歳)を憎んでいた。そして母を殺すために家族全員に手をかけてしまった。母の嫁いじめは度を越していたらしい。嫁への嫌がらせは毎日続いていた。嫁のすぐ先に入浴し、浴槽にに大量のごみを浮かべたり、酷い場合には、大小便を風呂場に残した事もある。さらに、根拠もなく嫁を泥棒呼ばわりした。嫁は夫に毎晩愚痴をこぼしている。だが、母親は暴君化し息子は何も言えなかったらしい。暴君を殺害して、他の家族には無理心中を強いるつもりであった。犯行当時、原平は老人保健施設事務長を務めていた。いわば社会的には要職にあったと云えるだろう。母親は、毎晩のように自室にこの息子を招き入れ、嫁にたいする悪口を息子に浴びせかけた。3世代の同居は、それぞれが自我を押し出していては、共同生活が成立しない。また、ここまで人間性を破壊するものだろうか。この異常な”家族皆殺し事件”には、濃密な家族関係をさらに濃く煮詰めていったような病的な印象を覚える。殺された他の4人にどのような落ち度があるというのだろう。何も家族まで殺さなくても、「原平」は、なんという身勝手な息子だろうか。家族を殺害した後、自分ののど元に包丁を突き立てた---だが、彼は死にきれなかった。その直前に、娘婿の「平健一」は「原平」と格闘した上で、なんとか刃から逃げて警察に通報したからである。平成20年6月3日、1審法廷で「原平」は、「母を殺さなければラクにはなれなかった---」と被告人質問に答えている。今風に云えば、「原平」は57歳でありながら極度のマザコンであった。彼は、妻を連れて母親から脱出すべきであった。

介護疲労?病気の妻を殺害---「上尾バラバラ殺人事件」の教えること

この事件が教えること。それは、「安楽死容認の是非」ではないだろうか。事件は平成7年7月6日に発覚している。愛妻家の会社員「福原武志」(事件当時29歳)は6月27日に寝ている妻(同32歳)をパジャマのズボンで絞殺した。「---うつ病が酷くて、これ以上見ていられなかった---」と埼玉県・上尾署に自首した。アパートでの夫婦二人暮らしであった。遺体の始末に困ってバラバラに解体したが、その事に大した意味はないと思える。この気の毒な事件は、映画「半落ち」を思い出させる。認知症に罹って苦しんでいた妻を殺害し、自分が勤務していた警察署に自首するも、それから2日間の行動を頑なに隠した事件を描いた作品である。妻を殺害したのは現職の刑事であった。刑事を寺尾聰が演じている。取り調べをする刑事の部下に柴田恭兵が脇を固めた。一人息子を白血病で亡くした妻は、認知症に罹り息子の亡霊を見ることがしばしばであった。不憫で仕方がなかった夫は、自分も死ぬつもりで妻を絞殺する---だが、意外な真実が明らかにされていく---これは映画の中での話だが、上尾事件の場合には何があったのか。今後、高齢化が一段と進んでいくのだ。身内の介護の問題は平凡な夫婦の在り方を変えてしまう。

裁判長をはじめ、検事や弁護士も、法廷が涙に沈んだ日---「京都介護殺人」の憂鬱

殺されたのは「認知症の母親」だった。母親承諾殺人容疑で逮捕されたのは、仕事をやめて母親の介護に専念していたその息子である。「---いつの日かこのような悲しい事件が起きるかもしれない---」と、誰もが考えていた。この痛ましい事件後は、同様の「介護殺人」は、珍しいものではなくなっている。当然だが、仕事を辞めた息子の「片桐康晴さん」は、当然ながら無収入であった。生活保護の相談に役所を何度も訪れている。その都度、「あなたはまだ働ける。もう少し頑張りなさい」と、担当者は冷たかったそうだ。事件発覚後、この役所の冷酷な仕打ちに世間の非難が集中した。もう、この親子は日々の食事すら満足にできなかった。すでにカードローンの限度額いっぱいに借りていた。

"---お母さん、もう、お金があらへん---あかんわ。もう死ぬしかない---”

"---そうか、あかんか---苦しゅうないようにやってや---”

そして、心中を決意した息子は泣きながら母親の首をタオルで絞めた。もちろん、母の後を追うつもりであった。だが自殺は未遂に終わる。この悲しい事件は2006年2月1日に京都伏見区を流れる桂川の河川敷で起きた。認知症の母親は事件当時86歳である。容疑者の息子「片桐康晴さん」は同じく54歳。母親を一人で介護するために仕事も止めていた。京都地裁の冒頭陳述で全員が泣いた。そして裁判長は声を詰まらせながら判決を言い渡した。有罪ではあるが、異例の執行猶予が付いた温情判決であった。と同時に行政にも責任の一端があると指摘している。母を殺してしまったが---生まれ変わることができるなら、もう一度この母のもとで生まれたい---被告「片桐康晴さん(当時54歳)は、法廷で再起を誓ったが、それから8年後、なんと琵琶湖に投身自殺をしてしまった。彼の魂は母親のもとにたどり着いたのだろうか。「片桐康晴さん」は心中を決意する前に他に解決策を模索していたのだろうか。生活に困窮する高齢者が自殺する社会。何かがおかしいと考えるのは店長だけではあるまい。

襲撃を呼び込んだ家族の居座り---戦慄「練馬一家5人殺人事件」の惨劇

不動産トラブルが一家5人を襲った。戦慄の一家皆殺しは、1968年(昭和58年)6月28日に発生した。犯人は「朝倉幸治郎」という、不動産鑑定士であった。襲撃された一家は競売物件に住み続けていた。朝倉は、不動産業者にこの競売物件を1億3000万円で売却できることになっていた。彼は住人に立ち退きを要求したが、一向に応じようとしない。朝倉は、早急に業者に物件を渡さなければ破産しかねない。大変なピンチであった。裁判所に訴えればらちが開くかも知れなかったがそれでは時間がかかりすぎるのだ。朝倉の心に悪魔が忍び込んだ。彼は、犯行計画を練った。子供がいたが、容赦しなかった。家族全員を殺し、その遺体を隠してしまうという恐ろしい計画である。電動ミンチ機まで買っていた。さらに近所にアジトとなるアパートを借りていた。彼は云わば「神隠し」を狙った。遺体さえ発見されなければ---。焦燥が日々募り、憤怒に変わっていく。平和だった家庭に惨劇が忍び寄っていた。襲撃するための金槌を2本、マサカリやノコギリを準備、着替えまでバッグに入れた。6月27日に訪問、金槌2本で主婦を殴り殺す。やがて家族が帰宅して来た。それを次々に殺害した。長女だけが凶行を免れた。林間学校に参加していて不在だったからである。夜になった。朝倉は血の海で仮眠をとった。そして解体に着手した。ところがこれが重労働であった。彼は、そのまま寝込んでしまった。そして隣の主婦に見つかってしまう。「朝倉幸治郎」は駆け付けた石神井署によって逮捕された。5人を殺害した朝倉は凶行を冷静に振り返っている。「復讐が怖いので、最初から子供は殺そうと思っていました。いくら立ち退くように申し入れても、まったく無視する---怒りが込み上げていました---」この競売物件は、妻の実家が事業に失敗して破産。借金を払えず、土地と建物が担保に入っていたために、信用金庫が競売にかけたものであった。それを落札したのが「朝倉幸治郎」だった。不動産屋の彼は転売目的でその家を購入した。費用は1億600万円である。彼自身はそのために借り入れを行っている。その返済期限も迫っていた。訴訟提起も行ったが、一家は取り合わなかった。妻の実家が設定した担保であった。「我が家には関係ない」といつも要求を突っぱねていた。競売に掛けられたのは確かにこの一家の過失ではない。だが、家屋の所有者である実家では、立退料の吊り上げを考えていたらしい。惨劇を招いたのは彼らの実家である。 何度訪問してもいつも門前払いを喰わされた「朝倉幸治郎」は、次第に殺意を募らせる。この頃、昭和58年は練馬区一帯の宅地化が進み、土地が値上がりを続けていた。しかも地下鉄、私鉄が延伸していた。不動産業者にとっては、濡れ手に粟の良き時代であったという。「朝倉幸治郎」は、土地ころがしの経験は浅かったようだ。一般に競売物件にはいわくつきの事故物件が多い。だから落札してもすぐに売却できないことがある。彼はそれを全額借入金で落札したのだ。この時点で彼の失敗が見えている。また、実家の言いなりになって立退料を吊り上げようとして知らぬ存ぜぬを決め込んだ一家にも大きな非があると思うのだ。この凶悪な事件は、普通の人がいとも簡単に加害者と被害者になりうるという人間の持つ業の深さを考えさせる。

刑務所生活の”寒すぎた夏”---近年稀に見る悪夢「マブチモーター社長宅強盗殺人放火事件」の震撼

その残虐な強盗殺人事件が発生したのは2002年8月5日、千葉県松戸市のマブチモーター社長宅で起きた。犠牲になったのはこの家に住む母と娘である。急を聞いて急いで戻った社長と息子であったが燃え盛る炎を前になすすべもなく、見守る以外に何も出来なかった。自宅は全焼し、焼け跡から二人の遺体が発見された。凶悪犯二人組は「小田島鉄男(事件当時62歳)」と「守田克実(同55)」である。彼らは宮城刑務所で親しくなり出所後どうするかを謀議していた。顔を合わせばどこのだれをやるか話し合っていた。「金持ちの家をやろう」「どこがいいかな」「防犯の手薄な戸建てが良い」「証拠を残さないようにしよう」「いっそのこと燃やしてしまうか」彼らが狙ったのがマブチモーター社長宅であった。留守番をしていた母娘を襲い貴金属などを奪った。殺害後、遺体に燃料をかけ火をつけて逃走した。彼らは初犯ではなかった。すでに2件の強盗殺人を犯していた。この強盗では「宅配便」を装っていた。用意周到であった。防犯対策がなされていても、誰の目にも「宅配便」のセールスドライバーに見えたのだ。彼らは家に入り込むなり、地獄の使者に豹変する。強盗殺人放火と云えば、死刑を免れない。彼らは3件の強盗殺人をはたらき4人もの殺人を犯している。その手口は目をそむけたくなるほどである。主犯格の「小田島鉄男」は、昭和18年に北海道で生まれている。生まれた直後に父親は死亡した。「生い立ち不幸」であった。小田島は小学1年のとき母親に置き去りにされている。さらに中学の頃、母から「一緒に死んでくれ」と心中を持ちかけられ殺されかけたこともあったという。母の再婚相手は、どうしようもない”飲んだくれ”であった。小田島の不幸には絶え間が無かったという。もちろん、だからと云って罪が許されるわけではない。この強盗事件のあと、刑務所の在り方が問題にもなっている。一定数の犯罪が再犯であり、その謀議が刑務所で行われている。出所した前科者を暖かく受け入れてくれる職場がない。彼らにその技能もない。---結局、刑務所に舞い戻ってくる。だが、二人組に戻れる刑務所はなくなった。彼らは死刑が確定しているからである。

在日外国人は危険な存在なのか---美人妻が運転するベンツ「福岡一家4人殺害事件」の悲劇

博多港で、鉄アレイを重しに鎖で繋がれた親子4人の遺体が発見された。平成15年に驚愕の事件が発生する。親子は、絞殺された後に港に沈められたらしい。この被害者一家は「焼肉店」の経営者であった。当時は「狂牛病」の騒ぎがあり客足が遠のいていた。この家で、子供を含めた一家全員が殺されたのだ。直ちに金融機関の捜査が行われる。だが現金が引き出された形跡がなかった。さらに被害宅からも現金は盗み出されなかった。捜査は怨恨の線で進められていた。子供まで殺されていた一家皆殺しという類まれな残忍な犯行である。平成12年には「世田谷一家強盗殺人事件」が起きていた。幼い子供まで殺されている。この事件でも「外国人」の犯行を疑う人が多かった。警察の懸命な聞き込み捜査で、犯人と思しき人物が「鉄アレイ」を買い込む姿が近くの店舗の防犯カメラに映っていた。画像から3名の中国人留学生が容疑者として浮上する。ほどなく彼らが逮捕された。しかも容疑を認める自供も早かったようである。彼ら留学生はお金に困っていたらしい。お金持ちの家を襲撃する計画を立てた。その目標とされたのが被害者「松本真二郎氏宅」であった。松本さんの家は何も豪邸ではなかった。ごく普通の家屋である。近所に豪邸は他にもあった。では、なぜ留学生が目を付けたのだろうか。その答えがガレージに停めてある高級外車である。クルマは「ベンツ」だった。さらに美貌の妻が運転していて、その姿は近所でも評判であったらしい。---裕福な家に違いない。彼らはそう考えた。もし妻が国産車に乗っていれば、あるいはこの一家皆殺しは起きなかったに違いない。彼らは、本国で前科は無かった。むしろ向学心に燃えて来日した。何が彼らを狂暴な悪魔に変えたのか。民族が異なると狂暴になるのだろうか。先の日中戦争下で理性を失った日本兵の暴虐な例が報告されているが、それも同根なのだろうか。そして、被害者家庭の防犯対策はきちんとなされていたのだろうか。店長は「ダミーカメラ」の設置を提案している。

惑星の周期は規則正しい---連続殺人も規則正しい「福岡18周期連続殺人事件」の恐怖

その凶悪事件は福岡で発生した。18日間の規則正しい周期で3件の連続殺人が起きていた。平成16年12月から平成17年の1月にかけて、規則正しい間隔で3人の女性が被害に遭ったのだ。逮捕されたのは「鈴木泰徳(事件当時35歳)」である。彼は運送会社でトラックに乗務していた。結婚もしており近所では「子煩悩な父親」と知られていた。勤務態度も真面目だったらしい。だがこの男にはもう一つの隠された一面があった。精神病理的側面である。彼は襲った女性の所持品を奪い自宅に持ち帰っていた。戦利品のつもりだった。彼は、飯塚市の専門学校生(当時18歳)、北九州市の主婦62歳、さらにANA関連会社のOL(当時23歳)の3人を殺害し金品を奪った。若い二人の女性は性的暴行も受けている。鈴木は福岡刑務所に未決囚として服役している。死刑執行もそう遠くないと思われる。鈴木は殺した女性から奪った携帯を使いエロサイトにアクセスを繰り返す。さらに心配してメールをした友人らしき相手に「死んだ---」と返信まで行った。当然、それがキッカケで逮捕された。法廷でも一切反省の弁は無かったという。すでに頭がイカレテいる。あげく「罪は憎んでも人は憎んではいけない」などと勝手な御託を主張したという。極刑以外の選択はない。一体どんな男なのか。精神病院の治療歴もなければ前科さえない。ただ競馬にのめりこむなど浪費癖があった。1度サラ金の借金を父親が肩代わりしている。結婚後子供を成したが、嫁姑の折り合いが悪く、家庭は”火宅”の惨状を呈したという。彼は毎晩のように飲みに出かけ新たな借金を作った。1度殺人を犯せばもう心に抵抗はなかった。むしろ女性を殺すことで気分が高揚した。金品も身体をも奪った。それら蛮行は、嫁姑に対する”復讐”でもあった。鈴木の逮捕が遅れていれば、おそらく18日後に第4の殺人が起きただろう。さらに犠牲者が増えていく可能性が高い。「シリアルキラー」になり損ねた「鈴木泰徳」は、異常な「サイコパス」の資質十分であった。

警官が善良な市民とは限らない---凶悪犯は元・京都府警巡査部長「広田雅晴連続射殺事件」

仮出所した矢先の強盗殺害。この連続殺人は1984年(昭和59年)に発生した。凶悪犯「広田雅晴」(事件当時41歳)は1984年9月4日、以前勤務していた京都西陣署管内に出向いた。そして警官を殺してピストルを奪った。サラ金強盗のためである。広田はその足で大阪へ向かった。第2の事件が起きる。サラ金従業員を射殺、現金73万円を奪って逃走した。警官当時から上司に向かって平然と文句を云い放ち、常に挑戦的な態度を崩さなかった。性格は横暴、野蛮で友人も出来なかったそうだ。無理もない。狂犬病のように振る舞っていた。警官というよりどこかの暴力団構成員のような恐ろし気な雰囲気を醸し出している。広田は一体どんな環境に育ったのだろうか。店長が想像するに、父親から虐待されていたのではあるまいか。それにしても、京都府警はよく彼を迎え入れたものだと思う。最初の殺人は、京都・船岡山公園をパトロール中の鹿野巡査(当時30歳)をナイフでメッタ刺しにしている。しかも16か所も。激しい殺意が感じられる。さらに京橋駅前のサラ金に押し入る。応対に出た鈴木隆さん(事件当時23歳)を射殺、お金を奪って逃走した。この1984年前後に何があったか、時代背景を見ておく。同年10月に警視庁元警部が脱サラに失敗、多額の借金を抱え2件の強盗殺人を犯している。1983年10月には、大阪府淀川署の巡査部長がピストルで愛人のホステスを射殺している。1985年には、神奈川県警の元巡査部長の銀行強盗が発生した。この元巡査部長は12時間ろう城を続け短銃自殺をしている。警察の不祥事が相次いでいたのだ。「広田雅晴」は、平成9年9月19日、最高裁において「死刑」が確定した。警察官の適性など皆無だったと思える。というより人格が破たんしている。

少年は理由を"後で作った"---理由なき中学生の反乱「目黒・家族3人殺害事件」

理解できない少年犯罪は1988年(昭和63年)7月7日目黒区で起きた。両親と祖母を包丁でメッタ刺しにして殺害したのは、中学3年生の長男であった。目黒区立第十中学校で学ぶ。中学校は都内1,2位を争う成績優秀な学校であったが、少年は2年生になって平均点を下回るようになったという。

サッカー部ではレギュラーになれなかった。性格は明るく周囲をよく笑わせていた。普通にアイドルも好きで、当時人気絶頂の「南野陽子」に熱中していたようだ。どこを見てもごく普通の中学生である。では、この年を俯瞰してみる。昭和天皇の容体悪化は10月からである。昭和の終わりが間もなくやってくる。瀬戸大橋が開通したのが4月。2月には名古屋市内で不良少年たちがデート中の若いカップルを襲い監禁、リンチを加えて殺害し山中に埋めるという凶悪非道な事件が起きている。少年犯罪が目立った年でもあった。中二少年の家族殺害に戻る。父親は独立して建材販売店を創業、成功していた。連日多忙のため少年と遊んでやる時間はなかったようだ。また母親も仕事を持っていたので、いきおい祖母が少年の面倒を見ていた。また少年は生まれつき病弱だったという。そのために祖母は、ことさら少年を甘やかして育てたように思われる。小学校時代の評価は悪くなかった。明るい小学生だったようだ。中二になってから部活のサッカー部ではレギュラーから外された。余程ショックだったのだろう。勉強にも身が入らなくなった。店長が邪推するに彼は身体的な不具合を抱えていたのではあるまいか。例えば「蓄膿症」である。傍目には病気には見えない。だが店長は病んでいたからよく分かる。集中力を奪うのだ。勉強にもスポーツにも身が入らない。テストの点数は全教科平均を下回ってしまった。おそらく家族は少年を責め立てたのだろう。家族は連日少年に「勉強しろ!」とやかましく説教している。少年のイライラは頂点に達していただろう。少年は両親、祖母を殺害したと友人に電話した。「---親を殺しちゃった」「嘘だろう」「じゃ、見に来いよ」「まさか、本当にやるなんて--」少年の親たちはどうすべきだったのだろうか。あまりにも”勉強””勉強”と云い過ぎたと思われる。両親は、少年が小学校時代にどれだけの想い出を作っていたのだろうか。殆んど無かったのではないだろうか。

発狂する家族---伊勢崎発「主婦暴行監禁餓死事件」の不可解

その家族は「共同正犯」として起訴された。逮捕当初こそ報道が過熱したが、ある一線を境に急速に萎んでいく。事件の当事者たちは尋常ではない家族であった。それは「不可触」とも表現すべき尋常ならざる家族であった。被害女性は、この加害家族の長男と同級生である。平成13年11月12日、伊勢崎消防署に119番通報があった。「---妻が、死んでいる---」通報者は「金井幸夫」、この家の長男である。彼が妻だと云った女性は「長谷川三根子」といい幸夫とは中学校の同級生である。婚姻関係はない。ただしその準備をしていた。婚姻届けが受理されれば警察沙汰になる前に葬式を出すつもりであった。幸夫と三根子は中学の「特殊学級」でクラスメートだった。二人は、普通学級では勉強についていけなかったらしい。三根子は結婚していたが、十分な家事ができなかった。夫は、彼女の知恵遅れを気にしなかった。むしろ素直な性格を愛してもいた。だが、彼女は家出する。原因は、幸夫である。この幸夫は成長にしたがって狂暴になっていく。典型的な「内弁慶」であった。2度3度と結婚をしたが、その都度妻は殴られて青あざを作り恐れをなして幸夫から逃げ出した。家族も彼の暴力のまえに恐れをなしていた。彼に姉がいた。幸夫は、この姉を強姦していた。隣近所では、姉の泣き叫ぶ声を毎日のように耳にしている。しかも友人たちからお金を剥ぎ取り、姉の身体で返すと云ってこの姉を強姦させていた。店長の私には信じることが出来ない。これで家族と呼べるだろうか。不幸なことに、姉は精神に変調をきたしてしまった。家庭内暴力、家庭内レイプのすさまじさが想像される。だが、この家族が一つにまとまった。何故か。長谷川三根子の加入である。そして4年もの間、家族は三根子を虐待する。閉じ込めて食事も与えなかった。三根子は台所の残飯を食べて飢えを凌いだ。脱走を試みたが連れ戻された。自殺を試みたがこれも失敗した。そうすると虐待がさらに凄惨なものになった。食事も一切与えられなかった。やがて、次第に動けなくなってしまう。地獄の日々であった。家族の収入源は、精神が破たんした姉が受給している障害者手当であった。いったいどのような生育環境が「金井幸夫」という化け物を育てたのだろう。

退職時は「警部」だが、「澤地和夫」の転落人生---「山中湖連続強盗殺人事件」の何故?

その惨劇が起きたのは1984年(昭和59年)である。元・警視庁警部「澤地和夫」が22年間真面目に勤務した警察官を辞めた。階級は「警部」であった。そして料理好きが昂じたのか彼は「大衆割烹店”はし長”」を新宿にオープンした。開店資金は4,000万円。そのほとんどを借金で賄った。住宅金融公庫のほか保証協会、信用金庫、信販会社などである。借り入れに当たっては、元同僚や部下が「保証人」になってくれた。割烹店は開店当初は賑わった。それもそのはず、仲間たちが毎日のように飲食に来てくれたからであった。だが自己資金0では借入金の返済がのしかかってくる。彼の地獄への転落が始まる。返済に困りさらに借金を重ねた。同僚や部下にも協力を仰いだ。そのせいで彼らは、土地を失ったり、家庭崩壊したりと悲惨な目に合っている。彼ら同僚は、警察官には禁じられていた「連帯保証人」になっていたからである。それだけ「澤地和夫」は人望が厚かったのだ。ここで大きな疑問にぶつかる。「澤地和夫」は、きちんと返済計画を立てていたのだろうか。「大衆割烹店」として当初の店舗は規模が大きすぎたのではないのか。退職金を手にしていたハズ、ではなぜ自己資金が0なのだろうか。西新宿に出店した理由は?これは趣味ではないのだ。冷徹なビジネスである。勝算はあったのだろうか。店長の私には皆目理解ができないのだ。金融機関が融資を受け入れたのは「澤地和夫」の個人信用ではなかった。金融機関は、澤地の「事業計画」を吟味したのだろうか。もちろん家族や親類は開店に猛反対している。「はし長」は経営が軌道に乗らないままであった。開店3年後に彼の借金は1億5千万円を超えていた。精神的にも追い詰められてしまった。「---何とかして大金を作らねば---」

そんな折り、彼は同じように借金を抱えて首が回らなくなった男と知り合った。「澤地和夫」はいやしくも元警視庁の警部であった。だがそんな経歴など、もう邪魔でしかなかった。彼は用意周到に計画を練った。---そして1984年を迎えたのだ。都内の宝石商が最初の犠牲者である。さらに埼玉の金融業者が狙われた。殺人の舞台は「山中湖」であった。世間は、この元警部が犯した連続殺人に呆然となった。真面目な情に厚い人柄であり、獄中で書いた手記は、文章も優れていた。評論家のような歯切れの良いものだ。週刊誌に連載され脚光を浴びた。「料理人」よりも「評論家」に向いていたのでは、と思わせる。「澤地和夫」---2008年12月16日、死刑執行を待つ身であったが、多臓器不全のため東京拘置所で死亡した。享年69歳であった。

隣に住んでいた殺人鬼---「中野テレビ騒音殺人事件」の惨劇

殺されたのは10歳の子供を含めて5人。だが犯人の大学生は「不起訴処分」になった。精神鑑定で「責任能力なし」とされたからである。1982年10月6日、東京都中野区で事件は発生した。2家族5人が殺害された。逮捕されたのは大学生「村田等(22歳)」である。彼は両家に対して繰り返しテレビがうるさい、子供の声がうるさいと苦情を言っていた。村田は元・中学校教師を両親に持ち、当時は共産党系市議を務める父親からただの1度も叱られたことが無い。母も熱心な共産党活動家であった。両親は、党の青年組織に彼を入れようとしていた。だが彼は反発、家族の仲が悪くなっていった。そのためわざわざ家を出て中野区にアパートを借りていた。甘やかされて育ったせいか、堪えることが苦手で、絶えずイライラした。大学で友人もできず、もとより恋人もいなかった。彼は、わずかな騒音にも過敏に反応した。部屋の外を通りかかる子供の話声にも怒鳴り返していた。隣室にも大学生がいたが、彼は毎日のように壁を叩き「うるさい!」と怒っていた。何度も怒鳴りこんだため、数日後に隣人は部屋を出ていった。第一の犯行はアパートの大家さんである。テレビの音声がうるさくて仕方がなかった。当時95歳という高齢を考えると聴力の不具合のためにテレビは大音量であったと思われる。「村田等」は襲撃計画を立て凶器となる包丁を買っていた。そして5人の生命が無慈悲に奪われた。十分な検討もされず検察は「不起訴」を決めてしまった。「法治国家」の看板を下ろしたかのようであった。両親が熱心な共産党員だったからだろうか。裏で「政治的な何か」があったのではないだろうか。事件後、「村田等」は都立松沢病院に措置入院させられた。病院側では、彼には重大な精神疾患が認められない、と結論した。この事件は当時世間の耳目を集め連日報道された。これより杜撰な「精神鑑定」によって凶悪犯罪の犯人を裁くことが困難になっていく。

無差別殺人に憧れた高校生---早稲田高等学院「朝倉泉祖母殺人事件」

東京都世田谷区、元東大教授の祖父とお茶の水大学教授の父が住むフランス語学者家庭でその事件が起きた。1979年(昭和54年)1月14日である。早稲田高等学院1年生「朝倉泉」は、彼を溺愛する祖母を殺害した。大学ノートに記された大量の「犯行声明文」が有名になっている。曰く「エリート批判に対するエリートからの報復---」とし、一般大衆たちや劣等生たち、さらに祖母や母親のいやらしさに言及していた。少年は祖母を殺害したあと付近のビル14階から飛び降りて自殺している。母親は、脚本家として売れ始めており多忙を極めていた。そのため、1年ほど前には離婚しており、このことが少年の心を歪める一因になっただろう。そして、その祖母の異常な干渉が続けられた。服装や持ち物になにくれと文句を云った。少年は微妙な思春期に入っており、祖母の干渉がうざったくて仕方がなかった。読書の内容まであれこれ指図をしてくる。おそらく、これは店長の邪推であるが、少年は”マスターベーション”を祖母に見つかっていたのではないだろうか。そのために、自らをエリートと思い込む反面、自分の心はその罪悪感に溢れていたのではあるまいか。学者家庭であり、東大卒の祖父は高名なフランス語学者、そして父親も東大出であり、しかも祖父の教え子であった。母親は津田塾大学出身。そんな少年は、他人を見下すことしかできなかったようだ。離婚がなかったなら、不在時に部屋に入り込み机の中まで調べるなど祖母の干渉を常識を超えている。それほどの干渉を受けなかったら、おそらく事件は発生しなかったと思われる。ちなみに、この事件の前日1月13日に初の「全国共通1次試験」が実施されている。店長の私は、この「朝倉」姓に大変興味を持った。あるいはこれは織田信長に滅ばされた下剋上大名「朝倉」の末裔ではあるまいか?もしそうであったなら楽しい想像であるが、不謹慎な歴史談義はともかく、少年の「犯行ノート」には、さらなる驚愕の殺人計画が記されていた。殺害計画では殺すのは祖母だけではなかった。家族全員が対象であった。さらに少年が最も好きな?低俗な大衆たちを無差別に殺害する計画が書かれていた。手製の爆弾を使うらしい。そのため理系の大学で爆弾作りを習うつもりでいた。その後の少年を見ると、これは殺人予告ではなく、自殺予告ではなかったのだろうか。

出来過ぎた殺人シナリオ---「佐賀替え玉保険金殺人」のてん末

よく考え付いたものだと店長の私は感心した。事件のあらましはこうだ。1981年1月である。北九州市の水産会社は、倒産が避けられない状況に陥る。その社長(事件当時42歳)は自身に数億円の生命保険を掛けていた。この保険金が手に入れば、当面の苦境を凌げる。だが自殺では意味がない。彼は、生き延びてなお保険金を詐取する方法を見つけた。それが「替え玉」を用意することであった。社長は妻を説得し、さらに愛人に協力させる。競艇場で、彼らは社長に背格好がよく似た男性に目を付けた。言葉巧みに誘い出した。そして背後からバッドで殴り失神させる。さらにクルマごと海に転落させてしまった。佐賀県警では、事故を偽装した殺人事件だとすぐに見抜く。男性の所持品には、水産会社社長の名刺があったところから、警察は、社長になんらかの恨みを持っている人物の犯行に違いないと判断した。連絡を受けた妻が駆けつける。妻は「主人に間違いありません」と偽証した。だが、捜査が進み、愛人が逮捕された。同時に重要参考人として妻が出頭させられた。愛人は、”社長”殺害を認める。ここまで被害者は「水産会社社長」である。なんと、佐賀県警は騙されていたのである。妻と愛人が結託して「社長」を殺害した。この報道に、世間が騒然となったのであった。正しく身元確認をしなかった佐賀県警の初動ミスであった。妻の演技にすっかり騙されている。だが連日の取り調べに妻は降参した。妻は、男性は社長の替え玉だったことを白状してしまった。計画を立てたのは、いまだ健在の社長であり、遺体となったのは社長の「替え玉」であることが発覚する。この事件、これで終わりではなかった。この社長、妻や愛人が白状してしまい、もうおしまいだと観念した。そして新下関駅で電車に飛び込んで自殺した。---どうせなら殺人計画など立てずにはじめから自殺しろよ、と云いたくなってしまう。事件解決後、佐賀県警に非難が集中する。

なんと、被害者の指紋照合さえ行っていなかったのだ。妻と愛人(この会社の社員でもある)が二人とも「---社長に間違いありません---」と偽証したせいでもあった。

これぞ「劇場型犯罪」---取材を有料にして稼いだ悪党「八木茂」

ようやく発覚した「本庄保険金殺人」であった。前年に「和歌山・林真須美保険金詐取事件」が起きていることもあり世間の耳目を集めた。主犯の「八木茂」は死刑が確定している。第1の事件発生は1995年6月であった。犠牲者は、当時45歳の工員である。長期計画で過労死させる計画であったが、途中でしびれを切らしてしまった。そして、致死量の「トリカブト」をあんぱんに仕込み、彼に食べさせて殺害している。工員は利根川で水死体となって発見される。3億円の保険金が妻の元ホステスに支払われた。第2の事件は1999年5月29日であった。犠牲者は当時61歳のパチンコ店従業員の男性である。風邪薬と酒を大量に飲ませて殺害している。この時、1億7千万円の保険金が支払われている。その翌日、第3の犯行が行われた。犠牲者は、当時38歳の塗装工であるが、これは未遂に終わった。塗装工には、9億円の保険が掛けられていた。殺害方法は、こちらも風邪薬である。彼は重体に陥るが一命は取留めた。この未遂によって「八木茂」の保険金殺人が発覚したのである。2008年、最高裁において死刑が確定した。この保険金殺人の被害者は、いずれも「八木茂」が経営するスナックの常連客である。しかも、偽装結婚に協力した悪女たちは主犯「八木茂」の愛人たちであるらしい。彼女たち「共犯者」は、無期懲役が決定している。ここで疑問が湧く。よく認可されたものだ---と。特に第3の保険はなんと9億円と高価すぎる。被害者の年収を考えてみると合点いかない。だが、高額な契約を結んでいたのは「八木茂」と懇意にしている保険外交員だという。「和歌山事件」の「林真須美」は保険外交員であった。これより「保険金ビジネス」が劇場犯罪と化す。

加害者と被害者家庭を引き付けたスピリチュアルな因縁---ピアノ騒音殺害事件

悲惨な事件は神奈川県平塚の県営団地で起きた。昭和49年8月28日であった。午前7時過ぎ、騒音ノイローゼの「大浜松三」は、いつもより早い階下のピアノで目が覚めた。イライラが昂じてきた。息苦しい---彼の心に悪魔が宿っていた。今日こそピアノをやめさせよう。彼は先日買ってきた包丁を取り出して階下へ降りる。ピアノがさらに彼の心を責め立てた。母娘3人を刺し殺してしまう。彼も自殺するつもりであった。時間にしてわずか数分である。現場から逃げ出したが、逮捕されたかったのか、現場に「落書き」を残している。「---人間、殺人鬼にはなれない---」長年、彼を苦しめてきた「騒音過敏症」それがこの悲惨な事件の真犯人であった。昭和49年、この年には何が起きていただろうか。前年からのオイルショックでネオン看板が規制されたり、深夜番組が放送中止になっている。また、プロ野球では長嶋茂雄の引退があり「わが巨人軍は永久に不滅です」の声明が有名になった。昭和41年に着工されたのが「騒音殺人」の舞台となった県営平塚団地34号棟である。「大浜松三」は最後の入居者募集に当選、さらに2カ月後に繰り上げ当選した家族が転居してきた。「大浜松三」のすぐ下の部屋である。生後2カ月と4歳の女の子がいる4人家族である。6畳一間の社宅から解放され、やっと手に入れた3DKである。女の子は、この部屋で駆け回り始めた。無理もない。だが階上に住んでいたのは、「生活騒音恐怖症」に悩む変質者であった。彼の妻は離婚するつもりで実家に戻っていた。すでに夫婦は生活破綻していた。これも無理はなかった。なにしろ物音を立てられないのである。うっかり茶碗を割ったりすれば彼は怒り狂う。カーテンが揺れる音でさえもが耳障りになったそうだ。いつしか彼の心に「自殺願望」が芽生えていた。下の住人は引越してきた際の挨拶にも来なかった。普段顔を合わせても会釈一つしない。物音がうるさくても何食わぬ顔で暮らしている。「大浜松三」のイライラは募るばかりであった。犯行後、彼はふすまに殴り書きを残した。「(騒音で)迷惑をかけているのだから済みませんぐらい云え」---彼の蛮行には、情状酌量の余地が十分にあると云えるだろう。県営団地に繰り上げ当選した家族には、幸先良い転居であったが、それが悲劇への序章であるとは思いもよらなかった。そして入居後3年が過ぎた。4歳の女の子は7歳になっていた。両家族は待ち受ける大団円に向かって堕ちていくのである。それは階下でのピアノの購入であった。「大浜松三」は、このピアノの騒音によって病状が悪化する。練習が始まると部屋を出て近くの図書館や川原に”避難”した。誰か第三者に訴え、相談すれば良かったのだが、もう「大浜松三」は、「自殺願望」が募っていて正常な日常生活が出来なかったのだ。この事件が、無音ピアノ開発のきっかけになったのだろう。音が出ないピアノが現実になる。音はヘッドホーンで聞くことが出来た。さらに良質の防音材が登場する。団地でもピアノを導入できるようになった。この事件のあと同様の事件は起きなかった。ところで、事件の両家族は、偶然出会ってしまったのだろうか。出会うべきではなかったのだが、スピリチュアルな意味において「必然」であったのだろうか。

昭和52年4月17日「大浜松三」は、死刑が確定した。「---たとえ無罪になっても精神病院で暮らすよりは死刑の方がよい---」彼には、音のない暗闇の世界に行くことがただ一つの願いであった。事件発生後、”ピアノの音”ぐらいで母娘3人も殺すなんて、と極悪非道との誹りを受けた「大浜松三」であった。だが彼の内面にまで踏み込んだ報道は無かったそうである。

狙われた美人女子高生---祭りのあとの寂しさは美少女をさらってしまえ

茨城県五霞町を流れる用水路で若い女性の遺体が発見された。2003年7月9日であった。その3日前、埼玉県草加市の瀬崎浅間神社で夏祭りが開かれていた。そのお祭りの夜店を手伝っていた女子高生が姿を消したのである。彼女はヨルダン人を父に持つハーフの美少女であった。「佐藤麻衣」さん、当時15歳である。その7月6日の午後9時過ぎに、夜店の手伝いを終えて最寄り駅に向かう途中で襲われたらしい。一人で行動するのは危険な時間であった。しかも気持ちが昂る祭りの夜である。おそらく犯人は、目鼻立ちの整った美少女を見て、魂を奪われてしまったのだろう。クルマに乗せて走り去ったとみて良いだろう。死体遺棄現場は、利根川沿いの用水路で、暗くて人通りもない場所だという。「佐藤麻衣」さんが、当時身に着けていた、バッグ、腕時計、携帯電話は発見されていない。犯人が持ち去ったと思われる。そして翌年2004年にも類似事件が起きている。最低限「防犯ブザー」を携帯したい。日本中、安全な場所などどこにもなくなった。防犯灯もない辺鄙な場所は危険すぎる。夜の単独行動は控えたい。

憧れの筑波大学に入学---わずか3日通っただけで未来を絶たれた無念

筑波大1年生の「川俣智美」さんが行方不明になったのは1999年4月10日である。その日、宿舎を出て外国人と歩いているのが目撃されている。友人には、3日前に「イタリア人に話しかけられた」と話していたらしい。このため、警察では外国人を中心に捜査を続けていた。彼女が発見されたのは、普段地元の人しか足を踏み入れない辺鄙な場所であった。靴下と下着しか身に着けず、首にブラジャーが巻き付けてある無残な姿で、しかも1部は白骨化していたという。行方が分からなくなってから1カ月が過ぎていた。警察では、目撃情報から、在住外国人を中心に捜査を続けた。だが、犯人らしい人物にたどり着けなかった。確かにイタリア人だったのかも疑わしいようである。レイプ目的で智美さんに接近したのだろう。両親の苦悩は如何ばかりだっただろうか。彼女は1浪してまで筑波大学に合格したのだ。途中で夢を絶たれてしまった無念さを思うに付け、犯人を憎くて仕方がない。この犯罪だが、防ぐことが出来なかっただろうか。まず、一人で外出しないことが大事なことだ。そしてよく知らない人のクルマには決して乗らないこと。それだけで結構身の安全をはかれる。

現実に起きていた「ツインピークス」---若者7人の連続不審死

当時の警察発表で「事件性なし」と判断された「大阪・熊取町連続自殺事件」

最初の事故は、1992年4月29日である。地元の17歳になる少年が貯水池に落ちて溺死した。その1カ月後に、同じく17歳の少年がシンナー吸引中に急性心不全で死亡した。その1週間後6月4日にまた17歳の少年が自宅近くの小屋で自殺した。さらに6月10日、18歳の土木作業員が自宅で首を吊った。彼ら二人は友人であった。だが、彼らには遺書が残されていない。そして不審な死はまだ続いた。今度は旅館従業員の17歳少女が、1週間後に首を吊ったが、両手を後ろ手に縛られていたのである。まるで何者かに吊るされたような自殺であった。さらに6月25日に22歳の公務員が森の中で死んでいた。彼がぶら下がっていたのは、通常では届きそうにもない高さの枝である。そしてその1週間後に19歳の女子大学生がナイフで刺され、胸から血を出している状態で発見、死亡が確認された。自分で刺したようであった。不審な自殺であったが、如何なる理由が潜んでいたのだろうか。さらにこれらの事件は必ず水曜日か木曜日に起きていた。警察の捜査にも疑問が残った。結局、誰もこれらの謎の自殺(とされた)ミステリーを解明した人はいないという。

まるで「津山30人殺し」の再現---山口・周南5人殺害事件

惨劇が起きたのは2013年7月21日であった。山口県周南市金峰の「郷集落」で住民5人が殺害され2軒が放火された。起訴された「保見光成被告」の控訴審が広島高裁で2016年9月13日に行われ、1審判決を支持、控訴棄却が(つまり死刑)決まった。すでに「保見被告」は判決を不服とし上告を決めているという。犯行の動機は、「保見光成」の「思い込み」による報復事件とされる。店長は、「津山30人殺し」を思い出していた。被害住民の「挑発」や「うわさ話」が被告の「妄想性障害」であるとしても「死刑」は避けられないと思う。この事件は、少子高齢化が進む日本の集落共通の問題が表面化したと云ってもよい。集落には、被告66歳、犠牲者は71歳から79歳であった。よくいわれるように「コミュニティ」は崩壊している。過疎地になればお祭りもできない。隣人との悪口の言い合いはあったのだろうと想像されるのだ。人付き合いのむつかしさが改めて考えさせられる。隣人とは付き合いを良くして、さらに盆暮れの挨拶は欠かさぬようにしたい。住民の変動が多い都会暮らしでは起きにくい事件だろう。

加害者は守られる一方、被害者の人権は踏みにじられる---この不可解な日本社会の歪み

皆さんは、いじめ殺人「山形マット死事件」を覚えているだろうか。「少年法」を見直すきっかけにもなった少年犯罪です。事件が起きたのは、1993年1月13日でした。山形県新庄市立明倫中学校の体育館。ここで行方が分からなくなっていた「児玉有平」君(事件当時13歳)が見つかった。有平君は体操で使用されるマットに頭から逆さまに巻かれた状態で死んでいた。呼吸困難による窒息死であった。胃液が逆流しのどに詰まり呼吸が出来なかったようだ。相当に苦しんだと思われる。外部からの侵入者がいないことから学校内部での犯行と見られ捜査が開始された。やがて7人の生徒が体育館で有平君を取り囲んでいたという目撃証言があり「補導」されることになる。さらに学校側は「いじめ」の事実を隠している。これらの生徒は「少年法」に守られて逮捕することができず、事件はあいまいな決着をみた。裁判では、少年の弁護士は「有平君は自分でマットに身体を逆さまに入れて自分で呼吸困難に陥った」と強弁して無実を主張した。常識からもそんな行動などあり得ないだろう。その「非常識」が通用してしまうのが「少年法」の怖さである。加害少年たちは口裏合わせを行っていた。そして家庭裁判所では否認に転じた。この事件は、学校イジメと教師たちの「事なかれ主義」のどうしようもない根深さを改めて印象付けた。

阪神大震災、地下鉄サリン事件の影ですっかりかすんでしまった連続女性殺害事件---10年間に5人を殺害、バラバラにして遺棄

1987年11月から1994年3月の間に5人の女性を殺害、バラバラにして遺棄した。この「大阪連続殺人」の犯行を認めたのは「鎌田安利」(当時54歳)であった。彼は、2016年3月25日死刑が執行された。彼は窃盗で逮捕され、その間に被害者に遺されていた指紋が一致。後に再逮捕された。そして恐るべき自供を始めた。5人のうち一人は、いたずら目的で9歳の女児を襲った。4人は顔見知りではなかった。いずれも性行為のあと金銭のやり取りで頭にきて殺害していた。最初に発見された遺体は、19歳の知的障害施設の寮生であった。見つかったのは奈良県広陵町の竹藪である。この遺体は、頭部、両手、両足とノコギリでバラバラにされていた。「鎌田安利」は、奈良県警高田署に「挑戦状」を送り付けていた。典型的な「愉快犯」である。そして、この犯行は容易に発覚しなかった。何故なら犠牲者とは顔見知りではなく、出会ったばかりだったのだ。物証も乏しく、当然捜査は難航した。おそらく彼の指紋が残されていなかったなら、この「大阪連続女性殺人事件」は、大騒ぎになっていた地下鉄サリン事件の陰に埋もれてしまっただろう。

人の心をどこかに置き忘れた青年---壊れた人形「山地悠紀夫」

美人姉妹を襲った殺人鬼は、逮捕後に「壊れた人形」と形容された。人形には「心」がない。同じように、彼には「人の心」が備わっていなかったのだろうか。彼は16歳のとき母親を金属バットで殴り殺していた。殺害動機は、「母親の借金」である。店長は、「すべての犯罪は貧困がその背景にある」といった陳腐なことをここで述べる気などない。それでは、「山地悠紀夫」とはどんな人物なのか。店長は逮捕後の写真を見て大変興味をそそられた。それは、山地が整った上品な顔をしていたからである。写真からはとうてい残虐な行為を想像できなかった。逮捕後に明らかにされた彼の生育環境だが、「生い立ち不幸」とは、まさしく山地のことだろうか。定職にも就かず、建設作業員などを転々としていた父親。酒癖が悪く毎晩酔っては暴れて手が付けられなかった。時には憂さ晴らしに「悠紀夫」を殴っていた。それに母親は、「悠紀夫」が一人っ子なのに愛情薄く、およそ団らんというものがなかったようだ。「悠紀夫」はどこにも逃げ場がなかった。さらに小学校ではうまく友人を作れず、いつもいじめられていた。「悠紀夫」は、望まれて生まれたのではなかった。おそらく母親は、「---生みたくない」が口癖だったのではないだろうか。「悠紀夫」が生まれてくれば生活はいっそう厳しくなるからだ。父親から毎晩繰り返される暴力。この「虐待」を仕向けていたのは、おそらく「母親」ではあるまいか。虐待を受けながら、「悠紀夫」は考えていた。「今に見ていろ、必ず大人になって復讐してやるからな!」---だが、かれの宿願が成し遂げられる日は永遠に来なかった。それは、父親が肝臓を悪くして急死したからである。そして彼の家は、さらに貧乏の底に沈んでしまったのだ。彼は、中学卒業後に新聞配達員になった。高校進学を断念していた。それでも、「悠紀夫」は懸命に働き、給料の大半を母親に渡していた。---ところがアパートに借金取りが押しかけて来るようになった。母親に借金の額を聞いたが答えてくれなかった。悠紀夫と母親は激しい口論になってしまった。さらに、当時「悠紀夫」には7歳年上の交際相手がいた。その交際に母親は反対していたのだ。その日、交際相手の電話に「意地悪」のような無言電話が入ったという。彼は母を疑った。激怒して母を問い詰めた。我に返ったとき、母親の頭部から脳漿や血液が噴き出していた。---「山地悠紀夫」2009年7月28日死刑執行される、享年25歳。最後まで被害者姉妹に対する謝罪の言葉はなく、反省もなかった。死刑確定後、弁護士に宛てた手紙の中で「---僕はこの世に生まれてくるべきではなかったのです---」と記してあった。彼は帰る家もなく、少年院出所後は身元引受人もなくホームレスであった。そして残虐な犯行が行われてしまった。このように、身寄りもなく、仕事にも就けないような危険な青年を野に放ってしまったのだ。行政側に落ち度はないのだろうか。この残虐な強姦殺人事件は、防ぐことが出来たはずである。そして2005年11月17日「大阪姉妹惨殺事件」は起きたのだ。当該マンション付近で彼は何度も目撃されている。せめてこの部屋に異常を知らせる防犯装置があれば、防ぐことができただろうに。姉妹の父親は、警察から犯行直後の様子を聞いたが、そのあまりの凄惨な情況を知り、大変なショックを受け、その精神に不調をきたしたという。

お前を”みちずれに”---絶命するまでの自殺を実況録音、おぞましくて最後まで聞けない驚愕の首つり自殺

その無理心中事件は、平成6年11月14日に発覚している。場所は葛飾区、平井大橋の袂に建つマンションの一室であった。死んでいたのはこの部屋の住人である。数日前から電話の応答がなく、心配した親族が訪問して母娘の死体を発見した。父親の姿はなかった。この夫婦は、信州大学の同期生であった。ソニーミュージックの元社員で、家族の仲もよく周囲からは幸せな一家に見えていた。彼が手にかけてしまった娘は東京女子大の卒業を控えていた。出来の良い自慢の娘であったそうだ。彼は、少年時代からクラシック音楽の大ファンであった。そのための音楽関係への就職であった。だが、彼には「目標」があった。「音楽ソフト制作会社」を立ち上げ自立するという「夢」であった。「夢」で終われば良かったのであるが、彼は借金をしてその「夢」を実現してしまった。これこそ、破滅の始まりであった。そして、愛するがゆえに妻子を♬みちずれ♬にしてしまうのであった。これを「なんと愚かな男だ」と非難するのは簡単であるが、店長の私は心から同情したい。だが、失敗の原因は単純である。自己資金が無かったこと、多額の借金でスタートしたこと、クラシック音楽は市場性が想定よりも小さいこと、妻には借金を内緒にしていたこと、CD制作コストがかかり過ぎたこと、などである。誰の目にも成功の可能性があるとは思えなかった。しかも金脈、人脈も皆無であった。彼の浅はかで見栄っ張りな性格は、愛車(社用車)ベンツに乗っているところでも理解できる。ソニーミュージックに勤務していたのにも関わらず、市場調査=マーケティングなどを何一つそこで学ばなかったのだろうか。彼は、「遺書」の代わりに「自殺の実況テープ」を遺すことを考えた。もちろん、それで借金返済の足しにしようと考えたわけではない。絶命寸前の不気味な音は、いったい何の音なのか解明されていない。学歴の良さと人生の転落・破滅は矛盾しない。どこにでも変質者がいるように、誰の人生でも転落・破滅は起こりうる。妻子を殺害後、自殺用のロープを購入して、彼は、故郷松本にあるホテルにチェックインした。妻子のもとに逝くという決意を胸にして。しかし---ここまで周到な自殺ができる特異な人間であるのなら、そのビジネスには勝算が無いことぐらいソニーミュージックを辞める時に分かりそうなものである。

この父親こそ「精神鑑定」が必要---少年を歪めてしまった恐怖の家庭環境、「奈良自宅放火母子3人殺人事件」をご記憶だろうか。

自宅放火事件は2006年6月20日朝の5時ころに発生した。焼け跡から母子3人の遺体が発見される。一緒に住んでいるはずの当時16歳の少年の姿はなかった。また、この家の医師の父親は所用で留守にしていて難を逃れていた。この少年が何らかの事情を知っているものとして、警察はその行方を追ったところ6月22日京都市内で保護された。この少年は事件発生当時16歳であった。何故自宅に放火などしたのか、その理由が少しずつ分かってきた。死亡した母は少年の継母、父親の再婚相手である。同じく焼死した弟と妹とは異母弟妹である。少年が本当に殺してやりたかったのは、医師をしている父親であった。少年の実母と父は協議離婚している。原因は、この父親の家庭内暴力である。すぐに頭にきて暴力を振るった。離婚裁判の結果、少年は父に、そして妹は母親が親権を持つことになった。少年と仲の良かった妹は引き裂かれてしまったのである。少年も母親に付いて行きたかった。それは父親の暴力から逃れたかったのだ。父は、息子に「医師以外の職業には人の値打ちはない」「学校の成績を良くしろ」「日々の努力を怠るな」などと毎日説教した。テレビなどもってのほかであった。成績が下がると容赦ない鉄拳が飛んできた。少年は、虐待を受けながら、この現実をリセットしたいと思っていた。実の母、妹と昔の優しかった父と、元通りの暮らしに戻りたかった。今の父が大事にしている弟妹や継母が憎らしくなった。それらを消してしまえ---気が付くと火を放っていた。あとはもう覚えていなかった。店長は、この医師には精神疾患があると思う。子供はのびのびと育てるべきである。医師がすべて人格者であるわけではない。おそらくこの父もまた、親から虐待に近い家庭教育を受けてきたのだろう。彼は考えてもみなかったに違いない。虚栄に包まれた、あの「元札幌医大和田教授」のような”人でなし”も、「心臓外科のヒーロー」と一時期もてはやされていたのだ。わが子をそのような「医師」にしたかったのだろうか。「医師」が備えるべきは「人間愛」ではないのだろうか。彼の養育で思いやり溢れる情感豊かな「医師」が生まれるだろうか。大いに疑問であった。事件後、この父親は医師を辞めている。

新右翼の大物「野村秋介」が組織した「風の会」---関西芸人「横山やすし」が立候補

関西芸人「横山やすし」が立候補したのは1992年の参院選であった。選挙母体の「たたかう国民連合・風の会」は右翼「野村秋介」が代表を務めていた。野村秋介は横山やすしを風の会の広告塔のように利用したと思える。事実彼は度々TVの選挙取材を受けていた。残念ながら落選してしまったが、やすしの「国民はアホや!」発言が話題になった。それは、深い考えもなく自民党に投じる選挙民を非難した発言であった。そして1993年10月20日、築地にある朝日新聞本社役員応接室で事件は起きた。「野村秋介」が覚悟の拳銃自殺を遂げたのである。「週刊朝日」に連載中の人気コラム「山藤章二のブラックアングル」で「風の会」をあろうことか「虱の会」と揶揄したのである。これに「風の会」側では激怒した。「野村秋介」はこの問題の「謝罪要求」ではなく「公開討論」開催を要求した。この日も応接室では「話し合い」が行われていた。だが、会談の散会直前になり、「野村秋介」は、拳銃2丁を取り出して皇居側に向かって正座した。そして「すめらみこと、いやさか!」と3度叫ぶと、自分の胸に発砲してしまった。なお、10月20日は学徒出陣からちょうど50年に当たっていた。「すめらみこといやさか」は「天皇弥栄」と漢字では表記する。天皇陛下永遠に、とでも意訳できる。

右翼の大物らしい壮絶な最期であった。(この項は「芸能界事件簿から人生を学ぶ(その3)」とコンテンツを共有しています)

殺される寸前だった強行突入---渋谷女子大生誘拐事件

被害者は「池田ゆう子クリニック」の院長を務める池田優子さんの長女(事件当時21歳)であった。事件は2006年6月26日に発生した。通学のため自宅から出てバスを待つ途中のわずか数分の犯行であった。突然二人組の男が現れ、ワゴン車に女子大生を拉致して連れ込み走り去った。その様子を目撃した人がいてクルマのナンバーなどを覚えていた。池田ゆう子クリニックに「身代金3億円用意しろ!」という脅迫電話が入った。院長はすぐに警察に連絡した。犯行グループは、中国籍、韓国籍の3人であったが、いずれも前科があった。誘拐現場の目撃情報、警察の機敏な初動捜査、翌日の当該車両の発見など、捜査は着実に進展している。そして13時間後に女子大生を無事保護、犯人たちは逮捕された。警察が強行突入した部屋で彼女は拘束されていた。しかも誘拐が失敗した犯人たちは、人質を殺そうと、警察の強行突入直後彼女に向けて発砲したが弾が出なかったという。もしこの時に殺害していたら「無期懲役」では済まなかったに違いない。では、なぜこのような営利誘拐が起きてしまったのだろうか。この池田優子院長はテレビにたびたび登場してそのセレブな生活を自慢していたのであった。「2度同じ服は着ない」「資産は3億以上」などと発言していたようだ。犯人たちは、この整形外科医に狙いを付けた。そして、このお金持ちには大学4年の長女がいて、毎日一人で通学していることを知った。犯行の相談はすぐにまとまった。「長女を誘拐して身代金を奪う」結果的にみれば大胆な計画の割には杜撰な犯行であった。拉致現場もしっかりと目撃されている。もし、この目撃情報が無ければ最悪の事態を見ることになっていた可能性があった。頭に発砲されたがその銃は不発であった。事件が解決してしばらくたってからこの母娘は記者会見に応じているが、その後テレビに出て「お金持ち自慢」をすることなど一切なくなった。有名人を含めて「高額納税者」のランキング発表が廃止されたのは、この誘拐事件後のことである。

資産家殺害の「罪と罰」---犯人が寄付した桜が咲いた日、彼は死刑に処された

植樹祭で寄付されていた桜の花が咲いたのは2008年4月10日である。そのりっぱに成長した桜は薄紅色の花を咲かせていた。寄付していたのは偽名「中村宣虎」、本名を「岡下香」といった。享年61歳、奇しくもこの日彼は死刑に処された。杉並区の資産家女性が殺されたのは、1989年であった。事件当時82歳であった女性の所有する土地を勝手に売却し、8億800万円を騙し取った。そして発覚を恐れて殺害した。さらに岡下と共謀した男も岐阜県内の山中で射殺した。殺された女性は資産家で複数のアパートを経営していた。この事件は「杉並区資産家殺害事件」と呼ばれている。彼は指名手配されたが、偽名を使い5年半も逃亡していた。1993年3月、この「岡下」をモデルにしたテレビドラマが制作された。登場人物はすべて実名で放送される手筈であったが、放送当日に中止された。翌日の毎日新聞朝刊に謝罪記事が掲載された。「関係者の人権について配慮が欠けていた」とされた。「岡下」本人は、この朝刊テレビ欄を観ていたらしい。「---もう、逃げられない」と冷や汗が出たようであった。いつ逮捕されるのかと心が休まることはなかった。いつも怯えて暮らしていた。「岡下」は獄中で短歌を作るなど知性のある人物でありながら、資産家から詐取し殺害するなどという凶行になぜ走ってしまったのだろうか。

「第一発見者」を疑う、捜査の鉄則だが---疑わしきを「死刑」にした裁判の恐怖

あなたが、もし犯行直後の現場に居合わせてしまったら----ましてそこに1200万円という大金が無造作に置いてあったら、ましてや個人事業の資金繰りに苦しんでいたなら、あなたはどんな行動を取りますか?「お金を出来心で持ち帰ってしまったが、殺したのはオレではない!」この言い訳が通用すると思いますか?犯人とされ死刑判決をうけてしまった電気工事店経営「高橋和利」(事件当時54歳)は、事件の第一発見者であった。現場から第三者の犯行を示す証拠は検出されず、状況証拠の積み重ねで犯人と断定された。この強盗殺人は昭和63年6月20日に横浜市鶴見区で発生した。殺害されたのは金融業をこの地で営む夫妻であった。深い怨恨を示すかのように二人はバールで頭部を複数回打ち据えられていた。状況からは、単独で同時に二人を撲殺したことになる。つまり「高橋和利」単独での犯行と結論されたのだが、無理があるように思える。真犯人は複数人ではないだろうか。被害者夫婦は、人様に恨みを買いやすい「金融業」である。だが、第三者の痕跡はどこにも残されていない。この裁判は一審から最高裁まで実に18年も費やしている。「高橋和利」は死刑執行を待つ身であるが、現在でも再審を望んでいる。

大人をなじってはいけない---母親の交際相手に殺された10歳少女の恐怖

その残忍極まる「女児投げ落とし事件」が起きたのは1995年5月20日である。この年3月には「地下鉄サリン事件」が発生しており、それらの報道はまだ続けられていた。そんな世情不安が燻ぶっていた矢先にこの残忍な殺人事件が発生していた。場所は静岡県榛原郡吉田町、東名高速に架けられた陸橋である。島田市の会社員「池本紀夫」(当時34歳)は、交際相手の次女「山田千穂」ちゃん(10歳)を抱えて高速道路上に投げ落とした。千穂ちゃんは後続のクルマ3台に次々に轢かれ即死した。想像できるだろうか。この残忍さ。千穂ちゃんの母親と池本は以前の職場で知り合い交際に発展していた。不倫だったと思われる。だが、最近では仲が悪くなってしまったのか別れ話が出るようになっていた。母親が千穂ちゃんや姉とどのような会話をしていたかは分からないが、おそらく、池本を良くは評価しなかっただろうと思われる。そのせいだろうか、千穂ちゃんは池本には「ママにもう会わないで」などと云ったようである。池本は激しい殺意を抱いてしまった。千恵ちゃんをドライブに誘い出した。店長が思うのに、池本は千恵ちゃんを介して母親との関係修復を考えていたのではないだろうか。それが千恵ちゃんが「母親ともう会わないで」と言い放ったことに腹を立ててしまった。この犯行を防ぐ手だてはなかったのだろうか。「池本紀夫」は、たぶん真面目な性格だったのだろう。他の身軽な交際相手を探すべきであったと思う。一般的に犯罪を犯す人物には想像力が欠けている。その犯行によって家族がどれだけ迷惑を被るかをよく考えるべきだと思う。

医師が妻子3人を殺害---つくば市発「仮面夫婦」の崩壊

横浜港で1994年11月3日に3人の遺体が発見されて大きく報道された。そして容疑者「医師・野上忠男」(事件当時29歳)が逮捕され、世間に衝撃を与えたのである。犯人は3人の被害者の父親でありまた夫であった。医師という職業、美しい妻、りっぱな邸宅。はたから見て、誰もが羨むような家庭である。それがなぜ妻子を殺してしまったのか。この事件は週刊誌に恰好の話題を提供することになった。テレビでもワイドショーで取り上げられている。ありていに言えば、この夫婦は完全に崩壊していた。医師の家庭という世間体だけが家庭を維持させていた。夫に殺された妻は金銭感覚にルーズで、健全な家庭を守る資質に欠けていた。素直ではなく、いつも口答えした。彼女もまた「医師の妻」を捨てたくはなかった。だがすでに愛情はなかった。事件があった1994年10月29日も、長女の教育方針を巡って激しい言い争いになっていた。医師は日頃の怒りをここで爆発させてしまった。気が付いた時には、妻の首をひもで締めあげていた。医師は冷静さを取り戻したが、動かなくなった妻をみて、子供たちが不憫になった。「---いっそ殺してしまおうか---」こうして、医師は子供たちまで絞殺してしまう。遺体には鉄アレイをつけてクルマで横浜港まで運んで遺棄したのである。裁判では、家庭事情が考慮され無期懲役刑が下されている。

子宮を切り裂き胎児を取り出した悪魔---謎のまま迷宮入り

いったい誰が悪魔の所業を。1988年3月18日名古屋市で、会社員のAさんが帰宅しても、いつものような妻の声はなかった。一瞬空耳かと思ったのは、赤ちゃんの泣き声だった。奥の部屋には、妻が変わり果てた姿で倒れていた。そして血まみれで泣く嬰児にはへその緒がついており畳に伸びていた。妻は電気コードで首を絞められている。いったい誰がこんなことを---Aさんは、部屋にあるはずの電話がないことに気が付いた。すぐに隣の家に駆け込み混乱しながら通報した。電話は意外なところから見つかった。なんと妻の子宮である。捜査は難航した。手がかりは容易に掴めなかった。警察の懸命な捜査も空しく、やがて2003年3月18日に時効が成立した。捜査の最中に、被害者は「マルチ商法」をサイドビジネスとして営んでいることが分かっているが、その線でも手懸りはなかった。また主婦には暴行された痕跡もなかった。この事件は「名古屋妊婦殺人事件」と呼ばれた。個人的な怨恨だろうか。妻を一方的に慕うものの犯行だろうか。さっぱり分からなかった。防犯が行き届いたマンションであっても容易に侵入できる。この場合、臨月の妻を実家に帰らせるべきであった。唯一救いなのが、このときの「赤ちゃん」は無事に成長したということである。(この項は「未解決事件から防犯対策を考える」とコンテンツを共有しています)

犯人が残した謎の言葉「てるくはのる」---京都小学生殺人事件

京都市立日野小学校校庭で遊んでいた2年生の男児が刺殺されたのは1999年(平成11年)12月21日であった。覆面をしていた犯人は「犯行声明文」を持っていた。「私は日野小学校を攻撃します---てるくはのる---」だが、遺留品の捜査線上に犯人が浮かび上がっていた。容疑者は21歳n浪人生「岡村浩昌」である。警察は任意同行を求めたが、すきを見て彼は逃走をはかった。警察は逮捕状を請求していたが、確保する前に「岡村」は13階マンションに逃げ込み屋上から身投げしてしまう。彼の部屋には「名言集」があり、その末字を拾うと「てるくはのる」になることが分かった。だが「岡村」が自殺している以上、その動機も言葉の意味も未解明のままである。

少女を包んだ暗い闇---佐世保発同級生殺害事件

不可解な事件は2014年7月27日に起きた。現場は長崎県佐世保市である。この日、高校生の少女の自宅には友人が遊びに来ていた。目の前にいる友人が自分を殺そうとしていることも知らずに。数時間後、被害少女の首、手足は胴体と分離されていた。少女の犯行動機は「人を解体してみたかった」であった。事件報道は世間を震撼させた。犯人少女は成績が良くスポーツも出来た。国体出場も果たしている。非行歴はなく、文武両道の優等生であった。「---どうしてこんな子が---」現在は精神面での治療を受けているが、被害者の友人に対して、謝罪の言葉もないようである。

倉敷市で学校帰りの少女が行方不明になったのは、2014年7月14日の夕方であった。別の児童が不審者を目撃していた。岡山県警では大掛かりな捜査を開始し、容疑者「藤原武」を逮捕した。藤原は49歳にもなりながら無職ニートであった。岡山市北区の自宅で少女は無事に保護された。暴力など受けた様子はなかったそうだ。供述では、倉敷市内の小学校付近を徘徊し、少女を誘拐して「飼育」するために、一人で帰宅している児童にいきなり刃物を突き付け、脅してクルマに連れ込んだという。また、その「飼育」のため自宅を改装して用意していたらしい。自宅の部屋から夥しい幼児ポルノが見つかっている。この種の犯行から身を守るためには、複数で下校させること。防犯ブザーを携帯させること。これが基本である。2015年「藤原武」に懲役6年6カ月が言い渡された。

女子中学生を自宅に拉致・監禁。逮捕された容疑者は、千葉大学工学部を卒業したばかりの秀才だった。容疑者の名前は変わっている。「寺内樺風」という。中学生は埼玉県朝霞市で行方不明になっていた。保護されたのが東京都中野区である。なんと、行方不明から2年も経っている。路上で拉致されたのは2014年3月10日であった。そして2016年3月27日にようやく保護された。スキを見て逃げ出すことに成功し、警察に通報してきたのだという。寺内容疑者は、3月28日に確保された。自殺を試みて首筋を負傷していた。最近では、この手の拉致誘拐事件も珍しくはなくなってしまった。店長が驚いたのは、「寺内樺風」の実家が「大阪府池田市」であること。それに家業が「防犯機器の通販サイト」を運営していることであった。そのサイト「e防犯ドットコム」は現在は閲覧できない状態のままである。池田市といえば、2001年に「宅間守」による「池田小児童殺傷事件」が起きた場所である。近年では「恋愛」できない男女がやたらに増えている。また、小・中学女子生徒を狙った犯行も増えている。最低でも「防犯ブザー」を携帯したいものだ。

2013年2月21日、東京拘置所にて死刑が執行された。死刑囚の名前は「金川真大」満29歳であった。彼が起こした犯行こそ、3か月後の「秋葉原無差別殺傷事件」に影響を与えたとされる「土浦連続殺人事件」である。事件は2008年3月19日に最初の通り魔的な殺人が起きた。そして23日にJR荒川沖駅構内で居合わせた乗客たちに次々と襲い掛かった。犯人、金川の殺人動機は「死刑になるため」であった。そのため被害者が一人ではよくないと思い直し、日を変えてJR荒川沖駅校内で8人を次々に襲撃している。ここでは27歳男性が死亡。その結果死者は計2名、重傷者7名となった。取り調べでは驚愕の供述を行った。小学校の襲撃も計画していたのだ。理由は「確実に死刑に処されるから」であった。狙った学校に実際に行っている。だが父兄が予想以上に多かったために断念していた。その次には自分の妹を殺すつもりでいた。運よく妹は不在にしていたのでこれを諦めている。死刑が確定した直後の取材で「死刑になる---完全勝利です」と答えている。遺族への謝罪など一切なかった。むしろ晴れやかな表情を浮かべたという。自分が死にたいから他人を殺す---これほど理不尽な話があるだろうか。高校時代は弓道部に所属して腕を磨いていた。全国大会にも出場している。非行歴もない。いわば「ごく普通の男子高校生」であった。だが、部活を辞めたあと人変わりしてしまう。卒業後は定職にも就かずバイト暮らしを続けていた。これは店長の推測だが(いやむしろ妄想にすぎない)、金川は、弓道部で「失恋」し、「うつ病」に罹っていたのではないだろうか。彼は「自殺」以外に人生の目標を持てなかった。異性にもモテなかっただろう。父親は息子に一切干渉しなかったようである。金川は、最後に人生の願望を実現した。「死刑」で人生に幕引きしたのであった。(この項は「邪悪な夢・異常犯罪の心理学」と共有しています)