ようこそ

その1とその2の間に時間的な繋がりはありません。また、時系列でもありません。店長が随意に選んでいます。さらに今後、政治家やプロ野球選手、アスリートも加えていきます。

また、起業家や偉大な実業家にスポットライトを当て、その優れた業績を掘り起こしたいと考えています。

みなさんの人生に参考になればいいと思います。

やっぱり覚醒剤---元野球選手清原の不覚

清原元選手には、たびたび奇行が報じられていた。今回の逮捕劇にも唐突に思った人は少ないようである。清原は西武時代に好成績を残していた。FAで宿願の巨人入団を果たしてからパットしなかった。いつの間にかオリックスに移籍し現役を退いた。だが、コーチや野球解説のオファーはなく、おバカタレントとのCM共演で露出機会があっただけである。彼はいったい引退後は何がしたかったのだろう。毎晩のように豪遊し、寂しさを紛らわすために覚醒剤に救いを求めた。このまま廃人になるつもりだったのだろうか。人生の転落である。かつては巨人時代の桑田投手と盟友と云われていた。逮捕後の桑田のコメントには、友人の転落をサポートしてやることができなかったという悔しさがにじんでいた。清原の方から縁を切っていたらしい。思えば巨人時代には周囲からの重圧が半端なものではなかったのだろう。FA制度がもし導入されていなかったとしたら、清原は西武にとどまり、指導者になって平和な野球人生を送っているかも知れない。現役時代の森監督が手紙を送って清原の行動を諫めた時に、少しでも聞く耳を持っていればと思う。桑田の最後のエール、それは清原に「人生の大逆転ホームランを打ってほしい」であるそうな。店長も残念に思う。同時に、かつて古葉監督赤ヘル時代に、広島カープで活躍した「江夏豊」を思い出した。江夏も引退後に覚せい剤に手を出して逮捕されている。

ハリウッドから王妃へと華麗な転身---グレース・ケリー

アルフレッド・ヒチコック監督から、「雪を被った活火山」と評された美人女優、それが後にモナコ王妃となったグレース・ケリーである。いわゆる「クールビューティ」である。彼女は、「裏窓」や「ダイヤルMを回せ」また「泥棒成金」に出演した。だが、宮廷での暮らしは、「幸せ」とは程遠かったようである。そして王妃は、1992年9月13日にクルマの運転を誤り40㍍の崖下に転落、翌日に帰らぬ人になった。その頃、王妃はカジノを一掃しようと活動しており、他殺説もくすぶり続けたのであった。王妃の死後、伝説が始まった。王妃の墓は「ルルドの泉」のように「魔術的効果」があると、各地で報告されたのである。墓参りした、交通事故で視力を失っていた11歳少女が奇跡的に回復したのを皮切りに、王妃の命日に夢の中に現れ、こちらも視力を取り戻したフランスの少女がいた。こうした報告が、バチカン法王庁に寄せられたのであった。偶然の一致だろうか。

子供に大人気、戦隊もの元祖---キレンジャーは自殺していた

特撮ドラマの草分け「ゴレンジャー」放送直後から人気沸騰、子供たちを熱狂させた。そして5人の個性あふれるキャラのおかげで長寿番組となった。中でも3枚目キャラで異彩を放った「キレンジャー」がいた。とんでもない「力持ち」であり、無類の「カレー好き」でもあった。子供はカレー好き、とよく云われるのだが、これは謎めいたキャラである。彼は、よく宿敵の「黒十字軍」にも、カレーをふるまうと云われてピンチに陥ったりしている。愛すべき性格つけがなされていた。その初代は「畠山麦」氏が演じていた。彼は、放送終了後に自宅で縊死していた。1978年のことであった。キレンジャーのイメージが払しょくできず気に病んでいたようであった。さらに追い打ちをかける生活苦。かなり悩んでいたようである。

公開直前に封印---当事者の逮捕さえなければ--

東宝東和で1983年に製作された”傑作”の呼び声も高い映画「スパルタの海」。「西河克己」が監督であり、主演には「伊東四朗」の起用で公開予定であった。ところが、公開直前でこの「スパルタの海」はお蔵入りになってしまった。実在のヨットスクール校長「戸塚宏」が逮捕されてしまったからである。この校長は、1976年に青少年向けのごく普通のヨットスクールを開校した、元太平洋横断単独ヨットレースの優勝者である。スクールは、全寮制の厳しい訓練を旨としていた。ところがある日、そのスクールで預かっていた非行少年が見事に更生したのである。たちまち評判になる。戸塚宏は、ヨットスクールの教育方針を転換した。わが子が不登校で悩む親たちの相談が相次いだからであった。しかし、これが悪い意味で社会問題になった。スクールのコーチらの過度の体罰で、けが人や脱走者が相次ぎ、さらには犠牲者までを出してしまった。「戸塚宏ヨットスクール事件」で世間が沸いたのであった。「スパルタの海」はこの事件を題材にしている。映画の原作は「上之郷利昭」のノンフィクションである。これは新聞に連載され大きな反響を呼んでいたという。死者を出しているにも関わらず、「わが子を更生して欲しい」という悲痛な両親からの電話が連日鳴り響いた。洋上での厳しい訓練シーンには鬼気迫るものがあり、その辺の生ぬるい映画ではなかったのだ。戸塚校長は、傷害致死罪で起訴されてしまうが、お蔵入りの映画は、彼の支援者の努力でビデオ・DVD化が実現した。そのため現在でも視聴可能である。

”ゲスの極み”で心が”ベキベキ”に---人気タレント「ベッキー」の休業騒ぎ

音楽を志す人は、そもそも変人なのか。まともな人に務まる職業ではない、と思える。人気が出る以前の下積み暮らしを支えてきた彼女を捨てて、新しい女に走る。よくある話ではある。例をあげればきりがない。かつて、井上陽水のバックをつとめ人気が出たごろに、一緒に旭川から上京して物心両面で支えてくれた恋人を捨てた”安全地帯”の玉置浩二神話。捨てられた彼女の旭川の父親は心労のあまり自殺している。そしてまた「ベッキー」は取返しがつかないことをした。すくなくとも現時点では。彼女は、なんと10本ものCMをフイにしてしまった。店長には、当事者の不倫カップルが、”世間”をなめているとしか思えない。成功を収めると、恋人(今回の場合は妻であるが)が、色あせて見えるその一方で、不倫相手はより輝いて見え、魅力的に感じられてしまうのだ。ところが数年を経ると、「なんとばかをしたものか」と男は後悔するのである。「ベッキー」には意外であったことだろう。これほど叩かれるとは思ってもみなかったに違いない。LINEの情報流出は、この二人には痛手であった。おバカ丸出しでもあったようである。それに不倫が公になるので都合がいいとは、いったいどんなおバカな口から出た言葉なのだろうか。おそらく”ゲスの極み”の妻は怒るよりはあきれてしまったことだろう。そして離婚は避けられまい。ベッキーの方は、事実上の芸能界からの追放状態である。

スケジュールを勝手に変更して命拾い---1932年来日の喜劇王

もはや昭和史に隠れた裏話であるが、かの喜劇王「チャールズ・チャップリン」暗殺が日本で計画されていた。この年、軍部による反乱が起きた。歴史で学ぶ「5.15事件」である。そして「チャップリン」暗殺もその計画の1部であったのだ。当時、反乱を企てた青年将校たちは、チャップリン来日の翌日に反乱を起こしている。おそらく、来日スケジュールによって、反乱日程が策定されたのである。米国で人気がある著名人を殺害すれば、米国を怒らせて対日開戦に持ち込むことができる、そう考えていたそうである。ところが当のチャップリンは気まぐれに行動し、青年将校たちは、居場所を特定できなかった。そのために、この計画は幻のテロに終わったそうだ。予定を途中で変えて、ふらりと「天ぷら」を食べに行ったりしたらしい。おそらく、彼が生真面目に予定通りに行動していれば、暗殺されたかも知れなかった。後に発表した「チャップリン自伝」で、この日本でのテロ計画に触れている。「日本の将校たちは、私が英国生まれと知って、犯行を思いとどまったようだ」と記している。あの5.15事件では要人が無残に殺害されている。それとも、チャップリンは将校たちの計画を事前に知らされ、わざと行方をくらます様な突飛な行動に出たのだろうか。

梨園(リエン)の中村獅童---竹内結子から離縁状(リエン)

映画に共演したのがきっかけで結婚したわれらの「獅童くん」であったが、浮気がばれて竹内と離縁した。さすがは梨園の暴れ馬、中村獅童ではある。離縁が多いところから「梨園」と俗に呼ばれるようになった---訳ではない。これは、歌舞伎界を敬愛する愛称であった。そもそも、歌舞伎とは「かぶく」から作られた言葉である。成立したのは中世であるらしい。「かぶく」には、多分に反体制的意味が込められていたと思われる。「歌舞伎」という呼び名は江戸元禄時代に固定したと店長は考えている。世に「かぶく」のが本質である。その先人のDNAが集結しているのが、われらの中村獅童くんなのだ。「獅童くん」をまっとうな社会人に誰か「指導」してやってくれ。

あり得ない話---警視庁データ流出事故でブログ炎上

被害に遭ったのは、「嘉門洋子」であった。たちまち彼女のブログは炎上した。さらに2チャンネルに飛び火して、ネット上では大騒ぎになったのであった。2007年6月23日であった。警視庁は指定暴力団に関する極秘データが流出したと発表した。そのデータの中に大物組長の愛人として「嘉門洋子」とレースクイーンの「須之内美帆子」の名前があったのだ。だが、嘉門洋子の場合、三田佳子のバカ息子が自宅地下室でマリファナ・パーティを開き、ここに出入りしていた”過去”が蒸し返され、芸能界での影響は計り知れなかった。その後人気ドラマ「相棒」に出演するなど、過去を封印してキャリアを積んでいる。指定暴力団とは武闘派として知られる山口組系「後藤組」である。真偽のほどは分からない。当時、これがガセネタであることを願ったファンは多い。店長もその一人であった。

ねつ造番組に翻弄された罪なき”納豆”---今は無き高視聴率番組「発掘!あるある大事典」

堺正章の巧妙な司会で人気があった番組が、「復活!あるある大事典」であった。この番組のコンセプトは、さまざまな食材の隠れた効用を発掘するというものである。放送回数が増えると問題が起きてくる。それは”ネタ”探しである。とうとう最悪の結末を招いてしまう。なんと、番組ネタを「でっち上げた」のである。犠牲になったのは、どこの食卓でもおなじみの「納豆」であった。2007年1月であった。「納豆」の新事実「朝晩2週間食べ続けると痩せる」というものだ。しかも納豆を箸で混ぜて数分そのまま置いておく、というバカげたもの。翌日、全国のスーパーで即座に「納豆」が売り切れてしまった。まるで「オイル・ショック」のトイレットペーパー騒動である。ねつ造は米国の大学教授のコメントにでっち上げの日本語訳を付けていたことで発覚した。

さらに過去の放送にも、ねつ造が行われていたことがばれてしまった。番組は視聴者の大批判のなかで中止になった。その翌日、どこのスーパーでも、「納豆」が売れ残ってしまったのは云うまでもない。

「自転車泥棒」に主演が決まった、”自転車泥棒"の杉本哲太

杉本哲太が家に帰る途中に自転車をちょいと乗り逃げしたのは、2005年であった。警官の職務質問を受けて発覚した。杉本40歳手前である。酒に酔った上での盗みではあった。だが、鍵などを壊していなかったので、書類送検されず、厳重注意だけで事なきを得たという。窃盗には当たらないと判断されたものらしい。杉本は、タクシーでは近すぎるので徒歩で帰ろうとした。たまたま施錠していない自転車を見つけてしまい、ついまたがったのである。だが彼には、映画の主演が進行していた。それが「日本の自転車泥棒」であった。杉本哲太は「役作りのためだった」と、言い訳をしたかどうかは不明である。

大正から昭和にかけての舞台女優---国境を超えた女がいた

女優の名前は、「岡田嘉子」である。明治5年広島市で生まれた。類まれな美貌であった。祖母はオランダ人の血を引く女性であったので、その影響である。岡田の父親は、放浪癖のある新聞記者であったため小学校を7度も転校している。彼女は長く舞台女優として活躍した。そして、共産主義者の舞台演出家「杉本良吉」と激しい恋におちた。杉本には病身の妻がいた。杉本は逮捕を恐れソビエト亡命を決意する。1937年(昭和12年暮れ)のことであった。岡田嘉子もこれに従ったのである。二人は樺太を伝ってソビエト領に入った。「女優と演出家の駆け落ち事件」として連日報道され、日本中が大騒ぎになった。無事に越境した二人であったが、不法入国者にソビエトは厳しく、当局はスパイ容疑で二人を逮捕した。そして別々の独房に入れられた。入国して3日目であった。その後二人が会うことは永久になかったのである。1939年、モスクワで二人の裁判が行われ、杉本には銃殺刑が言い渡された。杉本は「スパイとして入国した」と自白していた。自白せざるを得ないほどに取り調べは過酷なものであったという。一方の岡田嘉子であるが、「10年間の自由はく奪」が言い渡されたのである。岡田嘉子は、釈放後も帰国せず、モスクワでアナウンサーとして暮らしていた。その後太平洋戦争がはじまり、岡田嘉子は、すっかり日本人から忘れ去られてしまった。再び日本人が驚くのは、1967年(昭和42年4月)である。日本のテレ番組でモスクワから出演したのであった。その後帰国を果たし「男はつらいよ」にも出演している。再びモスクワに帰り1992年当地の病院で死去した。岡田嘉子、日本の女優、愛する人とソビエトに亡命、投獄された経歴を持つ、波乱に満ちた89年の生涯であった。

かつて天才子役として絶賛---だが、二十歳すぎれば「ただのバカ」

これは、安達祐実ではない。世代によって対象が変わりそうだが、店長が推挙する人は「杉田かおる」である。忘れもしないこんな”読み間違い事件”がある。ある番組で「昂る」をなんと「アナル」と読んでしまったのだ。そう、正解は「たかぶる」だ。「アナル」はないだろう、「アナル」は!「スバル」と間違えたのであればまだ許す。許せる。店長は高校時代、「国語」は優秀でいつもクラスでトップであった。それは関係ないが、読み間違いなど許せないのである。子役当時の彼女はとても可愛らしく、いまでは匹敵できそうなタレントはいないと店長は思っている。だが、これぐらいの国語力は、身につけてほしかったと思う今日この頃である。

フジテレビ史上最強の女子アナ---高島彩

われらのアヤパンは、フォークシンガーと結婚してしまった。そのことに、店長は久方にショックを覚えたものだ。ところで店長は、「めざましテレビ」は欠かさずに見ていた。アヤパンが出ているからである。そして、忘れもしない「読み違い」があった。彼女はクリップを手に持ち、世代別人口構成の説明に入った。そして「団塊の世代」を「だんこん」と読んでしまった。店長は、驚いてクリップを確認した。どこかに「男根の世代」と書かれているのか、と。間違いなく「だんかい」である。これを大塚アナは冷静に訂正した。アヤパンも「あっ、だんかいの世代なんですね」と同調していたのであった。同じ言い間違いは、山本モナもやっている。だが山本モナは、"男根"を思い描いていたに違いない。その後の不倫騒ぎをみて思い出した。さすがは尾道出身。で、アヤパンであるが、店長はいまでも彼女が美人だし、最高の女子アナだと思っている。

本当はスポーツ音痴---古館伊知郎の赤っ恥

ワールドカップアジア地区最終予選、対北朝鮮戦の屋外中継での報道であった。2005年2月9日の”事故”である。なんと古館キャスターは、「勝ち点」の意味を知らなかったのである。番組はパナソニックが提供している。だからガンバ大阪の選手がゲスト解説者として脇を固めた。ゲームは2-1で日本代表の勝利。だから勝ち点3を獲得したことになる。勝ち点は引き分けでも1点が入る仕組みだ。だが、古館キャスターは得点と勝ち点を混同しているらしかった。当然、解説のゲスト選手たちはドン引きしてしまった。サッカー以外でも、古館キャスターはおバカなコメントを発している。そこそこ視聴率を取っている人気ニュース番組でもある。分からないことを知ったかぶりせずに、事前に番組スタッフと念を入れて打ち合わせをしてほしい。店長は、古館伊知郎がプロレス中継をやっていた独立する前から好きなアナウンサーであった。だから、ニュースステーションを担当するときには、正直違和感を禁じえなかった。だが、今では前任者の久米宏を追い抜いたと思うのは店長だけではあるまい。

同じ男にフラれた二人---共演も意気投合はしなかった

芸能界新語「エビージョ」をご存じだろうか。「海老女」とも書く。海老女とは、モデルの海老ちゃんのようにスタイルのいい女のことかと思っていたが、間違っていた。これは、市川海老蔵に捨てられた女を意味しているという。うらやましい。それになんてもったいないことをするものだろう。店長には、いまだに女を捨てたことがない。いやエビちゃんクラスのいい女と付き合ったことすらないというのに。で、「エビージョ」である。代表選手は、高岡早紀と米倉涼子である。この仲よくフラれてしまった二人が共演したのが「肩越しの恋人」であった。撮影現場では、二人とも目を合わせなかったそうである。海老蔵兄い、うらやましい限り。

「GLAY」の不本意な人気凋落---音楽性の高さに定評があったが

数多くのミリオンヒットをとばしていたロックグループ「GLAY」だが、人気凋落には隠された理由があったとされる。「バーニングプロダクション」の帝王「周防氏」の意向に「GLAY」の所属プロの社長が逆らってしまったからだと噂される。デビュー当時、知名度を上げるために所属プロでは苦労していたのだ。そこで、音楽シーンの実力者「周防氏」に力添えを依頼した。その条件は、「楽曲の原盤権」を提供するというものだったという。すると彼らの曲は次々とドラマやCMで起用されていった。そして希望通りに人気グループになる。ところが、所属プロ側に落ち度はなかったが帝王を怒らせてしまった。それは、1999年末のレコード大賞を巡るいきさつであった。帝王は「アイツらをつぶす」と言い放ったと云われている。その帝王もすでに高齢にあるので、勢力はここまでと思われる。それにしても、怖い世界だ。売り出しに成功すれば大金が転がり込むのだろう。

桑田佳祐VS長渕剛---幻に終わった場外乱闘

すでに昔の話題になってしまったが、白熱の非難合戦であった。この騒動にはもう一人の大物歌手がいた。誰あろう「やっちゃえ」矢沢永吉兄いである。騒動の発端は、1994年に桑田が発表した「すべての歌に懺悔しな」の歌詞が、長渕と矢沢を揶揄していると週刊誌が報じたことにあった。歌詞を見てみよう。”テレビに出ないと言ったのにドラマの主役に燃えている””唄が得意な猿なのに高級外車がお出迎え”当時の長渕は「とんぼ」「しゃぼん玉」「RUN」などに出演していた。さらに矢沢は「アリよさらば」で主役を演じていた。矢沢は大人の対応を示し、手打ちとなったが、一方の長渕はキレてしまった。決定的になったのは、桑田が曲の最後の方で「いらっしゃい」と歌うくだりがある。これは長渕が東京ドームでのコンサートで放ったときの、まるで”パクリ”であったからである。長渕は宣戦布告した。「桑田佳祐を絶対に許さん!」この事態に驚いた桑田佳祐の事務所では、矢沢と長渕に謝罪文を送付した。長渕にはキレる理由があった。かつて桑田に頼まれてサザンのライブに出演したものの、まるで前座扱いされた。さらにアンコールでのステージでは頭からビールをかけられたのだ。「サザンのやつら、今に見ていろ」長渕は、煮えくりかえる思いを封じ込めたのであった。で、結末であるが、翌年に大麻取締法違反で長渕が逮捕されてしまった。そのために騒動は収まった。逮捕劇がなかったらいったいどうなっていただろうか。

真夜中のボクサーは切れると危険---作家高橋三千綱襲撃事件

高橋三千綱、芥川賞作家で「真夜中のボクサー」原作者で知られる。映画化にあたりメガホンを取った高橋三千綱をナイフ男が襲ったのは、1983年2月28日、場所はNHK西館7階リハーサル室前であった。高橋の腿を狙ったのは、主役を降板させられた「中山一也」であった。全治10日間の怪我だった。刺したとき「その傷の痛みは、オレの心の痛みだ!」と絶叫したという。よほど悔しかったのだろう。普通なら冷静になってから謝罪し一件落着となるのであるが、「中山一也」は、それ以外にも分けの分からない事件を起こす。「俺様を起用しないのは、日本の映画界がなっていないからだ!」と思い、1988年1月9日に松竹本社ビルへクルマで突入、器物損壊容疑で緊急逮捕された。さらに黒澤明監督作品「影武者」のオーディションに落選し、巨匠黒澤監督に暴言を吐いた。収録中に共演者と一触即発になるなど、切れると狂犬であった。また、脚本家倉本聰の自宅前で割腹未遂事件を起こしている。それでも芸能界は懐が広い。2004年公開の「IZO」では主役を演じている。幕末のテロリスト「岡田以蔵」役で、はまり役?でもあった。店長は暴力沙汰を容認しないが、この役者のテンションの高さには恐れ入った。中山一也の「岡田以蔵」は名演技であった。このような鬼気迫る役者を芸能界は大事にしてほしい。

彼氏に奪われた未来---AKB48チームB所属だった菊池彩香

AKB48のメンバーは原則として恋愛禁止のようである。卒業まで秘密にしていなければ人気者にはなれない。ところが、彼氏は自分の存在を公表したくなる。菊池彩香はオレのものだ、と云わんばかりに。どうしてだろう。店長が推測する。交際していた彼女が、突然アイドルになる、と言い出したら、あなたならどうしますか?動揺するはずである。人気が出ればきみから離れていくのだ。それを喜んで送り出すだろうか。おそらくできない。で、彼氏の行動であるが、邪魔を始めてしまう。それがブログ投稿や週刊誌への売り込みである。これには、ベッド上でのたばこ写真であったり、二人で記念に撮ったH写真であったりする。そして彼女の芸能人としての未来が葬り去られることになる。ありがちである。そして菊池彩香もそのひとりであった。AKB48の公式ホームページで、彼女は「自覚に欠けた軽率な行動を取ったことが判明した」ので「解雇いたしました」と発表されたのである。AKB48に入りたくても大多数の少女たちには無理なのだ。将来を期待されていたのに、心の狭い彼氏に踏みにじられてしまった。気の毒な結末であった。まあ、彼氏がストーカー化するよりマシかも。

親ばかぶりを天下にさらす---ブログ炎上のママタレ「新山千春」

新山千春のブログは2008年5月20日の開設であるが、翌日には炎上している。おバカすぎる、ブログを書く資格なし、などと非難を浴びた。それは、新山が2歳の娘とスーパーで買い物したときのようすの記述である。娘が会計前なのに、コロッケを食べてしまったというもの。それを咎めもせず、しぐさが可愛いので許してあげる、と宣った。この発言が炎上を招いてしまったのである。さらに9月には再び炎上。そのバカママぶりが祭りになった。可愛いので許す、では娘のためにはなるまい。善悪の判断をしつけるのが正しい養育ではないだろうか。そんなことも理解できないようである。この娘、りっぱに育っているのだろうか。

中学時代のやんちゃな愚行が未来を奪った---中村愛美の失敗

当時18歳、これから女優としてキャリアを積むと期待されていた折も折、雑誌「ブブカ」に衝撃的な見出しが躍った。「アイドル女優中村愛美が、中学時代にブルセラで下着を売っていた」というもの。そのブルセラショップで撮影された写真が掲載されたのだ。人気ドラマ「GTO」で広末、深キョンとも共演していた。問題の「ブブカ」は2001年7月31日発売であった。所属事務所では、懸命に報道内容を否定したが、騒ぎは収まらず、ついに本人も疑惑を認めたのであった。当然、仕事は減少する。それから2007年に、最後の契約が終了した。つまり引退である。中村は、名誉棄損でこの出版社を訴え、これに最終的に勝訴したが、ブルセラ騒動は彼女に致命的なダメージを与えてしまった。

芸能史上最強のステージ・ママ---安達有里

安達祐実のスゴママである。娘を人気子役から女優へと育て上げた。のみならず、この破格な母親は、とんでもないぶっとび母であった。2006年にヘアヌード写真集を発刊。世間に一発かましたのだ。さらにぶっとびママの快進撃は続く。2008年には、600万円以上をかけて全身美容整形を敢行。その人工的な磨きをかけた、ヘアヌードの続刊を出した。世間は再び驚いたのである。そして2009年、今度はとどめを刺すかのようにAVデビューをやってのけた。店長は唖然とした。こんなすごい人を母親にも妻にもしたくはない。もちろん娘にも嫁にも。

ハリウッドを支えた日本の漫画(劇画)文化---アイデア盗用

90年代に生み出された傑作のハリウッド映画。それらの映画は日本発のアイデアであったらしい。今では都市伝説と化している。例えば「ライオンキング」だ。これを見た手塚治虫のファンは、仰天した。大御所の代表作「ジャングル大帝」にそっくりだった。手塚治虫はそのときは故人であった。手塚プロでは対策を協議したが、訴えることはしなかった。アイデアを盗まれたのかも知れなかったが、「手塚治虫本人には本望かも」という結論に落ち着いた。実は1966年に「ミクロの決死圏」が公開されたとき、その映画をみた手塚治虫本人の口から「僕のアイデアを盗んだようだ」と発言している。他にもきりがない。現在では映画ビジネスが確立され、リメイクなどとして原作権などが取引されている。

フィリピンで淫行---間違いない---はず

長井秀和、米国修行を目指していたのは、「間違いない」はずであった。ところが長井は、なんとフィリピンで当局に身柄を拘束されてしまったのだ。17歳少女相手の淫行疑惑である。そして長井は示談金1,100万円を支払ったとされる。長井は「美人局」にはめられたと主張している。そして、テレビから姿が消えた。彼のギャグは、店長にはたいして面白くなかった。いずれにしても、名前と違って「長くはない」芸人生命であったろうことは---「間違いない」

窓際のとっとちゃんの「噂」---黒柳徹子の「弟」

この騒動はすでに歴史の中に沈んでいるのだが、店長が発掘する。1998年のことだ。米ノースウエスト航空社員だった黒柳徹子の弟が、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されたのであった。黒柳の父は音楽家であった。NHK交響楽団のコンサートマスターを務めている。また母親はエッセイストであった。さらに妹はバレリーナで活躍した。そう、典型的な芸能一家であった。弟の現行犯逮捕で、彼が生まれたのは、母親が49歳という高齢であることなどが世間に流れてしまった。そのため、「弟」は徹子の「隠し子」ではないかという噂が広まり、黒柳徹子は必死に釈明したものだ。真相は分からないままであった。当時黒柳徹子は、ユニセフ親善大使であり、平和運動家であった。だから世間は一連の騒動に驚愕したのである。

赤裸々なあの写真を元彼が拡散---芸能事務所から解雇された藤本綾

アイドル志願者なら、エッチ画像を残さない。これが鉄則ではあるまいか。売れっ子になると誘惑が増える。交際もままならなくなってしまう。嫉妬に怒り狂った彼氏が秘蔵写真をマスコミに暴露する。懲らしめてやろうと、秘密の画像を拡散させる。そして、彼女は所属事務所から解雇される。ありがちである。個人情報がダダ漏れになっていくのである。芸能界でブレイクするはずが中傷が飛び交い、解雇されてイッカンの終わり。雑誌「BUBUKA」になま生しいエッチ写真が掲載されたのは2002年であった。その写真から藤本綾に付けられた不名誉な呼び名は「フェラアイドル」であった。2005年、失意の彼女は芸能界を引退した。1枚の「にゃんにゃん写真」が人生を暗転させたのだ。また、この事件があってから同事務所の「平山綾」は、「平山あや」に改名している。

ミスタープロ野球、長嶋茂雄を見舞った光速パンチ---ヤクルト大杉勝男

大杉勝男は、東映フライヤーズとヤクルトスワローズを渡り歩いた。だが享年47歳と若くしてこの世を去ってしまった。生涯好成績を残した名選手であった。通算本塁打は486本を放っている。これは歴代8位である。同じく打点は8位の成績であった。「月に向かって打て」という語り継がれた話があった。だがそれよりも、東映時代に乱闘になり、向かってきた外人選手をKOしたという伝説が残っている。それもパンチが早過ぎて審判に見えなかったので、大杉は退場にならなかったのだ。やられた選手は、顔面ストレートパンチを受け担架で運ばれたそうである。まだある。ヤクルトに移籍して、乱闘騒ぎになった試合がある。この時も大杉は乱闘の中心にいた。パンチを繰り出し長嶋茂雄に命中したのである。後にも先にも、ミスターを殴った選手はいない。大杉勝男ただひとりであった。

この複雑な因縁---浜田雅功と木梨憲武

この東西の両横綱ともいえる二組のお笑い芸人。「とんねるず」と「ダウンタウン」である。芸能人長者番付けの常連でもあった。それほど90年代に活躍していた。業界では、この二組の共演はご法度だそうである。仲が悪いのかと思うがそうではない。因縁は、タレントの小川菜摘である。彼女が云わずと知れた現在の浜田雅功夫人である。だが、小川菜摘は、かつて木梨憲武と付き合っていたらしい。しかも同棲までしていたそうだ。交際時期が離れているので、二股交際ではない。小川菜摘は結婚を視野に入れていた。別れた理由は男女の仲であるから、いろいろあるのだろう。浜田は、菜摘夫人を木梨のお古とか、お下がりとか云われたくないので、触れたくもない過去であった。だから好きな女性のタイプを「安田成美」と答えたりした。番組編成サイドでは、共演させないというルールが出来上がったのも無理はなかった。だが、と店長は思う。このコンビはどちらも大成功を収め、長者番付けでトップを取ったのである。それをまだ売れていない頃に見出した小川菜摘という女性の男を見る目の鋭いこと。店長は、その眼力に驚嘆している。

誰もが恐れる残忍さ---岸谷五朗兄貴

岸谷は非情なヤンキー出身である。その残忍さは、半ば伝説化している。性格俳優の現在からは想像もできない。かつて東京都小平市には巨大な暴走族グループが存在した。岸谷はそこの幹部であった。「小平の岸谷」といえば、泣く子も黙ると恐れられた。喧嘩相手に容赦なかったという。なにしろバイクの後ろに縛り付け、引きずり回すこともしばしばだったそうである。また、小型のアイスピックを持ち歩き、気に入らなければ、膝をぷすりとやったというから驚く。芸能界に入って、ラジオの収録中に、ゲストの奥居香とすざましい口論となり「このアマ!」と叫んでしまった。初めての出会いが、そのラジオ収録中の口喧嘩であった。だが---その後二人は結婚した。さすが、売れる役者になるとやることが違う。平凡人の店長には、マネができない。店長は、その昔新宿のキャバクラで「この、クソ女!」と叫んだことがある。いま思い出しても情けない。

幻のパチンコ台「CR押尾学」---芸能実績は乏しいが女にもてすぎた!

合成麻薬で女性を死亡させ、放置して逃げた「押尾学」だ。彼は、とにかく女にもてた。事件を起こした当のマンションは、下着通販「ピーチジョン」野口社長の個人所有で、大物議員の息子も出入りしており、物議をかもした。実際に交際したタレントは、彼女たちだけで名鑑ができるほどだという。なんとうらやましい。ただ、土下座をしなければならなかった女優もいたようだが、土下座でもなんでも店長なら100回でも土下座する。押尾学の「語録」は嘘半分だとしても、誰にもまねができない「異能の才」であったことは、間違いないだろう。矢田亜希子にも不良だった時代があると云われている。彼女が押尾に魅かれたのは、同じように不良だった押尾に共感したのだろう。不良もやってみる価値がある、と不良ではなかった店長は、残念に思っている。で、このCR機であるが、連チャンモードに突入すると馬車に乗った押尾学が登場してきて「すぐ寝る?」などとのたまうそうだ。ただし、逮捕されたので実現しなかった。残念だ。

剛腕吉川晃司---ワンツースリーでプロボクサーを病院送りに

今でも語り草になっている吉川晃司の武勇伝がある。人気を博したミュージシャン時代、1998年5月であった。吉川は自宅に友人を招いて酒を飲んだ。そのとき酔った友人が吉川所有のギターを蹴ってしまった。そのギターは「尾崎豊の形見の品」であった。ぶち切れした吉川は、パンチを繰り出し、友人の鼻骨、肋骨をへし折ってしまった。友人は血を垂らしながら110番通報した。吉川は傷害容疑で書類送検された。謝罪会見が行われた。吉川は、「友人はプロボクサー」「ワンツースリーで倒してしまった」と発言したのである。その無邪気な発言に会見場内にはどよめきが起こったのである。その吉川晃司も年齢を重ねた。そしてやんちゃな印象はすっかり影を潜めてしまった。先日、ドラマ「下町ロケット」で好演していた。そしてこのドラマには、やはり広島県人で、店長と同じ福山市の出身「世良公則」も出演している。店長はデビュー前から彼を知っている。「世良公則」も高校時代には喧嘩は強そうであった。

大麻の色は---「悲しい色やね」

実力派のシンガーソングライター上田正樹。店長はその昔、コンサートの機材を運び込むバイトをしたことがある。大きなスピーカーなどをやっとの思いで運び込んだ。大阪中之島公会堂である。だが設営が完了しても上田正樹は現れなかった。「コンサートが中止になった。機材をクルマに戻してくれ」そして、バイト代を貰って下宿へ戻った。中止になるはずである。その日、上田正樹は大麻取締法違反で逮捕されていた。芸能界大麻汚染は伝染病のように拡大していた。大麻に限らず、薬物にはリスクが伴う。中毒になりやがて廃人になるという。だが、手を出してしまうのだ。薬物摂取で感覚が鋭敏になるらしい。通常聞こえない音域でも聞こえるという。同情の余地もなくはない。創作というものは骨身を削らないとできないものなのか。泣いたらあかん、泣いたら、切なくなるだけ。大阪の街は、悲しい色やね。店長は、あの日に還りたいと心からそう思うのだ。

「想い出ぼろぼろ」で一世を風靡---麻薬で人生「ぼろぼろ」に

浪曲師の両親を持ち、ハスキーな迫力あるボイスでデビュー。1975年「弟よ」で人気歌手の仲間入りをした内藤やす子であった。「想いでぼろぼろ」で不動の地位を築くも1977年に大麻取締法違反で逮捕されてしまった。紅白出場まで勝ち取ったが、栄光を自ら手放してしまう。研ナオコの逮捕で発覚した。その後脳内出血で倒れて入院している。彼女もまた、転落してしまった。身体も「ぼろぼろ」にして---。

栄光のインタビューのはずが---地獄へのえい航

薬物で身を亡ぼす芸能人はあとを絶たないが、坂本スミ子はその先覚者でもあった。1983年に「楢山節考」に主演し、高い評価を得た。30歳も実年齢を上回る老婆を前歯を削ってまで好演したのである。この日本映画は、第36回カンヌ国際映画グランプリを受賞し、彼女は「時の人」になるはずであった。成田空港で待ち受けていたのは、栄光のフラッシュではなかった。「坂本さん、おめでとう」のインタビューを受けるものとばかり思っていた坂本。警察発表を知らなかったのである。店長が思うに、これは一種の「見せしめ」ではあるまいか。もともとラテン歌手であった。長く「ラテンの女王」として君臨していた。このグランプリ受賞で女優としてさらなる未来が開けるはずであった。書類送検の事実を帰国前日に記者発表するという警視庁の「気が利いた」?離れ業であった。これが芸能界への見せしめでなくてなんであろう。この1件で坂本スミ子の名前を聞くことはなくなったのであった。才能がありながら、栄光をつかみながら、数グラムですべてを失ってしまったのである。

裏家業は得意のはずだったのに---主水藤田まことの失敗

必殺仕事人は、藤田にとってはまり役であった。店長が好きな時代劇で毎週欠かさず見ていた。殺陣のシーンには惑溺したものだ。息詰まる音楽も良かった。その「中村主水」が亡くなり寂しい思いをしていると、完済したはずの借金以外の別の借金が発覚したという。藤田の妻幸枝さんが藤田を連帯保証人にして別に5億円を借り入れていたのだ。裁判になり、3億円の支払い命令が裁判所から命じられた。妻がやっていた副業はバブル経済の追い風を受け順調に発展していた。そして18億円もの豪邸を建設したのだが、バブル崩壊の波をまともに受け負債総額40億円。藤田まことは懸命に働き、癌とも闘った。それらは全額返済したと報じられていた。幸枝さんは当初絶好調だった。バブルが弾けるまでは。妻が勝手に事業を拡大したせいだとも云われてきた。では、その5億円は、夫婦で話し合った結果の借り入れではなかったのだろうか。藤田まことが死んでしまった今となっては、理由が分からない。だが、あの狂騒の時代、誰もが大きい夢を描いていた。少なくとも、この夫婦を笑える日本人はいない。追い打ちをかけるように、長男が薬物で逮捕されている。見事な転落ぶり、これぞ「必殺」であった。

セーラー服と芸人---「キングオブコメディ」高橋健一逮捕

供述によれば、高橋は2015年都内の高校に侵入し、女子高生の制服を盗んだという。20年前からの犯行で、自宅から600点ものセーラー服などが押収された。おそらく、高橋の復帰は無理だろう。セーラー服に魅入られた男の悲劇である。高橋は、芸人の将来よりも目の前の欲望に負けてしまった。おそらく、セーラー服姿の美人高校生に恋をしていたのだろう。セーラー服を着てみたいのであれば、ネットで買えば済む。わざわざ高校に侵入したのは、女子高生に執着していたのだろう。盗みではなく盗撮したかったのではないだろうか。人には、他人には理解できない趣味嗜好があるものだ。一般に「フェチ」という。それを否定するつもりはない。高橋の場合、セーラー服フェチであった。それにしても、取返しがつかないことをやってしまった。

怪物江川卓の失敗---株・土地の投資で負債額50億円

江川卓の株好きは現役時代からであるが、土地取引でもポカをやっている。現役時代の世間風に言えば「手抜きピッチング」をやってしまったのだ。入団したとき契約金全額で土地を購入した。ところが土地を取得すれば、次年度の予定納税額が沸騰することを失念していたので、たちまちピンチを招いてしまった。三者連続四球を与えてしまったのだ。結局、納税のために土地を手放すハメになった。その後日本経済はバブルと化し株・土地は狂乱した。怪物くんはこのブームに乗り、買えば上がり、上がるから買った。だが、逃げ時を誤った。そしてバブル紳士同様に崖から転落してしまった。現役時代、第一不動産の社外取締役を務め、「投げる不動産屋」と云われたものだ。火消し役のリリーフピッチャーはいたのだろうか。50億円の借金はどうなったのだろう。気になる。あるいは「巨人軍監督」に後継指名されなかった原因は、この辺にあるのかも知れない。

決してあきらめるな!---さだまさし、映画進出で大コケ

人気歌手さだまさしが1982年頃に製作した映画「長江」が大コケしたのだ。彼は28歳にして推定35億円もの負債を抱えた。だが、それからが彼の真骨頂であった。常識はずれのツアー敢行。小説の執筆、飲食店の副業開始。それがすべて成功する。なんと35億円の借金を完済したのであった。店長は、日露戦争を描いた映画「203高地」の主題歌が好きであった。”教えてください いきとしいきるものの 山は死にますか 海は死にますか 愛はどうですか"撮影が終わったとき、映画関係者がデモテープを初めて聴いて涙を流したという。それまでのさだまさしのイメージを払いのけるような勇壮な歌であった。それにしても35億円完済とはすごいの一言。矢沢永吉もすごいのだが、歌手を目指すのも悪くはない。借金がその後の人生にプラスに働いた例は芸能界ならずとも世間にいくらでもある。それにしてもすごい。

野坂昭如の武勇伝---宮沢りえの「サンタフェ」が引き金?

宮沢りえがヌード写真集を出したころ、つまり人生で最も彼女が美しかったころの隠れた武勇伝がある。主演男優は野坂昭如、助演にはデーモン小暮さらにタモリである。

場所は銀座の芸能人が集まるバーであった。宮沢りえはりえママと店に来ていた。そこで「事件」が起きたのだ。誰かが宮沢りえのお尻を触ったのだ。宮沢りえは驚いて悲鳴を上げた。それを聞いて過激に反応した御仁がいた。わが野坂昭如である。「な、何をしちょるかあ!」野坂先生は、お尻を触った男にハイキックをかましたが、うまくかわされてしまった。野坂先生は攻撃の手を緩めず、さらに連打に及ぼうとする。そのときであった。デーモン小暮が先生を羽交い絞めにした。そして前に回ってタモリが先生の足を抑えつけたのであった。「放せい!はなせい!」店内は大騒ぎになった。この騒ぎを収めたのが、当の宮沢りえであった。彼女は野坂昭如にこう云ったそうである。「先生、私は怒ってはいませんよ」さらに「あ・り・が・と・う」とも。その場面を一部始終みていた大槻ケンジは、エッセイのなかで「その笑みのなんて美しかったこと」と回想している。宮沢りえは、その後貴花田と婚約発表し、すぐに婚約を解消した。りえママと花田家の確執と言われる。そして彼女は拒食症に陥る。激ヤセするのはその影響であった。女優として脱皮するためには、必要な通過儀礼だったものであろう。

幻のメジャー挑戦---高橋由伸の悲哀

高橋由伸選手は、来年巨人軍監督になる。高橋は、プロ球団に入団する前には、野村ID野球に憧れていた。ヤクルトに入るつもりであった。そして将来には米国メジャーに挑戦するつもりでいたのだ。その希望は打ち砕かれてしまった。思い描いていた野球人生が、そのスタートから情け容赦なく折れ曲がってしまったのだ。それは、父親が経営していた不動産会社の失敗であった。不動産会社は、手当した土地を転売することで利ざやを稼いでいる。その土地が焦げ付き、利益をのせて転売できなくなってしまった。だが借入金には利息がかかる。その焦げ付きは60億円とも云われている。巨人は、高橋が喉から手が出るほどに欲しかったのだ。そのため奇策を考えた。それは、その焦げ付いている土地を相場ではなく言い値で買い取るというものだ。早く言えば借金を肩代わりするということである。高橋にとっても背に腹は代えられない。受け入れるほかはなかった。高橋はヤクルト逆指名を諦め、メジャー挑戦も諦めた。そして今度は、監督就任要請を断れなかった。新人選手の入団に際しては、裏では大金が動いているとささやかれる。野球選手が、副業の失敗や投資に失敗して、多額の借金をかかえてしまう事例は思いのほか多い。巨人では、江川卓や桑田真澄の投資失敗が有名である。高橋の場合、父親の失敗である。同情の余地がある。気の毒な野球人生であるが、巨人軍監督として歴史に名を連ねて欲しい。店長はカープファンであるが、エールを送りたい。

かつて、高額納税者の常連---いまでは老人ホームで暮らす、岸部シローの失敗

これほど見事に転落すると、何か清々しい。結局、岸部シローは何がやりたかったのだろう。お金儲けをして、それで何が目的だったのか。日本経済がバブルに浮かれていたとき、岸部はさまざまな事業に手を出した。資産は瞬く間に1億を超えた。それは副業によってであった。テレビといえば「ルックルックこんにちは」の司会がメイン。怪しい事業の共同経営にも乗り出していた。88年には会員制のヘリ運航委託会社。89年には、10億円を投じて米国ロスのクラブ(当時はディスコと呼ばれた)を買収する。国内では港区青山に趣味の骨董店をオープンしている。そして前妻と離婚した。多額の慰謝料と養育費が負担になった。さらにタイガース時代の同僚森本太郎が破産、岸部は保証人になっていた。岸部シローは、やってはいけないことをやった。闇金融にまで手を出したのである。この借金の利息が雪だるま式に膨らみ、もう自己破産以外の道が閉ざされてしまう。このためメインの司会業から降板、仕事がなくなってしまう。絵に描いたような転落ぶりであった。そして再婚していたが、その二度目の妻が若くして急死する。やがて脳梗塞を発症した。そのため視野狭窄症という障害が遺ってしまう。

いったい何がいけなかったのだろうか。バブル崩壊でひとくくりするわけにはいかない。お決まりの転落コースは、あらかじめ予定されていたかのようである。岸部シローの場合、金儲けの次のプランがなかったように思う。稼いだお金を何に使うべきか、その計画が皆無だったように店長は思うのだ。もちろん同情の余地もある。あの時代、株や土地の投機がブームであった。そんな狂乱の世相におぼれてしまったのだ。

部下の裏切り---思わぬ負債を抱え込んだ「矢沢永吉」神話

それは、1988年に発覚した。その負債額なんと35億円である。普通の人であれば、すぐに自己破産するだろう。いや、そもそもそんな大金を動かすことなどできない相談である。しかし、さすがスーパースターである。わずか6年で完済したという。事件発覚当時、矢沢本人は途方に暮れたそうだ。だが奥様はめげていなかった。「決して返せない額ではないわ。これから返しましょう」といったという。事実6年かかって完済している。店長にもできない。350,000円なら返せないこともない。それでも即金では無理なのである。情けないと思う。「成り上がり」になるには、ちとむつかしいかも。ご存知のように矢沢は貧困家庭に育っている。広島市の出身である。貧困といっても、矢沢の生家が財産を失ったのは「原爆投下」によってであった。それ以前には裕福な家であったらしい。貧困のため、高校はアルバイトをやりながら卒業している。だが「必ず金持ちになって見返してやる」という熱い思いだけは忘れなかった。後に矢沢は「俺は実業家になっても成功しているはずだ」と述懐している。彼が選んだのは音楽であった。「叶う夢だからこそ、心に宿る」という。

だから、目標を思い定めて決してあきらめてはいけない。そうすれば、スーパースターにもなれるのだ。

喜多嶋舞の失敗---明かすべきではなかった真実

大沢樹生は、息子の顔が自分に似ていない、とかねがね不審に思っていた。だが、たとえ血がつながっていなくても長男は自分の息子だった。喜多嶋舞の不用意な発言を信じたくなかった。悩んだ末にDNA鑑定を決意した。一致してほしい、祈るように結果が出るのを待った。妻の言葉のほうが間違いであってほしい。血のつながったわが息子であってくれ。だが、結果は情け容赦のないものであった。0%という結果であった。大沢樹生は、この長男を愛していた。だから縁を切るつもりでDNA鑑定を決意したわけではなかった。喜多嶋舞は、最初からダマしていたのだろうか。しかし、二人が分かれた今となっては、それもどうでもよかった。息子は現在アメリカの祖母(元人気女優の内藤洋子)の家で暮らし、すし職人になっている。困ったときには相談に来てほしい。大沢樹生はそう考えていた。出会ったころは、喜多嶋舞は、小悪魔のような魅力があり、それに惹かれた。だから「赤ちゃんができたの」と言われたときは、ほんとうにうれしかった。だからすぐに入籍を決意したのだ。喜多嶋舞は芸能界から引退するという。もうどちらでもよかった。長男とともに幸せに元気で生きていってほしい。大沢樹生は、いまでも長男を愛していた。

稲盛和夫の挑戦---弱冠27歳で「京都セラミックス(現京セラ)」を起業

いまや立志伝中の大物といえば、京セラを率いる「稲盛和夫」氏である。新タイプの粘土焼成物を次々と生み出し、窯業の業界関係者を驚かせた。第二電電(現KDDI)を立ち上げ、通信事業に革命を起こし、三田工業を救済し、カメラの名門会社「ヤシカ」(現ブランドCONTAX)を傘下に収めて光学機器業界から歓迎された。さらにセラミックにとどまらず、ソーラー事業に参入し、先行するシャープや三洋電機を追い詰めた。やがて、その類まれな手腕を買われ、日本航空の再建に取り組んでいる。まさに順風満帆に思えるがそうではなかった。若いころは失敗と失意の連続であったのである。京都出身と間違えられることが多いが、生まれは鹿児島である。勉強熱心であったが、13歳の時に結核に罹ってしまう。当時、不治の病と恐れられていた。おかげで希望していた中学に進学できなかった。病魔との闘い、受験失敗と続き失意のどん底にあった。そして、すでに有名になってしまったが、「生命の実相」を読む機会が訪れる。「生長の家」との出会いであった。これこそ、起業家「稲盛和夫」の原点であった。だが、苦難はさらに稲盛を襲った。またしても志望校受験に失敗する。今度は「大阪大学医学部」であった。仕方なく、稲盛は地元の大学へ入学した。さらに卒業を控え、志望する企業からは内定通知を貰えなかった。またしても、背に腹は変えられず、京都にある碍子メーカー「松風工業」に就職した。この会社で、懸命に製品開発に取り組んだ。起業家としての熱い志が芽生えていた。稲盛は「生命の実相」を繰り返し読んだ。そして「君のために援助を惜しまないから、独立してみてはどうか」と言ってくれる上司がいた。稲盛和夫27歳の決断であった。

必ず有名選手になる!---広島カープ衣笠祥雄の決断

プロ野球にドラフト選択会議が導入される以前であった。京都の名門、平安高校を卒業した衣笠祥雄は、広島カープを選んだ。巨人や阪神のように選手層が厚くなく、レギュラーの座を獲得しやすいと判断したからであった。だが、入団して間もなく肩を故障してしまった。衣笠は捕手であった。素早い送球が必須である。ショックであった。練習にも身が入らなくなってしまった。衣笠は落ち込こんでいた。「野球選手としてもうだめかも---」と思った。それを見て叱り飛ばした先輩がいた。当時の正一塁手興津である。衣笠は泣きそうな顔で言った。「野球をやめてアメリカへ父親を捜しに行きたい」すると興津は、「逃げるんじゃない!捕手がだめでも1塁があるだろう!お前が日本で有名選手になれば、頼まれなくても向こうから名乗り出てくるさ。お前がやることは、まず1軍にあがることだろう」やがて、興津は出番がなくなっていた。衣笠が正1塁手を勝ち取ったからである。衣笠が鉄人と呼ばれるようになるのは、さらに後のことである。

京セラ稲盛会長に100億円投資させた---「第二電電」の奇跡

NTTがまだ電電公社だったころ、一人の勇気ある人の行動がわが国の通信業界を変えた。第二電電=DDI(現在のKDDI)誕生であった。「千本倖生」氏である。この起業家の奇跡の業績はすごいの一言である。第二電電、DDIポケット、DDIセルラー(現au)、イーアクセス、イーモバイルなどである。これらは、この千本氏が構想を練り、実現させたのであった。電電公社では若くして部長を務め、年収は1,000万円を超えていた。そのままでも退職後は安泰で、不自由のない暮らしが保証されていたはずであった。

だが千本氏は違った。「電電公社が民営化されれば、大きなビジネス・チャンスがやってくるはずだ。しかし、いまのまま電電公社の寡占化が続けば、日本の通信事業は世界から取り残されてしまう。アグレッシブな企業を作って、競争原理を導入しなければ、日本は立ち遅れてしまう」叶う夢だからこそ、心に宿るという。千本氏は、京セラ稲盛会長をこうして説得した。「二人で第二の電電をつくりましょう。必ず成功します。ぜひ100億円の資本金供出に協力してください」こうして稲盛氏は応じてくれた。京セラ第二電電の誕生であった。株式が公開され、破格の値段が付き、100億円は10倍以上のリターンを京セラにもたらしたのであった。「叶う夢だからこそ、心に宿る」のである。

戦後の焼け跡を愛した作家---野坂昭如さん逝く

享年85歳であった。「野坂昭如死去」の報道に、店長は寂しさを隠せない。かつて大島渚と大喧嘩になり、ステージ上で殴り合った光景がなつかしい。スケールの大きい作家であった。店長は、この野坂昭如の文体が好きで、小説はよく読んでいた。句読点が少なく、どこまでも続いてきそうな文章は、個性と独特なリズム感を漂わせていた。店長が最初に読んだのが「エロ事師たち」である。これは、アダルト映画を撮影する職人たちの話であった。大変面白かった。だが、名作「火垂るの墓」は実話である。神戸空襲の体験をもとに執筆されたものだ。野坂少年の腕の中で実の妹が死んでいった。「火垂るがきれい---」それが最後の言葉だったという。その強烈な戦争体験を文学にしたのである。戦後、野坂少年は、新潟からやってきた実の父親と再会する。「よお、どうしてた!」それが父親の言葉であったという。野坂昭如は、血の気が多かったようで、劇作家の唐十郎と飲み屋で喧嘩になり、どちらかが包丁を持ち出し大騒ぎになったことがある。歌手にも挑戦した。「マリリンモンロー・ノーリターン」は大ヒットしている。最後の「もの書き」だったのかも知れない。野坂昭如氏のご冥福をお祈りします。

必ず一流といわれるようになってやる---若き日の野村克也の決断

名監督と云われて久しいが、捕手としても一流選手であった。野村克也その人である。戦後初の三冠王に輝いている。最優秀選手賞は5度も獲得した。順風満帆のように思うがそうではない。むしろ逆境・逆風の吹き荒れた野球人生であった。昭和10年に京都で生まれた。家は貧しく、幼心に、将来はお金持ちになる、と決意した。在籍した高校の野球部は弱いチームであったという。卒業後はプロ球団に入りたいという野村少年であったが、周囲の目は冷たいものであった。昭和29年、野村克也にチャンスがやってきた。南海ホークスが入団テストを行ったのである。入団が決まったが、実は球団は、野村克也を評価したわけではなかったのだ。当時、球団にはブルペン捕手が不足していた。その役割を期待したのであった。しかも、先輩からは「才能がない」「3年ももてばいいほう」「他の仕事を探しておけ」などといじめられている。野村克也は悔し涙にくれたという。「何としても1軍に這い上ってやる!」そのため、全体練習後も一人で練習を続けた。また、筋力トレーニングも続けた。鉄アレイで手首を強化した。入団3年目、野村克也は1軍昇格を果たす。そして、その翌年には、ホームラン王に輝いたのである。

情けは人のためならず---石原裕次郎の決断

偉大な人はなにをやっても偉大である。昭和49年の出来事であった。渡哲也は、大河ドラマ「勝海舟」の主役であった。ところが病気で途中降板することになる。1年間の休養を余儀なくされたのだが、収入も途絶えてしまう。渡哲也は、当然ながら困窮した。その惨状を石原裕次郎が助けたのである。当時、石原プロは経営難が続いていて、渡哲也どころではなかったそうである。だが、裕次郎は渡哲也が復帰するまで援助を続けたのであった。そのとき渡哲也は「この恩は一生忘れない、どんなことがあっても彼についていこう」と決意したという。裕次郎が他界したとき、渡哲也は石原プロの社長を引き受けている。石原裕次郎は、「黒部の太陽」を製作するときに多額の借金をしていた。それに撮影中の事故で危うく命を落とすところであった。撮影は、実際に工事を請け負っていた熊谷組の資材場に設営された。トンネル内に大量の水が湧出するシーンを撮影する時であった。裕次郎はその水に飲みこまれてしまう。水量が多すぎたのであった。だが、裕次郎は奇跡的に助かっている。指を骨折したが、命に別状はなかった。事故もあって、迫力のあるシーンが撮影されたのだ。もしあの時に死んでいたら、赤木圭一郎の事故死もあったので、二大スターを喪うことになっていた。

冗談が通じない劇作家---唐十郎の素顔

唐十郎テント公演の初日であった。寺山修司が生前に冗談のつもりで、ご祝儀の代わりに葬儀用の花輪を贈った。これを真に受けた唐十郎は激怒した。そして劇団員を連れて、寺山修司の劇団「天井桟敷」を襲撃したのである。大乱闘になり、唐十郎は現行犯逮捕された。唐は血の気が多いようで、野坂昭如とも飲み屋で喧嘩になっている。その時も彼は包丁を持ち出し、大騒ぎになった。演劇好きの店長は、このテント公演を見に出かけた。新宿花園神社の境内であった。すぐ近くには「アトリエ・キーホール」というのぞき部屋があった。なんて牧歌的な光景だろうか。その、のぞき部屋では、中央にバイトの女学生がいて、「女子高生」の自室を再現していた。そして、おもむろに衣服を1枚ずつ脱いでくれるのだ。それを「鍵穴」から覗くのである。新宿歌舞伎町といえば、卑猥な印象をぬぐえない。町名変更もありかな、と思う。まあどうでもいいか。

タレント「真鍋かをり」の神通力かも---苦難の末に返り咲いた城内実議員

この選挙は自民党の圧勝であった。そして、城内氏も見事に当選した。そして国会に返り咲いた。だが、選挙ポスターに汚点を残したのであった。それはタレント「真鍋かをり」の写真を無断で載せ、彼女の知名度を利用して、選挙戦を勝ち抜こうとしたのである。2009年7月29日のスポーツ紙に、「真鍋かをり」の怒りのコメントが掲載されている。城内候補とは「何の関係もありません」と不快感を露にしている。彼女は、1年ほど前に城内氏と対談で会っていて、写真はそのときのものだったという。当時、彼女は「ブログの女王」ともてはやされていた。だが、この1件がもとで仕事に支障を来たしてしまったのだ。城内氏側は、「無断使用ではない」と主張したが、自身のブログは炎上してしまった。結局、城内議員は「真鍋かをり」に謝罪した。そして、ポスターと動画はすべて撤去されたのである。店長も「真鍋かをり」のファンであった。映画「ウオーターボーイズ」ではその見事な水着姿を披露している。この映画には、いがぐり頭の「玉木宏」も出演していた。いずれにせよ、郵政民営化に反対票を投じ、小泉内閣では苦杯をなめてきたが、今後は、静岡のためにも活躍して欲しい。

人気グループSAMPの草なぎ剛が泥酔して公園で逮捕---分かるよ、その気持ち

騒動は2009年4月のことである。「公園で男が裸で暴れている」付近の目撃者から警察に通報が入った。警察が駆け付けると、その男は「草なぎ剛」その人であった。泥酔していた。裸になっており、大声で喚いている。この破廉恥事件は「SMAP草なぎ剛全裸露出事件」として、全国の茶の間を駆け巡った。うーむ、店長にはわかる気がする。人気アイドルには、ストレスも相当なものなのだろう。たまには、発散したい。当然である。店長も酒の上では、よく失敗している。飲みすぎて眠ってしまい、東京の山手線を3週したこともある。品川駅で駅員に降ろされた。午前2時近くであった。

当時、テレビはデジタルに切り替わる過渡期であり、総務省は、この地デジ化を推進していた。そしてキャラクターは、この草なぎ剛が担っていた。法務大臣は「鳩山邦夫」であった。大臣は4月23日の自身のブログでこの事件について触れ、草なぎ剛を「最低の人間」と痛烈に非難した。ところが、ファンはそれを知って激怒した。確かに軽率な発言であったが、大臣は決して間違ってはいない。だが鳩山事務所には抗議の電話が殺到した。公務に支障をきたすほどであった。そして、大臣は釈明して発言を撤回するはめになった。どちらが悪いのだろう。大臣に非はないと店長は今でも思うのだ。裸になって暴れるアイドルの方が悪いのに決まっている。しかし、世間では、見た目の悪人ずらの男の方が悪いらしい。草なぎ剛は、この大臣の暴言のせいで得をしたと云えるだろう。

男が決断する時---ワタミ創業者、渡邉美樹の場合

渡邉美樹氏は、若いころから経営者になりたいと思っていた。自分なりに調べてみると、居酒屋の経営が、最も難易度が低いようであった。だが、肝心なのは資金である。志は高く、やる気にあふれていた。あとは資金と経営ノウハウであった。そのため、佐川急便で1年間、懸命に働いた。貯まったお金は300万円である。そして、居酒屋経営のノウハウを学ぶべく「つぼ八」で心を込めて真剣に働いた。すべてが経営者になるための勉強であった。だから、つらいと思ったことはなかった。他の社員たちとは一線を画していた。なにしろ将来は居酒屋チェーンのオーナーなのであった。「叶う夢だからこそ心に宿る」という。やがて心を一つにできる仲間ができる。機は熟した。「つぼ八」の社長に独立を申し出る。社長は渡邉に云った。「そうか、君には幹部としての将来を期待していた。まあいい。やってみなさい」こうして「ワタミ」第1号店が誕生したのであった。だが、意気込みが空回りする日がやってくる。経営難に陥ってしまうのだ。渡邉美樹は追い詰められた。窮状を見かねて、援助の手を差し伸べてくれる方があった。誰あろう「つぼ八」の社長であった。渡邉美樹は、こう回想している。「社長は、私にとって命の恩人です。今日の「ワタミ」があるのは、社長のおかげです」その後は順調に業績を伸ばし、「ワタミ」は「つぼ八」を凌駕するほどになった。現在の「ワタミ」には逆風が吹き荒れているが、乗り越えて欲しい。渡邉美樹氏が大阪府岸和田市に、介護施設を開業したとき、店長は大阪で営業していた。そして、その施設にさまざま設備機器を納入したのである。今では楽しい思い出である。施設は有名な「だんじり祭り」を部屋から見物できる、すぐれた立地であった。現在、「ワタミ」はその介護事業を手放したそうだ。本業の居酒屋は、ぜひとも巻き返して欲しい。

男が決断する時---大横綱「千代の富士」の場合

横綱の本名は、秋元貢。昭和30年、北海道の寒村に生まれた。九重部屋にスカウトされたが、相撲にはまるで関心がなかった。当時の親方に「東京見物しないか。飛行機に乗せてやるぞ」と云われて上京したのであった。身体能力は素晴らしく、他のスポーツを選んでいても大成しただろうと云われていた。騙されて上京した、というのが本当らしい。昭和45年、秋元少年15歳であった。しこ名は親方と先輩からもらった。後に「千代の富士」と命名された。そして前人未踏の通算1,000勝を達成する。国民栄誉賞受賞は相撲界初めてであった。だが、この偉業は逆風の中で達成された。元来、太りにくい体質であった。しかも関取になった途端脱臼に見舞われた。その頃、力士は年々大型化していた。だから関係者の間では貧弱な体格の力士と思われていた。可愛がってくれた親方の死もあり、千代の富士はふさぎ込んでいた。脱臼は癖になっていた。「もう廃業したい---いっそプロレスに転向しようか」引退間もない兄弟子「北の富士」がふさぎ込む「千代の富士」をみて一喝した。「お前は親方に一番可愛がられていたんだ!脱臼ぐらいが何だ!脱臼しない身体に作り変えてみろ!」そのとき「千代の富士」は筋肉の鎧を作り上げる決意を固める。それからは、相撲の猛稽古のあと筋トレに励んだ。1日500回の腕立て伏せ、自転車、バーベルなど筋肉をつけるために、一人でもくもくとトレーニングを続けた。体重も100㌔を超えた。誰も貧弱な力士とは思わなくなった。入門したころ、先輩につけられた「ウルフ」という愛称は、誰も使わなくなっていた。後の大横綱「千代の富士」の誕生であった。

尾道に残る伝説---昭和の大女優、原節子

終戦から8年後の尾道。一目見たいと空前絶後の観衆が集まってきた。あの「原節子」さんをこの目で見たい。「原節子」云うまでもない、当時の大スターである。テレビがまだ普及していなかったころ、映画は人々の娯楽であった。その本人が撮影のため、この尾道にやってきた。それをこの目でみたいと大勢の人が尾道に集まってきたのである。その彼女が天寿を全うしたという。95歳の大往生であった。人気絶頂であった。若いころの彼女は、上品で清潔感があり真の美女であったという。小津安二郎監督の「東京物語」、その撮影は尾道で行われた。店長の母親は、尾道の出身である。母もひと山を徒歩で越えて、この女優を見に出掛けたそうである。当時、混雑を避けて、原節子は尾道駅の一つ手前の駅で下車したそうな。昭和を代表した美人女優「原節子」永遠に。ご冥福をお祈りします。また一人昭和を生き抜いた女優が逝ってしまった。

男が決断するとき---俳優今井雅之の場合

今井雅之(享年54歳)大腸がんで5月28日に逝去。ライフワークとなっていた「THE WINDS OF GOD」は、5月31日に沖縄市民会館で千秋楽を迎えている。この舞台の初演は1988年であった。さぞや残念であったろう。誰よりもこの舞台を愛していた。そしてもう一度舞台に立ちたかったのだ。

この舞台は、特攻隊を描いている。芸人が戦争末期にタイムスリップして、特攻隊員となって、そのゼロ戦で出撃するという話である。

今井雅之は、自衛隊の出身である。もとより俳優になりたいと考えていたが、両親の反対で一度は断念していた。父親の希望もあり自衛官になった。だが、彼は夢をあきらめなかったのだ。いつかは舞台に立つ。やがてこの夢が実現することになった。それは、舞台の構想が芽生えたときであった。それこそ、この「THE WINDS OF GOD」なのである。必ず実現する夢だからこそ心に宿る、と言われる。そうなのだ。安室奈美恵もそうであった。だから夢を諦めてはいけない。店長には、今井雅之が病床で叫んでいるような気がする。「決してあきらめるな!」「最後まで希望を捨てるな!」あらためて俳優・今井雅之のご冥福をお祈りいたします。

その発言は、美脚自慢?---元AKB48大島麻衣の失言

成人の日に行われた討論番組。もうずいぶんと前になるが、大島麻衣は「オジサンは、すけべ!目線がスカートに集中する。見られてもいいけど、オジサンにはいやです」と言い放った。この発言によって、彼女のブログが炎上したのが記憶にある。批判する書き込みが殺到したのである。番組では、「自意識過剰ですね」とうまくまとめられていたのだが。彼女は謝罪文を掲載するはめになった。「イケメンなら、いくら見られてもうれしいのか」というツッコミが入ったのだ。無理もない。

自意識過剰というより、この発言は、美脚自慢のように店長は考えてしまう。以前新宿地下で、歩行者のミニスカート姿につい見とれてしまい、別の通行人とぶつかりそうになったことがあった。なにを隠そう、店長もミニスカートは大好きなのであった。大島がいう「オジサン」というのは何歳までのことだったのだろう。40?50?もっと若い年齢?そんな大島も、もう「おばさん」になってしまった。時間の流れは容赦ないのである。

カリスマ経営者の凋落---ホークスタウン高塚猛社長(当時)

高塚社長は、福岡を活性化させた功労者として、カリスマと云われた。それこそ本体ダイエーの創業者中内功氏と同列に論じられたほどであった。だが、彼にはもう一つの顔があった。限度を超えた「パワハラ」である。英雄色を好むという。それを地で行った。社員旅行に同行すれば、平気で女性社員の布団にもぐりこんだ。押し倒されデープキスをされた社員もいた。そして、抗議した社員を冷遇した。会社も女子社員もわが物、とでも思っていたのか。2004年11月、遂に強制わいせつで逮捕された。輝かしいキャリアを台無しに、人生も台無しにした。おそらく女好きは病気なのだろう。死なねば治らぬ病気である。

名門女子高から退学処分---水着写真集出版の罪は重かった

2006年10月26日、東京スポーツが1面トップで報じている。「女子高生アイドル退学処分」そのアイドルは「小泉麻耶」といった。彼女は処分の無効・撤回を求めて、学校側に訴訟を起こした。結局、棄却されてしまい、学校復帰はできなかった。そればかりかTV、雑誌などへの出演機会も減ってしまった。芸能活動は、高校卒業後でもよかった。可愛い顔立ちであったし、さらにGカップでもあったのだ。このまま消えていく運命だろうか。残念な気がする。

”燃え系”と書かれたアイドル志望---特技は「放火」

諏訪、茅野、下諏訪で起きた連続放火事件。2006年7月8日であった。容疑者として逮捕されたのが「くまぇり」と自称していたアイドル志望の女であった。彼女は火事の様子を詳細にブログで発信していた。それ以前に、セミヌードなどの画像流出は、すべて自作自演であった。どうしてもアイドルになりたかった。警察に任意同行を求められたときでさえ、オーディションがあるからと拒否している。自作自演でも人気者になれるかもしれない、と彼女は思っていた。心が麻痺していた。さらに注目されたかった。だが、火事の実況報告は余計ないたずらであった。こうして、彼女は逮捕され、アイドルへの夢はあっけなく終わってしまった。そこそこ美人のようであった。本当にアイドルになりたければ、ほかにいくらでも健全な方法があっただろうに。彼女は放火事件後、謝罪文を発表している。そこには「なぜあんなことをしてしまったのだろう。人生が終わってしまった。やり直したい気持ちでいっぱい」などと後悔する言葉が並んでいた。

隠せなかった無知---いつしか消えてしまった歌手・倖田來未

当時人気絶頂であった、倖田來未。ところが2008年1月29日オンエアーの「オールナイトニッポン」において、彼女は衝撃的なおバカ発言を行った。曰く「35歳を回ると、お母さんの羊水が腐ってくるんですよね」もちろん医学的な根拠など何もない、とんでもないおバカ発言であった。俗に「バカ丸出し」という。この”事件”の反響は予想以上に大きく、倖田來未には芸能活動自粛、自宅謹慎という「エイベックス」始まって以来の重い処分が科せられたのである。店長が不思議に思ったのは、倖田來未は誰からそのような話を仕入れたのか。母親なのだろうか。もしそうなら、「早く結婚してほしい」という親心から、つい口をついて出てしまったのだろうと推測される。それにしても、公的な電波にそんな間違った知識をのせてはいけなかった。

演歌歌手で天才と云われた少女がいた。美空ひばりではない---藤圭子である

藤圭子が飛び降り自殺を遂げてから何年になるだろう。新宿の路上で発見された。何故、新宿なのか疑問に思っていたのだが、デビュー曲が「新宿の女」なのであった。当時18歳であった。おかっぱ頭で端正な顔立ちだったのを思い出す。「こんな姉がいればなあ、毎日どんなに楽しいだろう」と店長は思っていた。だから、藤圭子が前川清と結婚した日には、ショックであった。TVで彼を見るとあわててチャンネルを変えたものだ。それもすぐに離婚した。「若すぎたんです」というコメントを覚えている。その後TVで見かけなくなったのだが、宇多田ヒカルがブレイクして、彼女が藤圭子の娘だと知った。藤圭子は、どことなく暗いイメージで歌っていた。だが本当の彼女には、暗さなどみじんもなかったという。それに、目指していたのは演歌ではなくポップスだったそうである。その夢は娘が叶えたのである。だから、幸せな隠居生活を過ごしていると思っていた。何があったのか、数奇な人生を歩んだことは間違いなさそうである。

早すぎる死、心筋梗塞---ドカベン香川伸行逝く

ドカベンといっても野球漫画の主人公ではない。南海ホークスの人気選手であった香川伸行である。2014年9月24日死去、享年52歳。その早すぎた死に、野球解説者で浪商時代にバッテリーを組んだ牛島はショックを隠せなかった。香川は、ホークスにドラフト2位で入団した。そしてプロ初打席初ホームランという衝撃的なデビューを飾っている。だが、太りやすい体質だったせいか、減量には常に苦しんでいた。27歳で戦力外通告を受けた。一般に人気選手が漫画になることはあるが、漫画に合わせて出現した選手はいなかった。まるで漫画に合わせて太っているかのようであった。そんな香川であったが、腎臓病に罹り人工透析を受けていたらしい。残念である。ご冥福をお祈りします。

誰もが「天才打者」と呼んだ選手---広島カープ「前田智徳」

生前の元巨人監督川上哲治氏や落合氏がこぞって「天才」と評価した。それが現在解説者の「前田智徳」である。彼は現役選手時代にアキレス腱を負傷してしまい、残念ながら打者としては無冠で引退した。高校時代のエピソードがある。打席に立ち1度もバットを振らなかった。監督が「頼むから1度でいいから振ってきてくれ」と懇願すると、前田は「あれは、ピッチャーではないですよ」と言い放ったという。カープに入団するや、その打撃センスにはコーチも監督も舌を巻いた。「何も言うことがない」と、監督がいうほどだったという。他球団の関係者は口を揃え「うちでも獲れたのに---」と悔しがったそうである。

明日、自殺するから---警察を呼んでほしい

あなたが、もし友人に「オレ自殺するから」と言われたら、どうしますか?

通常、そう言ってから自殺する人はいないものである。だが、俳優の中村玄也は違っていた。2012年11月21日。享年23歳、あまりにも短い人生であった。どうせ冗談だったのだろう。そう思って話を聞いていた早乙女太一であったが、翌日、胸騒ぎがして、中村玄也の自室を訪ねて見た。そこには変わり果てた友人の姿があった。「まさか、本当だったのか---」早乙女太一、第一発見者であった。玄也は仮面ライダーなどの戦隊もので活躍していた。仕事なのかあるいは恋愛で悩んでいたのか。親友だった早乙女太一は、もう少し悩みを聞いてあげれば良かった---とショックを隠せなかった。中村玄也は、石田純一の娘「松原すみれ」と交際していた。そのため彼の自殺は破局が原因とされた。遺書が残されていたらしいが、真相は分からない。自分に怒りが向かえば自殺。相手に向かえばストーカー殺人となり易い。たいてい主役は男と決まっている。ご冥福をお祈りします。

無理なダイエットは危険---世界のポップス界を席巻した兄弟、カーペンターズ

カーペンターズは、1970年代に大活躍した兄弟デユオで日本でも大人気であった。ボーカルの「カレン」は澄み切った歌声で美貌でもあり、店長もファンであった。しかし1983年2月、突如彼女の死が世界中に打電されたのだ。享年32歳であった。そして多くのファンは耳慣れない病名に仰天することになった。「拒食症」である。そしてこの病を扱う専門医も出現することになる。世間はダイエットが危険であるということを初めて知ったのであった。認可されていないサプリメント服用による死亡事故も起きている。一般に、男性たちは痩せている女性を好まない。それを女性たちは認識していないように思える。芸能人ならいざ知らず、一般の人が無理なダイエットに取り組むべきではない。

副業の不動産で財を成したものの無念の引退---復帰が望まれる島田紳助

島田紳助は、若いときから何事にも研究熱心で、そのためのノートを持ち歩いていた。通常、ネタ帳と呼ばれるノートだが、彼のノートはそんな簡単なものではなかった。将来の目標を明確にしたうえで、それぞれの課題を整理していた。だから、その他大勢のタレントが行う副業のように失敗しなかった。結婚でさえ、成り行きや行き当たりばったりの無計画なものではなかった。そして奥様は賢夫人との評判であった。島田紳助が発掘したタレントは数多い。彼は、ひと付き合いというものを最も大切にしていた。相方の故人松本竜助は、副業で失敗して自己破産している。コンビは対照的な人生を歩むことになってしまった。松本竜助が死んだ当日、紳助は同期のオール巨人らと、朝まで泣きながら飲み明かしたそうである。また竜助が副業に失敗したとき、こっそり援助していたという。藤原紀香をメジャーにしたのも、実は島田紳助である。1994年、関西で人気モデルであった彼女を、自身のクイズ番組でアシスタントとして採用した。藤原紀香は陣内智則と結婚したが、紳助はキューピッド役となっている。芸人というよりむしろ事業家として財を成した島田紳助だが、研究熱心であった彼を店長の私も見習いたいと思っている。

柔道「オガワ」世界最強の称号---しかしアジア大会では無名の北朝鮮選手に敗れる

それまで圧倒的な強さを誇り慢心があったのか。なんと小川直也は高校入学から柔道を始めたのだ。競技生活わずか4年であった。1987年柔道世界選手権。彼は無差別級王者となった。世界が驚く彗星のように現れた王者であった。しかし北京アジア大会で、小川は無名選手に不覚をとってしまう。敗戦のショックから立ち直れず、続くバルセロナ五輪。決勝で敗退し笑顔なき銀メダルに終わってしまった。結局、五輪では金メダルを取れないまま柔道界から引退した。不完全燃焼のままであった。天才がはまった陥穽であった。小川直也は現在プロレスで活躍している。

人気まんがを実写化---大こけした「原作レイプ」の見本

永井豪の人気漫画「デビルマン」2004年10月、この年は原作コミックの実写がいくつも製作され、どれもが酷評された。VFXが駆使され、かつての特撮に代わる映画界の革命の年でもあった。さて「デビルマン」であるが、製作費10億円の半分も回収できない大こけであった。映画評論では酷評されており、このころから「原作レイプ」なる言葉が一般化した。メインキャストには演技経験もないタレントを使い、「学芸会以下」といわれたものだ。編集にも手抜きが多く、映画として支離滅裂になってしまった。永井豪のファンは激怒した。「原作を滅茶滅茶にし、作者を傷つけた」とファンの怒りが津波になった。この失敗作を監督した「那須博之」は、肝臓がんが悪化して、映画公開の翌年に他界している。

奇跡のカムバック---元近鉄バッファローズ投手、盛田幸妃さん死去

脳腫瘍を発症して手術。奇跡の球界復帰を果たし、多くの人に希望と感動を与えてくれた。現役引退後は解説者として活躍したが、病気再発10月16日に還らぬ人となった。大洋・横浜時代は、鋭いシュートを武器にリリーフ投手として活躍した。享年45歳であった。北海道出身である。実の弟もガンで亡くなっていた。店長は、広島の炎のストッパー「津田恒美」を思い出した。だが、盛田投手は、手術後に球界復帰を果たしている。このことは、同じ病で苦悩する多くの人に希望をもたらした。それにしても若すぎる死去である。ご冥福をお祈りします。

昭和の大スター「勝新太郎」の失敗

当時1967年、「勝新」は絶好調であった。勝プロダクションも立ち上げた。映画「影武者」には主役として出演が決定。撮影が開始された。だが、すべてが順調の中に慢心が生まれたのか。それとも性格なのか、そんな「タチ」であったか。黒澤明監督と衝突して、主役を降りてしまった。シリーズ「座頭市」は成功していた。勝新の当たり役でもあった。そんな中、日本テレビからオファーがあった。「勝主演で刑事ドラマを作ってほしい」というものだ。そして「警視-K」がスタートした。だが、あくまでリアリティーを追及したかったあまり、支離滅裂なドラマになってしまった。また、キャストに娘の「奥村真粧美」を起用したが、まるで素人であった。日テレにはクレームが殺到。平均視聴率は5%に届かず、ドラマは13回で打ち切りと相成った。すべて「勝新」のこだわりが生んだ。勝プロは12億円の負債を抱えて倒産した。刑事ものにも関わらず、銃撃もカーアクションもなかったという。現在ビデオ化され、マニアには好まれているらしい。店長が思うに、番組制作に限らず、すべてのプロジェクト成功の鍵を握るのは、スタッフの「和」ではあるまいか。この点がこの名優には欠けていたのだ。所詮、座頭市からはみ出すことはできなかった。

近鉄バファローズ日本1を逃す---加藤投手の不遜な態度

巨人との日本シリーズ、先に3連勝して大手をかけた近鉄。時は1989年10月であった。3戦目で先発した加藤哲郎投手は、7回途中まで巨人打線につけ入るスキを与えず好投した。その後もリリーフ陣が巨人を封じ込める。勝利者インタビューに応じた加藤哲郎投手であったが、思わぬ陥穽が待っていた。彼は、そのとき報じられたように「今の巨人は弱い」と発言したのだろうか。その年の日本シリーズであるが、その後巨人は奇跡的な4連勝を飾り、見事日本一に輝いた。加藤哲郎投手の失言によって、巨人ナインの闘志に火が付いたせいだとされた。第5戦では原辰徳が満塁ホームランを打っている。最終7戦で先発した加藤哲郎投手であったが、駒田にホームランを打たれKOされている。確かに巨人を怒らせたのかも知れなかった。だが、発言の真相は少し違っていた。加藤哲郎投手の第3戦後のインタビューであるが、彼は「今の巨人は弱い」とは発言していない。これは記者団との囲み質問で誘導されたのであった。同情の余地はある。だが、その時点で、彼はプロ通算10勝に過ぎなかった。あくまで謙虚な態度でインタビューに臨むべきであった。嘘でもよいから「巨人打線は怖いです。いつ爆発するかヒヤヒヤものでした」とでも答えればよかったのだ。そうすれば、巨人打線が沈黙したままシリーズは閉じたかも知れなかった。戦犯扱いされた彼は、その後勝てなくなってしまった。さらに近鉄バファロ-ズは1度も日本一になれず、その歴史を終えることになった。

40億円の悲哀---セイント・フォーの失敗

応募してきたのは3万人。その中から4名を選別し、2年間に渡る猛特訓。1984年、その4人は「不思議TOKYOシンデレラ」でシングルデビューした。グループ名は「セイント・フォー」であった。プロモーションには、映画製作などで40億円が投じられたという。彼女たちは曲間にバック転を見せたり、当時としては型破りなパフォーマンスを展開した。続いてリリースしたのは「太陽を抱きしめろ」この曲はオリコン15位にランクされた。順調な滑り出し---のはずであった。ところが彼女たちを悲劇が襲った。所属事務所とレコード会社との対立である。「セイント・フォー」の今後の路線対立は深刻になった。埋まらぬほどに溝が深くなったのだ。さらに事務所の経営不振が追い打ちをかける。そんな中、4人のうちで最も人気があった「板谷祐三子」が脱退する。そして事務所とレコード会社は裁判沙汰になった。金銭トラブルが原因である。実力を備えた4人ではあった。しかし、その潜在的な実力を発揮する機会は、永遠にやって来なかった。苦しい2年間の猛訓練、デビューしてから3年あまりであった。非は周囲の大人たちにある。失った5年間を返して欲しいと、彼女たちは思った。何だったのだろう、私たちって。1987年1月、「セイント・フォー」の解散ライブが行われた。

少女が決意する時---安室奈美恵の場合

那覇市で3人兄弟の末っ子として生まれた彼女は、保育園児のころから歌うことが大好きであった。みんなを集めて台の上に上がり、スプーンをマイクがわりに持ち、ワンマンショーをやっていたらしい。当時から人前で歌うことに喜びを感じていたという。そして「歌手になりたい」と小学生になったころから考えていた。やがて「願望」は「切望」に変わっていった。4年生になったとき、母親に宣言する。「大きくなって歌手になる」そういうと彼女は地元の合唱団に入った。そして沖縄のタレント養成所「アクターズスクール」に入学したのは、スカウトされたからである。しかし、経済的に苦しかったこともあり、母親は娘の願望には耳を貸さなかった。「うちにはそんな余裕はないの!」いくらスカウトされたのであっても猛反対した。しかし彼女は、高校進学を断念しても、歌手への挑戦を続けた。母親は娘の熱意に押し切られてしまった。成功する人は、目標を具体的にしてイメージする---「潜在意識活用」の基本である。人気歌手となった安室奈美恵もそうだ。「アクターズ・スクール」へ通学するとき、バス代を節約するため徒歩で通ったという。根性だけではできない。強烈な「目標」がキーである。さらに、歌手をめざして上京する時、彼女は母親に「3年間ちょうだい」と目標に期限を設定しているのだ。15歳からデビューする日まで、なんと1日4時間も歌とダンスの練習を続けたという。母親と約束した期限がやって来た時、安室奈美恵の歌声はポップス界を席巻していた。

ネット社会の恐怖---地獄をみた芸人

芸人スマイリー・キクチは、ネット上で根拠のない噂が拡散し、仕事が激減した。そして社会的にも抹殺されかかった。まことに気の毒というほかない。足立区で起きた「女子高生コンクリート殺人事件」その犯行グループの一人だったという根も葉もない噂が拡散して、彼のブログは炎上し、誹謗中傷の渦に飲み込まれてしまったのである。キクチが所属する事務所の度重なる捜査要請が功を奏し、このほど、噂を捲き散らした容疑者13人が特定され、逮捕状が出たという。しかしキクチの疑いが晴れても、拡散した中傷をすべて打ち消すことは不可能である。では、なぜこんなことになってしまったのかを検証したい。いい出しっぺは誰なのか。これはなんと元警視庁刑事で現犯罪評論家の北芝健氏なのである。彼は、著書の中で、匿名ながら犯行グループの中に芸人としてデビューした人物がいる、といってのけたのである。根拠のない作り話であった。また事務所にも責任がある、と店長の私は思う。キクチは足立区の出身であり、不良だったこともある。所属事務所はそれを「ウリ」にしようとした。あまりにも残虐なコンクリート事件を連想させるような、間違った戦略でキクチを売り出そうとした。そのためキクチのブログに書き込まれた「あの事件の犯人じゃないの?」という軽いノリであったものが途端に八方へ拡散してしまったのである。

映画監督を偲ぶ---戦場のメリークリスマス 

大島渚監督が死去されて、どれだけ経っただろう。衛星放送で先日「戦場のメリークリスマス」が放送された。いやなつかしい。店長は封切りを日比谷の映画館で観ている。原作も読んだ。これは実話だという。戦争を知らない世代にこそ観て欲しい、そんな映画である。北野たけし演じる原軍曹の台詞「今夜、わたし、ファーゼルクリスマス!」は店長の中で印象に強く残っている。西洋と東洋の対立。それが戦争によって意味を持つ。そして、武力では為し得ない双方の融和と理解。それを可能にするもの、それが音楽である。音楽こそが平和を導く。そんな大島渚の映画に込められたメッセージが読み取れる。だからこそ、キャストには音楽家を多く選んだのであった。大島監督の傑作であると店長は思うのだ。

チリ人妻アニータ・アルバラード---地元で成功者として賞賛され人気沸騰。タレントとして活躍

青森県住宅供給公社(当時)の経理担当主幹・千田郁司(当時44歳)は、1993年2月から2001年まで、計14億5900万円を横領した。だが、千田がアニータと知り合ったのは1997年の春である。千田の横領が発覚したのは、国税局の監査が入ったからである。彼は横領した公金14億円のうち約11億円をチリ人妻アニータに貢いでいる。アニータは帰国して大豪邸を建設している。発覚しないのをいいことに、千田の横領はアニータと出会い、結婚してから加速した。その公金横領は実に165回に渡る。公社は2009年3月31日に解散された。チリ人から見れば「バカな男に大金を貢がせ、巨額な財産と名声を得たスター」なのである。この項は「おバカ事件ファイル」と記事を共有しています。

映画「座頭市」真剣を使用して過失致死---奥村雄大

この映画撮影は、店長の地元の福山市「みろくの里撮影所」で行われた。1988年12月26日の事故であった。勝新太郎の息子、奥村雄大がリハーサル中に真剣を使用、誤って切られ役の役者の首を本当に切ってしまったのである。その役者は死亡した。だが、奥村は真剣だとは思っていなかった。スタッフが勝手に用意したものらしい。裁判でもそれは認められている。映画は福山市では上映されなかった。実はこの映画には、伊藤さんという店長の知人が出演していた。伊藤さんは田村高広主演の「鑑真」にも出演している。日大卒業後に舞台役者になり、それなりに活躍された。存命なら80歳になるだろう。いつの間にか年賀状も届かなくなった。元気にされているのか気になっている。なお奥村雄大は祖父の一文字を貰って、芸名を「鴈龍」に変更している。

人生の最後は寂しい孤独死---山城新伍さん死去

最近、偉大なスターたちが相次いで亡くなると、店長の私は老いることを考えざるをえない。老いるとはいかなることか。すべてが空しく思えてくるのだろうか。いくら富や名声を勝ち取ろうが、あの世まで持っては行かれないのだから。山城新伍(享年70歳)も孤独死であったそうな。大々的に報道されたのは大原麗子であったが、その陰でひっそりと息を引き取っていた。前妻と長女は、その葬儀にさえも参列しなかった。これには大きな理由があった。なんと山城新伍は長女の友人を強姦しているのだ。にしても寂しすぎる。一世を風靡した人気役者だったのだから。

夢と消えた北京五輪---18歳でガン発症

その日本選手の名は「横山友美佳さん(享年21歳)」横紋筋肉腫により永眠した。将来、日本を背負って立つと期待された大型選手であった。木村沙織選手の後輩で、妹のように可愛がりまた二人は仲が良かった。今振り返っても大変残念な死であった。彼女の著書「明日も生きていこう」はドラマ化され大きな反響を呼んでいる。店長は、知り合いの女性を骨肉腫で亡くしたことがあった。その人も高校生でバレーボールの選手だった。アスリートなのに、いったいどうして10代の若さでガンなどに発症してしまうのか。運命の残酷さを感じてしまうのだ。横山さん、安らかに。

店長の厳選「お宝ヌード」---全盛期の「東てる美」

いまやすっかりお年を召してしまわれたが、その若かりし頃の美しいヌードに熱を上げない青少年などいなかった。美少年時代の店長も「東てる美」に熱中したものだ。その過ぎ去った青春時代がなつかしい。「三東ルシア」もそうであった。年を取れば、だんだんヘンになっていくものだ。自然の摂理には逆らえない。美しい肢体であっても老いるときは老いていく。結婚式における神父さんの言葉「死が二人を分かつまで」いや無理ですよ、神父さん。正しくは「老いが二人を現実に戻すまで」ではないでしょうか。

ワインの身体は癌には勝てなかった---川島なお美さん逝く

現役青学生タレントでデビューして人気者になり一世を風靡した。そのキュートな容姿から醸し出す知的な印象は、明らかにそのほかのジャリタレとは違っていた。店長は大のファンであった。舞台公演も観に出かけた。悲しいことだが、アイドルも年を取る。加齢は誰にも避けることができないものだ。川島なお美は「女子大生アイドル」という女優イメージをぬぐい去るためにヌード写真集を出した。この目論見が功を奏し、芸風が一挙に拡大。「極道の妻たち」に出演するチャンスを得た。女優魂を持っていたのだと思う。2015年9月24日肝内胆管癌の手術後に還らぬ人となった。

故藤本義一が賞賛--ミルクの匂いがする

ミルクの匂いがする伝説の美女の名前は「三東ルシア」である。店長は大ファンであった。こんなキュートでエッチな顔の彼女が欲しい、と心から願っていた。残念ながら、学生時代にそのような出会いはなかった---。現実の厳しさやせつなさを思いっきり感じていた大学生であった。もし、「流星ワゴン」が目の前で停車してくれたら、店長は迷わず乗り込み、大学生からもう1度生きてみたいと切に思うのである。そしてミルクの匂いがする「三東ルシア」を探しにいくのだ。

私の病名は---癌です。闘いに行ってきます

人気アナウンサー逸見政孝さん死去(享年48歳)緊急記者会見で残した言葉は最後の言葉になってしまった。記者席から「必ず戻ってきてください!」という激励の声が相次いだ。それから1か月後、手術後の容体が急に悪化。再び還ることはできなかった。局アナ出身だが、その枠を飛び越えて大活躍であった。また、後輩たちの面倒見もよく、誰からも慕われていた。訃報を訊いた友人たちは、取材に応じようにも嗚咽が止まらず、声にもならなかった。この緊急会見は、その前に胃がんを隠して手術しており、病名も癌ではなく「穿孔性十二指腸潰瘍」と公表していたことへの贖罪の気持ちもあった。実際は、胃がんのなかでも恐ろしい胃壁の中に広がる特殊な進行癌であった。そのスキルス胃がん再発転移という末期の重病であった。そのため、この大手術には賛否両論があった。実は逸見政孝は、2歳年下の実弟をこのスキルス癌で亡くしていた。葬儀の模様を伝えたキャスター安藤優子は報道後にたまらず号泣した。また、告別式の間中参列者席で、北野たけしは号泣し続けている。1993年12月25日、この日は芸能・報道界に激震が走った日であった。

全速力で時代を走り抜けた---松田優作

松田優作(享年40歳)すべてが規格外。店長の好きだった俳優であった。死後に彼の出生の秘密が明らかにされている。山口県下関市生まれ。韓国人の母であった。生まれたのは遊郭であったそうな。その母の勧めもあって、叔母夫妻を頼って高校中退、渡米した。米国で弁護士を目指すも断念、帰国後関東学院大学に入学した。文学座研究所から俳優生活をスタート。念願だったハリウッド映画撮影中に膀胱がんに罹っていることを知った。だが、この映画「ブラック・レイン」に生涯を賭けていた。ガンは腰部にも転移していたが、松田は延命治療を拒み、撮影を続けた。撮影中も血尿に悩まされたという。封切り後松田優作の演技が「鬼気迫っていた」と評判を呼んだ。さぞや無念であっただろう。3人の子供を遺して急逝したのだから。この松田優作と水谷豊は親友であった。人気ドラマ「傷だらけの天使」での萩原健一との共演者は柴田恭平で決まっていたが、彼は、水谷豊を推挙していた。これが、水谷豊がブレイクした最初のTVドラマであった。

まさに天国と地獄---坂口良子の生涯

世間に坂口良子の重病が伝えられてから2週間のち彼女は急逝した。享年57歳、早すぎる死であった。さらに事実婚の尾崎健夫と晴れて入籍を果たしたばかりであった。坂口良子が大腸ガンを隠してドラマ出演を続けたのには訳があった。それは前夫が作った40億円の借金である。離婚した前夫は、不動産業者であった。それもバブル期には「地上げの神様」と呼ばれていたらしい。知らないうちに連帯保証人にされていた。貯金もほとんど下されていたという。女優デビューからいきなり主演に抜擢され、下積みというものをまるで知らなかった。幸運な滑り出しであった。そして土地取引で成功していた金満家と結婚する。娘、杏里が生まれ、幸せ一杯胸一杯のはず---であったのだが。バブル崩壊、金融政策の変更もあり(大蔵省による不動産融資の総量規制)不動産業者は存続できないほどに追い詰められたのである。坂口良子は借金を払い続けた。重い病を隠して。人生の前半生で「運」を使い果たしてしまったような転落ぶりであった。尾崎健夫はそんな彼女を支え続けていた。坂口良子の晩年は幸せだっただろうか。そう願いたい。デビュードラマ「アイちゃんが行く」の大フアンであった店長は思う。

亡き友人へ涙のキャンドルサービス---南海ホークス森脇浩司

森脇浩司が披露宴を挙げたのは、1993年のことである。この年に、彼は無二の親友を亡くしていた。その亡き親友を披露宴に招待したのであった。グラスにもビールを注いだ。この光景を見て、周囲の出席者たちは、涙をこらえることはできなかった。親友の名は「津田恒美」炎のストッパーと呼ばれた広島のリリーフエースであった。1992年、津田は体調不良を訴えていた。それは前年からであり、頭痛が治まらなかったのだ。いくら食べても体重が減る。1度詳しい検査が必要と球団は判断した。そして広島大学病院で精密検査が行われた。その結果は恐るべき事態であった。脳内に悪性の腫瘍があり、それも摘出不可能な箇所で見つかったのである。球団は、動揺が広がることを懸念し、本当の病名を伏せて「津田は水頭症のため現役を引退する」と発表した。そして1993年7月20日療養中の済生会福岡総合病院で津田恒美は32歳の短い生涯を閉じたのである。森脇は1987年にカープからホークスにトレードされていた。だが二人の友情は続いた。森脇は療養する津田の面倒をなにくれと見てやっていた。1時津田が奇跡的に回復すると「オレの年棒を半分にしても、恒美が現役復帰できるように、球団(ホークス)に掛けあってやる」と大真面目に言ったそうである。だから結婚披露宴を前にして津田が還らぬ人となってしまったのは、無念以外の何物でもなかった。なお、「最後のストライク」を執筆した晃代夫人は、かなり美人であった。

バブルとともに去りぬ---岡本夏生

岡本夏生はレースクイーン出身である。その魅惑の肢体に世の男性たちは、こぞってK.Oされた。同様の経歴を持つ女優に高島礼子がいる。店長も1度でいいからデートしたいものだ、と思ったことを思い出す。バブルが弾け、世の中が落ち着きを取り戻したころ、岡本夏生もまたTVから姿を消した。本人は、干されてしまった理由を音痴が発覚したからだ、と説明している。実際はどうなのか。こんなうわさがある。事務所が「枕営業」を強制したのを拒絶したからではないか、と。店長は「枕営業」などあってほしくない、と思っている。岡本夏生に言いよってフラれた男が、頭にきてそのような作り話を広めたのではあるまいか。まあ、誰であろうと加齢は避けられない。いまや「ゴキブリ」のCMで見かけるだけである。

罠に堕ちた二岡智宏---残念な野球人生の終わり方

新宿2丁目の飲食店を週刊誌の記者が張っていた。ターゲットは山本モナ---スキャンダル女王である。張っているところに彼女が出てきた。「隣にいるイケ面は?」「おい、あれは巨人の二岡じゃないか」記者は驚いて二人の後を追った。とんだ副産物であった。二人は五反田のラブホテルへと消えていく。このニュースは翌日国内を駆け巡った。二岡は結婚3年目である。山本モナの所属事務所は、男女の仲を否定した。だが、その言い訳を誰ひとり信用しなかった。当然である。山本モナのその時の服装は露出度が高く、お色気100%だったのだから。二岡はその年の暮れ、日本ハムにトレードされた。事実上の追放であった。日ハムでは、もっぱら代打で、出場機会が激減した。打席に入るたびに容赦ないヤジが飛んだという。結局成績を残せないままに、2014年現役引退を表明したのである。危機管理の甘さなど云うまい。しょせん野球選手なのだ。二岡は広島県出身、広陵高校出身であった。彼は逆指名で巨人入りを果たしている。もしこの時広島カープに入団していたら、あるいは独身時代に山本モナと出会って結婚できたかも知れない。山本モナも広島県人である。そして、おそらく正遊撃手として中軸を打ち、大活躍しただろうに。どちらが誘ったのか、二岡には大きな代償ではあった。残念な終わり方であった。

幼児にいたずら---犯人は現役プロ野球選手

世間に衝撃を与えた、前代未聞の不祥事であった。男は大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のエースであった。彼の名は中山裕章。当時の週刊誌に「下半身吠えーるず」という見出しが躍った。事件は91年、横浜市のことであった。いたずらの被害は幼児ばかり。犯人の中山は解雇された。ロリータコンプレックスが昂じて一生を棒に振ってしまった。中山も野球一筋で生きてきて、社会人として身につける常識を学ぶ機会がなかったのだろう。本人は、球団内でのイジメが原因で精神不安定になっていた、などと弁解したようだったが。いささか、その言い訳には無理があるだろう。ロリコンはそれとは無関係のように店長は思う。

五輪男子柔道2連覇---栄光を黒く塗りつぶした絶倫内柴正人

この耳目を集めた破廉恥な事件、世間の男子は誰もが思った。「その精力を1割でも分けて欲しい」と。柔道は腰を鍛えるから性欲が亢進するのか。それとも、この金メダリストが異常なのか。謎である。今回、はっきりしたことがある。それは「国民的ヒーロー」の脳みそは鶏レベルだったということだ。少年時代から天才と騒がれ、柔道一筋で生きてきた。社会的道徳や規範を学ぶ機会は彼にはなかった。タイガーウッズと同じく「性依存症」なのだろう。だから国士舘大学での評判も最悪であった。とにかく、やたらと周囲の女性に手を出した。妊娠・中絶した女子学生もいるという。この時も、酒を限界以上に飲ませて自由を奪い、10代の複数の女性を強姦した。それを「合意の上だ。納得できない」と法廷で云い放った。おそらくそうなのであろう、彼のチキン程度の頭では。結局、準強姦罪で有罪となり、柔道界から追放されてしまった。男子柔道が低迷している今、内柴の度はずれた性欲・破廉恥な振る舞いは、まったく残念でならない。

積み木を崩して家庭も崩れた---穂積隆信一家の悲劇

穂積隆信は俳優であった。バイ・プレーヤーの名優とも云えた。そして彼の人生が一変したのは「積み木くずし」がベストセラーになったからである。講演依頼が殺到し、多忙を極めるようになった。だが、その様子を快く思わない人物がいた。物語のモデル、彼の娘である。娘の名は由香里さん、後にタレントになった。いじめを機に非行に走ったのが13歳。1度は更正したものの、彼女は父親によって自分が晒しものにされたと思い込み、さらに人生は終わったと感じていた。そして、この真実の物語は、悲劇の第2章が始まる。由香里さんは、覚せい剤で2度も逮捕されたのだ。さらに、妻との関係も冷え込み離婚した。穂積隆信は「積み木くずし」を書かなければよかったと嘆くことしきりであった。その後美容師と再婚するが、別れた前妻が首を切って自殺した。さらに由香里さんは腎臓を悪くしてこちらもまた死んでしまった。そして悲劇の第3章が始まる。別れた前妻は遺書をのこしていた。そこには、由香里さんが穂積隆信の娘ではない、と書かれてあったという。さらに再婚した美容師の玲子さんであるが、脳梗塞から高次の脳機能障害に陥ってしまった。なお、前妻はおよそ3億円という多額の印税を手にしていた。それでクラブ経営に乗り出していたが、同棲していた男にお金は持ち去られたらしい。自殺した前妻の手元には残金2万円の通帳があったそうである。突然お金持ちになってしまうと、人生も家庭も崩れていくものなのか。いまやうらめしいベストセラーの「積み木くずし」ではある。

暴君を演じていたが、心は繊細---プロ野球選手「伊良部秀輝」

ロス近郊の自宅で縊死。11年7月27日のことだ。その男性の名は「伊良部秀輝」全盛期には、150㌔台後半のストレートを投げ、打者をきりきり舞いさせていた。その実力を評価され海を渡ったが、思うように成績は伸びなかった。大リーグでも記者団に対する態度は横柄で、良くは書かれなかった。暴君を装っていたが、それは繊細な心を包みこむためであったらしい。現役引退後は「うどん店」を開業するなど精力的に活動した。だが、その「うどん店」と同様に「夫婦仲」も冷え込み、妻子と別居。孤独と不安のなかでの自殺であった。

天才は幸福を意味しない---20歳で終局、天才女流棋士林葉直子

林葉直子、12歳でプロ入り、14歳で初の女流王将になった天才棋士である。現在47歳になる彼女は、末期の肝硬変で療養中である。腹水がたまるというから、長くはもたないと言われている。肝不全に近いそうだ。気の毒である。20歳のとき、その美しい容貌から話題を集め、タレントとしても活躍し、ある意味やんちゃざんまいであった。たとえば中原十六世名人との不倫、そして失踪事件。ヌード写真集発刊、整形豊胸手術と世間を騒がせていた。ストレスから来る暴飲暴食、それがもとで肝臓を壊してしまった。店長は将棋ができない。だから勝負の世界がどれだけ過酷なものなのか理解できない。ただ、これだけは言える。年少で人気者になり、その後の人生を狂わせる人が少なからずいるということ。林葉直子は、父親が残した借金のため自己破産もしているのだ。もし、好きになったのが中原名人ではなく、不倫ではないまともな恋愛をしていたら、中絶したうえに、将棋界から追放されることなどなかったであろうに。肝臓を壊し、命を危うくすることはなかっただろうに。

B型慢性肝炎に”まちぶせ”され、休養を余儀なくされた---石川ひとみ

この歌は昭和の名曲に数えられる。ただ、現在では社会が受け入れないだろうと店長は思う。これは「ストーカー」を励ますような歌だからである。もちろん大ヒットしたし、「まちぶせ」は、名曲には違いない。松任谷由美もカバーしている。にも関わらず、石川ひとみは突然TVから姿を消した。店長はファンだったので心配していた。あとで彼女はB型肝炎を発症し、入院していることを知った。そのブランクはあまりにも大きく、完治して復帰するも、すでにアイドルとしての歌手生命は終わりを告げていたのだ。無念だったろうと思われる。なお、2013年11月30日に、浦和で34年ぶりに彼女のコンサートが開催された。そのキュートな容姿は加齢によって変わってしまったが、歌声に変化はなく、昔と変わらなかったという。当時のアイドルは、みんな歌がうまい。

社会にその「身体的欠陥」をアピール---椿姫彩菜

その容姿に誰もが驚いた。椿姫彩菜である。2冊目の著書には、自画像が表紙に使われた。この顔で男として生きるのは、正直シンドイだろうな、と店長は思った。それは美少年出身の店長にはよく分かる。店長も小学生のころ、周囲のおばさんたちから「女の子なら良かったのに---」と幾度となく聞かされたからである。おそらく彼女(彼)もそうだっただろう。だから深く同情したい。店長が違った点は「ホルモン」が正常であったところだ。椿姫彩菜は、このホルモンに関して「女性ホルモン」が上回っていたそうである。彼がなぜ女の子の服装に関心を寄せていた、あるいは女装好きであったかは、それで説明がつくだろう。母親も悩み、自ら医学文献を調べていたそうだ。彼女(彼)は、晴れて青山学院の女子学生であることが認められた。やがて、戸籍の性別変更が認可された。椿姫彩菜こそ「カルーセル麻紀」の後継者である。先輩のように活躍してほしいものである。

慎之介の母は「ピーター」の大ファン---名前の由来はピーターパン

慎之介とは巨人の阿部慎之介である。母親が「ピーター」の大フアンだったので、この名前を付けたという。だが、当のピーターこと「池畑慎之介」は阪神ファンである。ピーターとは池畑慎之介が長く使っていた芸名である。そして、彼は性同一性障害者ではない。同じくオネエ系タレントの先覚者「カルセール麻紀」は性転換手術を経験している。つまりピーターは「女装タレントの先覚者」なのだ。大阪の出身であるが、家出して六本木のクラブで働いている時にスカウトされた。おそらく彼が女性として生まれていたら、かなりの美人になっていただろうと推測される。中学は名門校「ラサール中学」に入学した。勉強ができたのだろう。また実の父親は「人間国宝、吉村雄輝」であった。上方舞吉村流家元である。家出の原因は、その実父の厳しい指導に嫌気がさしたからである。実力派歌手として活躍していたが、黒沢映画「乱」に道化師役で出演、大評判であった。役者としても非凡の才能があることを世間に知らしめた。

女子高出身ではないです---カルーセル麻紀

性同一性障害という病気がなかったころ、社会の偏見に真っ向から挑み、国内では許されなかった「性転換手術」をモロッコで受けた芸能人がいた。彼女いや彼の名を「カルーセル麻紀」といった。これは、椿姫彩菜「わたし、男子校出身です」が出版されるよりも半世紀も前のことである。カルーセル麻紀は、ユニークなキャラと天性の明るさで、その後バラエティTVで大活躍した。今なら「はるな愛」に相当するだろう。現在では戸籍の変更でさえも認知されているが、当時の社会では到底受け入れることができないことであった。だから眉をひそめる人が多かった。「カルーセル麻紀」を取り巻く環境は、決して穏やかなものではなかった。おそらく人一倍悩み、人一倍苦労したことだろう。「おネエ・タレント」は、彼女が道を切り開いたとも言える。