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「歴史に埋もれた重大事件」第二弾です。冤罪が数多く登場しますが、それは戦後の警察が自白至上主義を基本にしてきたからです。また、終戦直後の混乱期に集中しているのは、飢える国民が大多数だったせいでもあります。

返還前の悪夢---沖縄「伊佐絹子ちゃん誘拐・強姦殺害事件」のやり場のない怒り

沖縄本島中部の北中城村で下校途中の小学5年生「伊佐絹子ちゃん」が誘拐されたのは、1969年2月末のことであった。およそ2週間後に逮捕された若い男は日米混血であった。目撃者の証言が残っているが、「背の高い白人兵がクルマに乗せて連れ去った」というものであった。”繰り返される米軍兵士による婦女暴行”---この報道に沖縄社会が騒然となった。当時の沖縄では、およそすべての”白人”は、米軍兵士か米軍属に見えたのだ。無理もない。まだ、沖縄は米国の占領地であったのだから。その混血児の名は「安田幸行(犯行当時20歳)」の地元の青年だった。沖縄の新聞社は、「犯人は沖縄人だった---」と自嘲交じりに報じている。1971年11月1日に那覇地裁における1審で「無期懲役」の判決が下されている。彼の犯行動機も明らかにされた。それは---沖縄社会への復讐---であった。安田は”日米混血”であったがゆえにいわれなき「差別・抑圧」を受けて成長した。現在でこそ「日米混血児」は、その外見の良さから賞賛される存在であるが、まだ当時では奇異な目で見られる異様な存在であった。長身の彼は、現代では「芸能界」入りが可能であったかもしれない。1972年8月14日の控訴審判決で、1審の量刑が支持された。ここに安田の「無期懲役」が確定する。その後、安田は服役中に精神の不具合を起こし医療刑務所に移されたようである。

昭和34年の禁じられた遊び---火薬を詰めて手製のロケット作りで爆死。

昭和34年、大阪府堺市で手製のロケット実験中に中学2年生が爆死する事件が発生した。この前年、花火がGHQの規制から除外されていた。そして、娯楽用火薬の民間需要が増大する。だが、火薬産業の思惑を超えた「遊び」に熱中したのが中・高生であった。まず流行ったのが「爆竹銃」である。これは、雨傘のパイプに爆竹の火薬をほぐして詰めたもの。これを爆発させて弾丸を発射させた。全国で流行し、爆発事故が相次いでいた。失明や手指を吹き飛ばす事故が多発する。さらに少年たちの危険な火遊びは続く。今度は自作の「ロケット遊び」である。それらが、社会問題に発展しないわけがなかった。父兄や教師は鉄拳を行使した。昭和40年に入ってこの「火遊び」は沈静化していった。---この昭和30年代、物不足が深刻であり、また普通でもあった。だが、日本人の胸に「希望」だけはあった。現代ではどうか。芥川賞作家村上龍いわく「---この国にはあらゆるものが揃っている。だが、無いものが一つだけある。それは希望だ---」

企業モラルが無かった時代---「森永ヒ素ミルク中毒事件」の恐怖

数年前になるが、中国で生産された「毒入り冷凍ギョーザ」が話題をさらったことがある。あの時「中国で作られたものなど一切口にできない」と思った日本人も多いだろう。だが、「森永ヒ素ミルク中毒事件」を引き起こしたのは、紛れもない昭和30年の日本人である。当時の日本には「企業モラル」などはどこにも存在しなかった。現代の中国が、当時のわが国には存在したのだ。何故このような惨事が引き起こされたのか。あろうことか乳児用の粉ミルクに、工業用のヒ素を触媒にして作った化合物を添加物として使用したのだ。乳製品の溶解度を高めるためである。食品の安全性を無視した結果であった。「森永粉ミルク」を呑んだ乳児は全国にいた。ヒ素中毒となった乳児は13,000人にも及んだ。そのうち重体となって死亡した乳児は130人もいる。「森永」は当初過失を認めなかった。昭和45年になって「森永」はようやく過失を認める。世論の高まりに屈した格好であった。日本経済が揺籃期を乗り越え、ひな鳥が羽ばたこうとしていた。利潤追求が大義名分とされ、食の安全は彼方に追いやられていた。この不幸な乳児たちは、重い障害に苦しみ続けたのだ。この年に生まれた人たちは無事であれば還暦を超える。「(貧しかったが)あの頃はよかった---」といって昭和30年代を懐かしむ風潮がある。現在よりも生きにくい時代であるようだ。貧困世帯が大多数であり、犯罪も多かったのである。

1923年9月3日「大逆罪」容疑で逮捕---女性運動家「金子文子」の激烈生涯

彼女は悲惨な幼少時代を過ごしている。1903年横浜市に生まれるが、両親は出生届を出していなかった。理由はよく分からないが、夫婦仲は良くなかった、というより破たんしていた。彼女の父親は家出し、母の妹と同棲した。一方のその母親は、夫とは別の男と不倫を繰り返したという。こんな家庭環境で文子が無事に育っていたとすれば、それこそ奇跡である。文子は就学の機会を奪われてしまう。1912年、見かねた父方の祖母が、文子を養女として迎えたのだ。文子は、韓国に移住する。だが、ここも文子には安住の地ではなかった。虐待とイジメは、むしろ横浜に居た時より酷い物であったという。大正時代が生んだ烈女が「金子文子」である。1920年に帰国した彼女は単独で上京する。彼女は19歳になっていた。そして、運命の男と出会った。無政府主義者(極端な社会主義者)の韓国人「朴烈(ぱくよる)」であった。二人はすぐに恋に堕ち同棲を始めた。「朴烈」は、文子の激しすぎる性格をひときわ愛していた。そして、文子は彼の思想に共鳴していく。やがて二人で無政府主義者の賛同者を組織していった。政治結社「不逞社」を結成したのだ。これこそ、社会運動家「金子文子」の誕生であった。苦難続きの幼少時代は、文子を烈女に変貌させていた。1923年9月3日、「不逞社」に逮捕状が出た。立件されれば「死刑」は免れない「大逆罪」容疑である。厳しい取り調べが始められた。疑いは、皇太子(後の昭和天皇)の結婚式に爆弾を投げつけようとしていたことであった。真相は分からないが、無政府主義者としては、あり得ない話でもあるまい。文子は朴烈とともに「死刑判決」を下された。そのとき、文子は「万歳!」を叫んだという。10日後、天皇恩赦によって「無期懲役刑」に減刑される。だが、文子は減刑を拒否した。それは「朴烈」と同時に死ぬことこそ彼女の願いだったのだ。恩赦から3ヶ月後、文子は首を吊って絶命する。享年23歳の短い生涯であった。不遇をかこっていた少女時代であった。だが、一人の男性を愛しその思想を共にし、死ぬ時まで一緒でありたいと願った「金子文子」は、ここに燃え尽きたのであった。

日本にあった信じられない事件---「大正2年人身売買事件」

この事件は、「従軍慰安婦」でもないし、「北朝鮮工作員」の話でもない。日本で起きた日本人による日本人の誘拐事件である。主犯は46歳の女である。その女が男と組み、若い女性を誘拐して海外に売り飛ばしていた。被害者は、なんと100人以上。殆んどは東南アジアで、当時はイギリス領であったという。働かせていたというが、売春であった。当時の「報知新聞」が伝えている。曰く「その手に罹りて海外に誘拐され、泣く泣く醜業を営み居る婦人百余名に上りたる---」恐るべき現実の事件ではないだろうか。歴史に詳しい方なら、かつて我が国に「人身売買」が行われていた事案を知っていると思う。ずっと昔の、豊臣秀吉政権下である。秀吉は、その「日本人女性の人身売買」を知って怒り心頭に発し「キリシタン禁止令」を発令したという。

昭和30年代、少女を狙った強姦殺人は現在より多かった---「奈良県少女強姦焼殺事件」のおぞましさ

事件は1957年(昭和32年)11月19日に、奈良県北葛城郡で発生した。中学2年生(事件当時13歳)の女子が強姦され焼き殺されたのである。少女は、学校帰りに行方不明となり捜索願いが出されていた。その少女の変わり果てた遺体は、葛城郡の山林で発見された。身体は大部分が白い灰になっており、内臓の1部が燃え残っていたという。当時の模様は、産経新聞大阪版が詳しく報じている。現場に駆けつけた警察は、少女の焼き跡から、大量の被覆電線を発見する。そして、電線窃盗常習犯の一人が殺人容疑者として浮上する。ほどなく30代前半の男が逮捕された。男はアリバイがなかった。警察は彼を落とすために母親を呼んで面会させる。母親の顔を見て男は犯行を自供した。被害に遭ったのは純朴な少女であった。男は電線を盗み出そうと徘徊していた。運悪く少女は男と出くわす。男は「送って行こう」と優しく言葉を掛けた。少女は疑うこともなくついて歩いた。男は、日ごろから少女を冒してみたいという邪心を抱いていた。そして草むらに押し倒して少女の口を塞いだのである。裁判で、男は死刑判決を受けた。窃盗常習犯に加えて、強姦、殺人、死体損壊、遺棄の求刑通り死刑であった。男は絞首台に登った。では、この1957年を俯瞰してみる。何がおきていただろうか。世間を騒がせた、「少年誘拐バラバラ殺人事件」が東京都中野区で起きている。4月2日であった。殺された少年(当時12歳)はホルマリン漬けにされていた。犯人は、その観察日記を書いていたという。少年や少女が犠牲となる凶悪事件は、この年代の方が多かった。

戦後最悪の水難事故---「橋北中学水難事件」は誰の責任だったのか

昭和30年7月28日、その水難事故が発生した。無茶な学校行事が招いた悲劇であった。場所は、三重県津市の中河原海岸である。現在では危険区域として遊泳禁止となっているが、当時は禁止されていなかった。現在の学校教育の現場では、殊更に安全対策に気を使っているが、昭和30年代は酷いものだったようだ。この日、津市市立橋北中学校では海岸で水泳訓練が行われていた。そして、「異常な潮流」が発生する。”津市”だけにおそらく”津波”に襲われたのだろう。海に入っていた女子生徒36人が高波にさらわれ溺死してしまった。その他、13人は助かったが、大けがの生徒もいた。それまで、危険な高波が突然やってくるなど、誰も知らなかった。今では気象観測衛星のおかげで、潮流の急変にも対応できる。そして、大規模な水難事故はこれまで起きていない。裁判では、教師たちは無罪となっている。

高度成長へと日本丸は舵をきった---語り継がれた幼児誘拐「義展ちゃん事件」警察の失態

義展ちゃん(当時4歳)が姿を消したのは、1963年(昭和38年)3月31日午後5時40分過ぎのことであった。場所は東京都台東区入谷南公園。身代金要求の電話があり、犯人逮捕の絶好の機会があった。この時の警察は、歴史に残る大失態を演じてしまう。わずか3分間の捜査員の遅れであったが、結果的に義展ちゃんを救うことが出来なくなった。以後2年と3ヶ月、義展ちゃんの行方は杳として知れなかった。事件直後にそれまでの借金を完済し、アリバイがはっきりしない「小原保(事件当時32歳)」が逮捕される。東北の寒村で生まれた小原は、小学校5年生のとき骨膜炎を患って足が不自由になった。事件はTVドラマ化され、フォーク歌手の「泉谷しげる」が犯人「小原保」役を熱演した。事件は、再捜査の布陣がおかれ、伝説の名刑事「平塚八兵衛」が自供に追い込む。「遺族のもとに義展ちゃんを返してやれ」そして小原の自供通り、義展ちゃんの遺体は、近所の円通寺の墓石の下から見つかったのである。小原は義展ちゃんと円通寺そばの脇道を歩いていた。そのときに住職とすれ違ったが、すでにあたりは暮れなずんでいて、その住職は気が付かなかったらしい。小原は、そのとき義展ちゃんと歩いているところを見られたと思い、とっさに殺害を決意したという。だが、身代金奪取の計画的犯行であった。翌1964年は東京オリンピックが開催された。そして、高度経済成長期に突入する。小原は、借金がたまり、事件の直前には金策のため郷里に帰っている。その里帰りがうまくいっていれば、この営利誘拐事件は発生しなかった。

語り継がれた”冤罪”---知的障害者施設「甲山学園」で起きた不可解事故

二人の入所児童が行方不明になった「甲山事件」。1974年(昭和49年)3月17日であった。場所は兵庫県西宮市、二日後に児童は浄化槽から見つかる。重さ17㌔もあるマンホール蓋は、とうてい12歳の子供に開閉できるわけがない。警察は殺人事件と断定した。外部からの侵入は考えにくく、警察は内部関係者に捜査の的を絞る。4月7日、同学園の22歳の保母「山田悦子さん」が殺人容疑で逮捕される。だが、証拠不十分であった。さらに殺害の動機もなかった。厳しい取り調べは続けられ、山田悦子さんは自供に追い込まれてしまう。そして4年後、検察は起訴にふみ切る。1審では、証拠不十分もあって無罪とされたが、検察は「審理不十分で事実を誤認している」として起訴する。大阪高裁は、1審での判決を破棄、神戸地裁に差し戻したが、1998年3月に地裁は再度無罪とした。そして、この無罪判決を受けて検察は控訴した。翌9月、大阪高裁は、「自白の信用性には疑問を生じさせる」と控訴を棄却する。ここに来て、大阪高検は上訴権を放棄するに至った。逮捕されてから完全無罪までに26年を経過している。最後まで有罪判決は出されなかった。決着まで26年もかかる異例の裁判であった。その長い間に、報道関係者は、山田悦子さんを犯人扱いしてきた。検察は、園児の目撃証言を重要視して起訴に持ち込む。だが、その証言も「先生は(姿を消した)園児と一緒に歩いていた」という、なんともあやふやなものであった。実は1980年に園児の一人が「自分がマンホールのふたを開けた---女児が転落した---山田先生はいなかった---」と話していたらしい。当初、検察が「山田悦子さん」を起訴したときの園児たちの証言は、いかにも一貫性がなく、山田さんには不利になるように利用されたとも云えた。26年後に完全無罪を勝ち取るものの、空しく過ぎ去った年月を取り返すことは不可能である。

大正時代の毒婦は桁外れ---16年間に200人以上を殺害した愛知の「養育費騙し取り事件」

日本にも存在したのだ。超弩級殺人鬼が。海外では時折聞くことがある、この手の大量殺人鬼。驚愕の殺人は愛知県で起きた。明治から大正にかけて、満足に生んだ子供を育てられない親も多かったのだ。それはなんとなく理解できよう。当時の日本社会に「貰い子」の悪しき慣習が残っていた。江戸時代には「間引き」が公然と行われたのだから、一歩進んでいたとも云えるだろう。では、その「貰い子」とは何か。愛知県のその女は、子供を他者に預けるときに支払われる「養育費」に目を付けた。そして私生児を集め始める。もちろん初めから子供たちを育てる気はない。貰い受けるはなっから殺し始めた。大正2年6月の大阪毎日新聞によれば、餓死、圧殺、絞殺、生き埋めなどによって死んだ子は200人を超えるという。---そうなのだ、避妊具がなかったのだ。避妊具が一般に普及していれば、この手の犯罪は起こらなかったと思う。逮捕当時、この鬼は45歳だった。現在に置き換えれば65歳ぐらいだろうか。新聞には連日この事件が取り上げられ、「身も毛もよだつ鬼婆」と形容された。取り調べが進み、女の背後に斡旋業者の一味が存在することが分かった。組織的に「貰い子殺し」が行われていたことになる。

禁じられた”遊び”---幼児たちが乳児をリンチ殺人「幼児赤ん坊惨殺事件」のタブー

おもちゃを壊すかのように生後間もない赤ちゃんを3人の幼児が殺害。1975年(昭和50年)8月18日に起きた信じがたい事件は、鹿児島県出水郡東町で発生した。5歳と3歳の男の子、それに2歳になる女の子が生後18日の乳児をなぶり者にして尊い命を奪ってしまったのだ。事件が大きく報道されることはなかった。事件当日午後3時ごろであった。虫を追っていた3人の幼児たちは1軒の広い庭に迷い込んでしまう。その家の居間には赤ちゃんが昼寝をしていた。遠目にも赤ちゃんが見えた。5歳の男の子は居間に上がり込んだ。そして2人が続いた。赤ん坊の傍らにて、ちょうど手ごろな棒切れが転がっていた。5歳児がそれを手に取り赤ん坊を殴りつけた。彼は云った「---悪い奴を懲らしめるんだ」直接の死因は、この頭部打撲による軟膜下出血であった。5歳児と2歳児は兄妹である。あと一人は従妹である。3人でよく野山を駆け巡って遊んでいた。5歳児には奇妙な癖があったという。よく蛇を捕獲しては口にくわえていたそうである。尋常な幼児ではない。彼は、生後18日の赤ちゃんを玩具にした。それも残忍な方法で。5歳児は台所に忍び込んで包丁を2本見つけた。1本を従妹に持たせる。「---悪い奴を切ってしまうんだ---」幼児たちは赤ん坊の身体を切りつけた。鮮血が布団に飛び散る。生後18日では泣き声さえ出せなかった。5歳児はテレビ番組をマネしていた。この時、彼は西部劇の保安官であった。他の幼児たちは、ただ年長の彼に黙って従った。赤ちゃんを居間から庭に引きずっていく。庭には飼い犬を繋ぐロープがあった。それを使って赤ん坊を洗濯物の物干し台に縛り付けた。ちょうど磔のように。七夕の紙飾りが居間に残っていた。それを磔にした赤ん坊の首に巻き付けた。さらに台所から持ち出した小麦粉を顔に塗りたくった。そうなのだ。彼らは刑事なのであった。そして犠牲になった赤ん坊は磔にされる悪い奴なのであった。そのときである。仕事に出ていた母親が戻ってきた。母親は、血だらけの磔にされている我が子をみて顔面蒼白になった。ショックのあまり声も出なかった。そばに3人の幼児がきょとんとして立ちすくんでいる。二人はその手に血の付いた包丁を持っていた。およそ信じられない光景であった。世間は改めて幼児に与えるテレビ番組の影響について思い知ることになる。いったい、この幼い兄妹はどんな生育環境に置かれていたのだろうか。彼らの母親は美人であったが、精神的な疾患があったようだ。情緒不安定でもあった。そして、どうでもよいことで、この両親はよく喧嘩をした。母親は怒り狂い、しばしば包丁を振り回した。子供たちに暴力を振るい手が付けられなかった。酒におぼれ、男を漁っては浮気をする。気の弱い父親は、美人妻の乱行をどうにもできなかった。父親は、妻の怒り狂う包丁を切り抜けて、やっとの思いで脱出に成功する。これでは、子供たちがまともに成長できるわけがなかった。彼ら3人はあまりにも幼いがゆえに法的に罪を問われることもなかった。その後の報道は一切されなかったので詳しいことは分かっていない。結婚相手を選ぶときに容姿だけで決めてはいけない。また、田舎といえども戸締りをすべき時代なのだと思う。

夫殺しの歴史的汚名---「徳島ラジオ商殺人事件」の濡れ衣

経済的な問題から上告を断念し、あえて夫殺しの汚名をきた内妻は、獄中で無念の死亡。1953年(昭和28年)11月5日の早朝、徳島市内でラジオ商(現在の電器店)を営む夫妻が何者かに襲われた。店主の三枝亀三郎さんが刺殺された。そばで寝ていた内妻の「富士茂子さん」も負傷した。電話線が切断されていた。店外で凶器も見つかっていた。犯人は屋外から侵入したものと思われた。だが、捜査は難航を極めたのである。焦った徳島県警は犯人をでっち上げる。それが内妻であった。この商店には、少年2人が住み込みで働いていた。県警は少年を逮捕した。そして厳しい取り調べが始められる。完全な初動捜査のミスであった。少年たちは、責め立てられ、内妻の犯行だと自供させられる。そして「富士茂子」さんは夫殺しの汚名を着ることになったのだ。1956年の1審で懲役13年が言い渡された。翌年の2審で控訴棄却。茂子さんは、上告しなかった。いや経済的な問題があり出来なかった。理不尽な刑務所生活は、茂子さんから体力も気力も奪い去った。そして1966年に仮出所する。だが、このままでは死んでも死にきれなかった。最後の気力を奮い立たせた茂子さんは再審請求活動を開始する。1979年、茂子さんは病が悪化し死亡、無念だった。その執念は遺族が引き継いだ。1980年に再審が決定する。そして1985年に、遺族は無罪判決を勝ち取ったのである。死後の再審は初めての事例である。1953年2月にNHKの本放送が開始されている。さらにソ連が水素爆弾の実験に成功したのが8月12日であった。

善良な市民が犯人に---自白させれば一件落着「布川事件」の教訓

警察の”自白至上主義”はかくも根が深いのか。間違って逮捕され、運が悪ければ死刑なのだ。取り調べ室では長時間休ませず、神経を参らせて、意識を朦朧とさせられて、自白に持ち込めば警察の勝ちなのだ。事件は1967年(昭和42年)8月30日に起きた。現場は、茨城県利根町布川の住宅である。建築業の「玉村象天さん」が部屋で絞殺され、遺体となって発見された。室内は荒らされ、財布などがなくなっていた。現場付近で、住宅を物色する不審な二人組が目撃されていた。警察では、犯人をその二人組と決めつけ逮捕に全力を上げた。近所に住む「桜井昌司」さんと「杉山卓男」さんである。身に覚えのない彼らは別件逮捕された。この「別件逮捕」というのは冤罪の定番である。証拠がないのにもかかわらず彼らに待っていたものは、長時間の厳しい取り調べであった。そうして二人は次第に衰弱していく。「---どうだ?やったんだろう。吐け!そうすれば楽になるぞ---」朦朧する意識のなかで正常な感覚がマヒしていく。ついに自白を誘導されてしまう。当然公判では全面否認している。1970年の1審で二人に「無期懲役」が言い渡される。1973年2審で控訴棄却される。そして1973年の最高裁は上告棄却。彼らの「無期懲役刑」が確定してしまった。二人は千葉刑務所に収監された。1996年に仮釈放されるまで不自由に耐え抜いた。2009年に再審開始。苦難は続いた。2011年であった。逮捕から実に44年ぶりのことであった。晴れて無罪を勝ち取ったのだ。信憑性のない目撃証言、追い込められ誘導された自白が白日にさらされた。奪われた44年の月日は2度と戻らない。この時代を俯瞰してみよう。この昭和42年に日本の人口が1億人を超えた。日本航空が世界1周線営業を開始した。米国人力士「高見山」が初の関取になったのが3月4日であった。翌年、昭和43年には、東京五輪マラソン銅メダリストの「円谷幸吉」選手が自衛隊宿舎で自殺した。日本で初めての心臓移植手術が8月9日に札幌医科大学で行われた。また、同様に未解決事件として現在でも語り継がれている「三億円事件」が12月10日に発生している。

わが国は、いまだ闇市状態にあり---作・演出は警察当局、冤罪「免田事件」の恐怖

終戦から3年経った1948年(昭和23年)の年末12月29日である。熊本県人吉市北泉田町で祈禱師一家が何者かに襲われた。夫婦が殺害され、中学生の姉妹が重傷を負った。犯人は軍服姿であった。夫婦はナタで滅多打ちにされていた。この無残な犯行で逮捕されたのが「免田栄さん」(事件当時23歳)である。免田さんには、犯行当日のアリバイがあった。だがそれは無視された。犯行に使われたのがナタである。免田さんは植林の仕事に従事していたのでナタは商売道具である。持ち歩くこともあっただろう。警察は「免田栄さん」を別件逮捕し、苛烈な取り調べを行った。その間、横になって眠ることも許されず、何度も怒鳴られ、殴りつけられた。意識が朦朧となる中で「--私がやりました」と、自白を強要された。事件に関わる証拠は何もなかった。裁判では、免田さんは1審2審とも容疑を否認する。だが、1951年12月25日、最高裁で「死刑判決」が確定してしまった。しかし、免田栄さんは、第6次に及ぶ再審請求で、終に無罪を勝ち取ったのだ。事件発生から34年が経っていた。それまで死刑囚が再審で無罪となった例はなく、それは裁判史上初めてことであった。終戦後の人吉市内は闇市で賑わっていたという。犯人は軍服姿というから復員兵の可能性が高い。ようやく無罪を勝ち取った「免田栄さん」に、いわれなき非難がその後も続いたという。では、1948年は、いったいどんな年だったのだろう。この12月23日、東条英機ら7人が極東軍事裁判で絞首刑に処されている。1月26日に、冤罪濃厚で有名な「帝銀毒殺事件」が発生している。6月には、昭和電工疑獄事件が起きた。さらに太宰治が玉川上水で愛人と入水自殺を遂げた。喰えない絶望と新しい民主主義に希望を見出した複雑な世相が胎動していた。固陋な警察組織以外では---

いまだに語り継がれる権力の犯罪---「弘前大学教授夫人殺人事件」の暗闇

1949年(昭和24年)8月6日夜10時頃、青森県弘前市において、弘前大学医学部「松永藤雄教授」夫人のすず子さん(事件当時30歳)が殺害された。母親の目撃情報から、近所に住む「那須隆」氏(事件当時25歳)が逮捕された。取り調べは苛烈さを極めた。殆んど拷問であったらしい。当時の血痕鑑定などの科学捜査はとても精度が低く、到底信用出来るものではなかった。那須氏には全く身に覚えのない事件であった。物証はなく、青森地裁弘前支部では、証拠不十分で無罪判決を言い渡した。だが喜んだのはここまで。控訴審判決で、那須隆氏に懲役15年の刑が下ってしまった。1953年2月29日、最高裁への上告棄却。懲役15年の刑が確定する。那須氏は10年服役し、1963年1月に仮出所。そして、1971年読売新聞に驚愕のスクープ記事が載る。なんと、真犯人が名乗り出たのである。那須隆氏の幼馴染、「滝谷福松」であった。1977年、再審が始まった。有罪の決め手は血痕の付着であったが、それは警察による捏造であったことが立証される。1977年2月15日、仙台高裁は「無実」を言い渡す。那須隆氏は冤罪を晴らすことに成功したのだ。「滝谷福松」は、窃盗の罪で服役中であった。なぜ彼は名乗り出る気になったのか。それは、服役中に「三島由紀夫」自衛隊割腹事件を報道で知り、大いに衝撃を受けたからである。「滝谷福松」は思った。「--なんて素晴らしい生き様だろうか、オレもああなりたいものだ--」晴れて無罪を勝ち取ったものの、那須隆氏の10年は還ってこない。彼は、国家賠償請求を求めて裁判を起こす。だが不幸にもこれに敗訴した。警察が犯人と決めつけ証拠を捏造する。権力の横暴とはいえ無茶すぎる。いったい正義はどこにあるのだろうか。現在では、警察が証拠を捏造することなど決してない、と思いたい。この昭和24年に一体どんな事件が他に起きているのだろう。ざっと見ておきたい。湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞している。また、現役東大生による街金「光クラブ」が経営破たんし、経営者が服毒自殺を遂げている。

かつて日本は米国の植民地であった---闇に葬られた「ジラード事件」の屈辱

群馬県相馬が原の在日米軍演習地でその事件は起きた。日本人主婦が米兵に射殺されたのだ。1957年(昭和32年)1月30日である。それは、日本国民が物言えぬ敗戦国の悲哀を痛切に感じた日であった。「米兵許すまじ!」の大合唱は社会現象になった。演習地内は当然立ち入り禁止であった。では、主婦はなぜ演習地に立ち入ったのか。目当ては米軍が演習で使うライフル銃である。その「薬きょう」は演習地内には夥しく落ちていた。それを拾い集めて屑鉄業者に引き取ってもらう。生活費の足しになった。だから周辺の主婦たちには大事な空薬きょうであった。この日も犠牲者の「坂井なかさん」は空薬きょうを拾い集めていた。その日本人を苦々しく思う米兵がいた。「ウイリアム.S.ジラード」3等兵である。彼は酒癖が悪かった。それに借金だらけであった。米軍兵士仲間にも疎んじられていたという。ジラードは自分のライフルに空の薬きょうを装填した。そして、坂井さんに声をかけて安心させた。「---ママさん大丈夫--」そう言っておいて、坂井さんの背中に向けて発砲したのだ。坂井さんは即死であった。なんて卑怯な兵士であろうか。武器も持たない日本人を、それも背中から撃つとは。人として許せないと思う。米国は、この事件を「故意ではない、事故だった」と強弁した。さらに日本での裁判を認めようとしなかったそうだ。ところがジラードの同僚が目撃していて証言した。「---彼は日本人を射殺した」そして、とうとう米国はジラードを日本の法廷に差し出した。庇いきれなくなったのである。だが「殺人罪」で彼が裁かれることはなかった。「坂井なかさん」は、あくまで事故死とされてしまう。ジラードに下された判決は傷害致死罪であった。懲役3年、しかも執行猶予付きである。これでは実質無罪にも等しかった。1991年、米国政府と日本政府の間で、この裁判を巡って密約があったことが明らかにされている。日本での裁判は、できるだけ減刑することが法廷を開く条件であった。1957年(昭和32年)、この年にソ連(現在のロシア)が初めて人工衛星打ち上げに成功している。これより米ソの軍事的対立が続いていくことになる。さらに敗戦国日本は、米国の属国化するのだ。

四大死刑冤罪事件の一つとされる「財田川事件」---逮捕された無関係の”不良少年”の理不尽

身に覚えは無かったが、理不尽にも逮捕されたのは、地元で怖れられていた札付きの不良二人組であった。一人はアリバイ成立で釈放となったが、もう一人は曖昧であったため厳しい取り調べを受けた。まるで拷問だったという。1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現・三豊市)で、闇米ブローカーの男性が強盗に襲われる事件が発生する。被害男性(事件当時68歳)は、全身を30ヶ所以上も刺され死亡。現金を奪われた。不幸にも2ヶ月にもわたって拷問を受けたのが「谷口繁義(当時19歳)」であった。彼は耐え切れなくなって自白してしまう。1957年に死刑が確定する。谷口繫義氏は諦めなかった。判決の決め手となったズボンに付着していた血痕について再鑑定を要請する手紙を高松地裁に出したのだ。この手紙は5年後に偶然「矢野伊吉裁判官」の目に留まる。この時点で、矢野氏は命の恩人かも知れなかった。事実、矢野氏は判事を辞任し、再審請求活動のために弁護士になる。その「矢野弁護士」は事件当時の証拠品を精査し、調書を丹念に検証していった。そして、恐るべきことに、それらが警察の捏造であることを突き止める。こうして1979年に再審が始められ、ついに1984年に無罪判決を勝ち取ったのである。事件が起きた1950年(昭和25年)とはどんな時代だったのだろう。6月25日に朝鮮戦争勃発、米国は危機感を強く抱き、後に自衛隊となる「警察予備隊」を発足させる。7月2日に、放火で金閣寺が焼失する。なお、朝鮮戦争は特需を招き産業復興に好影響を与えた。経済成長が始まるのである。だが、空腹に堪り兼ねて悪事を犯す若者も多くいたのだ。