かつて世間を騒然とさせた重大事件がありました。防ぐ手立てはなかったのか、オカルト、凶悪、特殊詐欺、児童誘拐、連続レイプ事件などを取り上げてみたいと思います。他のコンテンツとかぶることもあるかと思いますが、違う視点で発掘、論考を加えてみます。ここでは「冤罪」が数多く登場してきます。警察の取り調べとは「拷問」と同義語であった時代がありました。代表的な事例を検証してみます。

また、このコラムは「覚えておきたい最近の犯罪」と共有していることがあります。

朝日新聞の大スクープ---「暁に祈る事件」日本兵の抑留中に収容所で発生したリンチ事件。別名「吉村隊事件」ともいう

これは、日本兵モンゴル収容所で起きたとされるリンチ事件である。スクープを朝日新聞が報じ、国民の知るところとなった。いわゆる「暁に祈る事件」である。1949年3月、ソ連軍から捕虜隊長に任じられた「池田重善元曹長」は、収容所で作業ノルマをこなせなかった捕虜を明け方まで木に縛り付けて何も食わせずに放置し、多数を殺害したという。捕虜は瀕死状態でうなだれて木に縛られていて、その姿があたかも「暁に祈る」ような姿であったことから命名されたものだ。「池田重善」は帰国後に出頭した。そして元捕虜だった人に告発され逮捕・起訴された。1954年4月28日、控訴審判決で彼に懲役3年の実刑判決が下された。彼は模範囚であったらしい。だが、この事件には謎が多い。彼は無実を訴え、再審請求も行っている。当時の朝日新聞には、池田の行為は冷酷な悪魔の所業として過大に書かれていた。それらの記事は捏造だった可能性が高いそうである。では、記事を覗いてみよう。「---極寒の収容所屋外に半裸で吊るした」「過酷な作業を命じていた」「作業が遅れた者に食事を与えなかった---」この捕虜仲間に加えられたリンチ殺人は、永田洋子の「連合赤軍山岳ベース事件」を思わせる。池田重善を主犯とする確たる証拠はなかった。彼は、戦後一貫して、無実を主張している。朝日の記事は捏造だったとしても、池田重善が仲間の生命よりも、自分自身の立場を優位にするために過剰な労働を強いていたのは事実らしい。この事件は、そのロマンティックなネーミングに隠れてなかなか真実が見えてこないが、戦時下の不条理な情況を教えてくれる。また、ユダヤ人収容所においても似たような看守の虐待が報告されている。人間とは、なんと”業”が深いものだろうか。

現在は尾道市に編入されている因島市---島民を恐慌に陥れた「因島毒饅頭一家不審死事件」の奇々怪々

それは、昭和36年1月半ばのことであった。事件は、しまなみ海道の中心、広島県因島市(現在では尾道市)で1本の怪電話が検察庁にかかってきた。「重井町の家族が4年前から次々になくなっている。何かおかしい---しらべてほしい」、それは検察への密告電話であった。その電話を受けて広島県警と因島警察署の合同捜査本部が設置され、極秘捜査が開始された。その結果、恐るべき事実が明らかになる。昭和32年1月からその一家4人が不審死を遂げていた。1月8日には、当時4歳の少女が農薬を塗られた饅頭を食べて死んでいた。そして当家の次男と父親が逮捕された。次男は犯行を認めた。自白によると、次男は財産を独り占めにするため長男夫婦を殺害、さらに食い扶持を減らすために、生後間もない自分の娘たちを殺したという。広島地裁尾道支部では、次男に懲役15年を言い渡す。ところが昭和49年12月10日、広島高裁は一転無罪とした。それは、饅頭に塗った有機リン材系殺虫剤の入手経路に矛盾があったこと、自白の信憑性に疑問が残ることなどがその理由であった。密告電話は地元で黒い噂が広がっていた頃である。結局、冤罪が囁かれたまま未解決事件になってしまった。

五つに散った轢死体---初代国鉄総裁「下山定則」氏の苦悩と深淵

常磐線綾瀬駅近郊の線路上で、列車に轢かれて肉片が飛び散った無残な遺体が見つかった。1949年(昭和24年)7月6日である。不幸な遺体は「下山定則」国鉄総裁と判明した。警察は自殺と判断した。だが、それ以後、自殺説および他殺説と入り乱れ、今日まで戦後最大の未解決事件と云われる。この年、6月1日に国鉄は公共企業体として新発足した。当時の運輸次官「下山定則」氏が初代総裁として就任した。当時GHQの統治下にあった日本では、ある心配が膨らみつつあった。それは、国鉄全体の「左傾化=共産化」であった。--国鉄労組を何とかしなければ、将来に大変な禍根を残すことになる--「下山定則」に与えられた任務は、約60万人の国鉄労働者の内9万5000人の首切りであった。この方針に国鉄労組は猛反対する。各地でストが相次いだ。この状況に下山総裁は心を痛めた。10万人近い鉄道労働者の職業を奪ってしまうのだ。そもそも国鉄が過剰人員を抱えたのには訳があった。それは敗戦と内地への兵隊の帰還である。これら無事に帰ってきた元兵士を大量雇用した結果であった。だが、労組は共産党の巣窟になっていた。GHQは大いに心配した。その意向を受けて、下山総裁は首切りを決断した。彼は精神的に追い詰められていた。だから自殺の理由には事欠かなかった。政府サイドでは、吉田内閣の増田官房長官がいち早く「他殺と推定される---」と発表した。犯行が共産党員(あるいは労組関係者)であったなら、政府にとっても都合が良かったからである。昭和25年に、警視庁の「極秘捜査資料」を共同通信記者が暴露した。自殺の線が濃厚な内容だったという。そして、そのスクープをきっかけにして自殺・他殺論争がより白熱化してしまう。松本清張は、GHQ陰謀論を展開している。いずれにせよ、事件の真相も総裁の遺体とともに四散してしまった。

出国した疑惑のベルギー人宣教師---黒い福音「BOACスチュワーデス殺人事件」の迷路

松本清張の長編推理小説のモデルになった殺人事件が起きたのは、1959年(昭和34年)3月10日である。杉並区の善福寺川で女性の遺体が発見される。女性は英国系航空会社BOACのスチュワーデス(事件当時27歳)であった。当時は女性の花形職業で、憧れる人が多かった。云わばセレブな職業であった。女性は「武川知子さん」、事件当時27歳であった。彼女は前年12月に採用試験に合格したばかりである。代々木にあるフィリピン・パブに外国人と出入りしているところをしばしば目撃されていた。捜査に浮かび上がったのは、ベルギー人の神父「ベルメルシュ」だった。警察は、重要参考人として聴取を始めた。だが、言葉の壁もあり、容易に進展しなかった。そして、この神父は6回目の出頭要請直後に出国してしまった。事件は、様々な憶測を呼び、週刊誌は競争で書き立てていた。被害女性は司法解剖され、体内から精液が検出されていたが、当時はまだDNA鑑定ができなかった。「ベルメルシュ」は肉体関係を最後まで否定した。昭和34年と云えば、講和条約締結から7年足らず、国内にいる外国人はいまだ特権的身分にあった。神父の国外脱出は、罪を逃れるためではないかと推測された。国会でも問題視されたそうだ。現在に語り継がれる疑惑は、神父が関係していた「ドン・ボスコ社」--カトリック教「サレジオ会」の布教組織--ここで繰り広げられた違法な闇取引である。殺された「武川知子さん」は、違法な「統制物資」の運び屋として働かされ、それに抵抗したために命を奪われたという推理が成り立つのだ。彼女は、BOACスチュワーデスになる以前は、カトリック信者の看護師であった。彼女が住み込みで勤務していたのが「聖オデリア・ホーム乳児院」である。ここで「ベルメルシュ神父」(当時38歳)と知り合った。彼は、よく女性の体を触ったりする不良神父であった。このセクハラ神父には、もう一つの顔があった。「ドン・ボスコ社」の副社長だ。会計主任を兼ねていた。日本での布教には相当な資金が必要だ。彼は、資金調達に香港を経由して「麻薬」を密輸した。さらに「闇ドル」である。当時は為替取引は国の許諾が無ければできなかった。当時のレートは1ドル=360円の固定である。それを「闇ドル」を流し、1ドル400円で売りさばいた。この不当な利益は巨額であったらしい。これらの「横流し」には密輸が必要であった。「武川知子さん」は、ある日、自分が密輸に加担していることを知ったのだろう。性交後に衣服を整えて、神父をなじったのに違いない。だから善福寺川で発見されたとき着衣の乱れが無かったのだ。だが、1974年(昭和49年)に時効となってしまった。

戦後すぐ世間を震撼させた---「築地八宝亭事件」の悪夢

築地の中華料理店「八宝亭」の一家4人が殺されたのは、昭和26年2月22日であった。俄かに信じがたい残忍な犯行に世間は騒然となった。1階6畳間で、主人の「岩本一郎氏(事件当時48歳)」その妻「きみさん(同45歳)」それに長男「元くん(同11歳)」長女「紀子ちゃん(同10歳)」の家族4人が、薪割りで頭部を割られて死んでいた。部屋は血の海と化し、死臭が漂っていた。犠牲になった一家は、すべて頭に薪割りを何十回となく振り下ろされて絶命したらしい。奪われたものは各種の貯金通帳であった。この残虐な事件現場は、最近の事件「世田谷一家殺人事件」を想起させる。家族構成や家族の年齢がよく似ている。容疑者は、第一発見者「山口常雄(当時25歳)」であった。彼はこの中華料理店の店員で、2階で寝ていたという。この容疑者は進んで捜査に協力していた。侵入したと彼が主張する不審な男の似顔絵作成などに積極的に協力したという。迷宮入りかと囁かれた矢先、盗まれていた通帳を持って銀行に現れた女が警察に捕まった。「山口常雄」にとって万事休すであった。彼は観念する。翌日、隠し持っていた青酸カリで自殺した。この時代、何があったのだろう。俯瞰してみよう。9月8日に「日米安全保障条約」が調印された。この前年1950年6月25日朝鮮戦争が勃発した。そして8月に「警察予備隊令」が公布される。朝鮮戦争激化に伴い、これが現在の「自衛隊」となった。事件に戻ろう。不審な男がいた、というのは「山口常雄」の捏造である。可愛がっていた子供たちをも薪割りで殴り殺すというおぞましい凶行。常人にはとうてい理解ができない。彼は雇い主を恨んいたのだろうか。窃盗よりも殺人こそ主目的だったと思われる。

日米開戦直前の真夏の殺意---浜松「聾唖少年連続殺人事件」の驚愕

浜松を震撼させた未曾有の大量殺人が起きたのは、1941年(昭和16年)8月18日である。日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃するのは同年12月8日未明のことである。特殊な戦時下にあって、地元はともかく、全国紙では大きなニュースとして扱われなかった。そのためこの事件に関しては謎が多い。犯人の少年は「中村誠策」。生まれつきの聴覚障害者であった。当時は浜名郡北浜村・小野口村・積志村と云い、現在の浜松市東区から浜北区である。聴覚障害のため、うまく話すことができなかった。さらに情感の欠如が見られ、他人を思いやる人間性も育っていなかったようだ。孤独な彼は、心を開くことができなかったらしい。家族は、彼が泣いているところを見たことが無かったそうだ。そして、刺し身包丁を手にしてこの田園地帯を駆け抜けてしまう。これが聾唖者の少年「中村誠策」である。少年は昭和13年8月22日に最初の犯罪に手を染めている。当時16歳の誠策は、芸妓置屋「武蔵屋」に忍び込む。そこで寝ていた女将(38歳)と芸妓(31歳)を刺して逃走した。この事件は、容疑者が特定されないまま迷宮化してしまった。さらに3年後、彼は再び芸妓屋を襲った。浜松駅近郊の「和香松」である。20歳の二人の芸妓が刺され一人が死亡する。そして二日後、今度は料理店に襲い掛かった。小松駅前の「菊水」である。女将ほか女中と雇人3名が刺殺された。それから1ヶ月後の9月27日には、自分の家族に襲い掛かっている。彼は、外部からの「何者か」の侵入を偽装した。そして兄(27歳)を殺害、兄の嫁、父や母それに姉を襲った。彼は家族に”復讐”した後で熟睡を決め込み、警察の調べには「何も聞こえないし何も覚えていない」と難聴を訴えて乗り切っている。そして1年後、彼は20歳になっていた。松木駅で一人の少女に目を付けた。彼はその少女を尾行して家を突き止める。強姦する目的で侵入、家族4人を殺害した。だが、この犯行時の遺留品が決めてになってついに逮捕される。こうして彼の”復讐劇”はやっと幕を閉じた。獄中で自供した事件を合わせると11人が犠牲になっている。連続17人も刺されたのだ。彼は取り調べで「---胸を刺した時の感触や吹き上げる血しぶきを見て興奮した---」などとと供述している。希代の殺人鬼「中村誠策」は、どのように育ってきたのだろうか。長兄を除いては家族も冷たく邪魔者扱いだった。彼に人間らしい心が育まれなかったのは、周囲の家族に原因があると店長は思うのだ。「中村誠策」には死刑の判決が下され間もなく執行されている。

なんとも”凄惨”な青酸入りコーラ放置事件---関係者不可解なガス自殺「青酸入りコーラ殺人事件」のてん末

この事件は、未解決のまま時効が成立している。誰が何のために行ったのか。最初の犠牲者は16歳の高校生である。1977年(昭和52年)1月4日であった。場所は東京・品川、電話ボックス内に置かれていたコーラ(封がしてあった)をバイト帰りの男子高校生が寮に持ち帰った。帰宅してくつろいでそのコーラを口にした。高校生は、おかしな味だとすぐに吐き出したのだが、間もなく意識を失った。病院に救急搬送されたが間に合わなかった。翌朝、今度はその電話ボックスからおよそ600㍍先で中年ホームレスが倒れていた。コーラの空き瓶が転がっていた。さらに付近の赤電話の横に放置コーラが見つかったのだ。いずれも青酸化合物が混入していた。この事件が報じられるや世間に動揺が走った。コカ・コーラの売れ行きが悪くなった。様々な憶測が拡がる。競合他社か、株式関係者か、手掛かりはなく、犯人は闇に消えてしまった。(この項は執筆中です)

元・子爵令嬢の不可解な犯罪---射殺された日商岩井(現社名:双日)の社員

惨劇の舞台は元麻布の高級マンションであった。1973年(昭和48年)もあわただしい年の瀬、散弾銃が男性の顔に発せられたのだ。撃たれた男性(事件当時34歳)は、総合商社「日商岩井(現:双日)」の有能な社員である。一般の人には入手しにくい「レミントン散弾銃」の引き金を引いたのは、子爵令嬢「綾小路章子(事件当時46歳)」である。不可解というのは、現場にはもう一人の男性(当時29歳)がいた。詳細は分かっていないが、この男性社員(29歳)と令嬢は恋仲であるが、それが男性の方から別れ話が出てもめていたらしい。撃たれた社員は、この痴話喧嘩の仲裁に入っていたと見られている。なぜ別れ話になったのかと云えば、男性側に結婚話が出ていたのである。犯人の令嬢は昭和2年生まれ、戦後の昭和22年に二十歳になった。やがて大手食品メーカーの御曹司と結婚し2児を設けたが、その4年後に協議離婚した。令嬢は、家事や育児に熱心ではなかったようだ。おまけに美人ときている。この時代、「嫁入り」とは「女を捨てること」でもあった。令嬢にそれを求めても無理だったようであった。事件後、令嬢が、この29歳の商社マンに結婚を迫っていた、との憶測も囁かれたが、否定する関係者もいたらしい。この昭和48年は、オイルショックが始まり、「トイレットペーパー」がスーパー店頭から消えてしまった。省エネという言葉が流行り技術革新が驚異的に進んだのは、このオイルショックの副産物である。さて、話を事件に戻す。令嬢は昭和43年に日本橋に豪華な雀荘を開店する。もっぱら日商岩井の社員が利用した。やがて赤坂に移転したのは、日商岩井の本社が赤坂に移転したからである。この綾小路令嬢が経営する雀荘は、まるで”日商岩井別館”のような景観を呈していたという。

ここから店長の邪推であるが、令嬢は「日商岩井」と縁を切りたがっていたらしい。この日、元麻布のマンションに集まっていた3人は、抜き差しならない三角関係に陥っていたのではないだろうか。いずれにせよ「藪の中」である。

戦後の混乱が続く昭和22年の冤罪---兄の身代わりに処刑台に立つ弟

こんなことが現実にあるものだろうか。1947年(昭和22年)5月23日の夜、借金の返済に困っていた兄弟が農家へ押し入った。場所は、兵庫県赤穂郡矢野村(現・相生市矢野町)である。この家の夫婦が斧で殴り殺され、衣類57点を奪われた。昭和22年の時代背景を見ておくと、敗戦から3年目であった。4月から新学制による小・中学校教育が開始された。9月には「東京ブギウギ」が大ヒットを記録している。食料・生活物資の不足は目を覆いたくなる程であった。それは豊かな現在の日本人には想像もつかない。強盗に押し入って主に衣類が奪われたのはそのためである。なお前年、食料をエサに8人の女性を強姦、殺害した「小平義雄」が逮捕されている。後に死刑判決を受ける弟「古川高志」(事件当時20歳)は兄「古川時夫」(当時29歳)に犯行に誘われて従ったという。家に侵入して、弟が窓際に身を寄せていると、物音に驚いた夫婦が叫び声を上げた。兄は斧で襲い掛かった。無残な光景が広がった。そして「早く斧を捨ててこい」と兄は弟に命じる。弟が斧を便所に打ち捨てて引き帰すと、兄は衣類をリュックに詰めていた。兄弟は、ほどなく兵庫県相生署に逮捕される。弟「高志」は、夫婦を殺したのは兄ではない、自分だ!と言い放っている。死刑執行に立ち会った神父は、兄弟の姉から事件の真相を聞いた。「高志」には窃盗歴があり身体も弱かった。一方の「時夫」には妻子もあった。そのため「高志」は兄の「時夫」を庇って自分が殺ったと主張したものだという。だが、死刑執行まで平坦な道だったわけではなかった。兄弟の双方に「恐怖と後悔」が頭をもたげて来たのである。弟だけが死刑判決である。兄は無期懲役であった。「時夫」は弟に申し訳ない気持で一杯になった。「---殺ったのはオレなのに---」一方の「高志」を「死への恐怖」が襲ってきた。思い余って彼は控訴する。「真犯人は兄である」と初めて主張した。だが、今さらどうしようもなかった。控訴審が開かれ「時夫」が出廷した。だが「時夫」は明言しなかった。いやできなかった。ただ小さな声で顔を伏せたまま「弟が殺しました」と云った。もとより兄の「時夫」が殺したという新たな証拠が出てきたわけではない。もう弟の「高志」には逃げ場がなかった。さらに上告して主張を繰り返したが棄却されてしまう。ここに刑が確定する。「時夫」は、その後受刑中の神戸刑務所で「---本当に殺ったのはオレだ。弟に罪を被せてしまった。---なんて悪い奴だろう---このオレは」と幾度となく繰り言を云ったらしい。

法曹史に汚点を残した恐るべき「冤罪」---偽りの証言が無実の人を罪人にした

山口県熊毛郡麻郷村八海は、現在では田布施町になっている。この町の住宅で夫婦の遺体が発見された。1951年1月24日であった。旧町名から、この事件を「八海事件」と呼んでいる。夫婦が殺された室内から犯人とおぼしき指紋が検出された。そして近所に住む「吉岡晃」が殺人容疑で逮捕された。取調室での「拷問」に耐え切れず、彼は偽りの証言をする。知り合いの名前を「共犯者」として上げてしまう。それが「阿藤周平」氏ら4名であった。彼らにはまったく身に覚えのないことであった。殺害現場は一見したところ、夫婦喧嘩が原因のように偽装されていた。その様子から複数の犯行と考えていた警察は、「吉岡晃」に迫った。「犯行仲間の名前を白状しろ!云えば罪を軽くしてやる」と。「吉岡晃」は、仕方なく知人の名前を出してしまう。「阿藤周平」氏らを待ち受けていたのが「拷問」であった。彼らも耐え切れず「自白」してしまう。公判では「吉岡晃」以外は無実を訴えた。しかし全員が有罪であった。しかも「阿藤周平」氏には死刑判決が下された。逆に「吉岡晃」は無期懲役となった。彼は控訴しなかった。無実の4人は最高裁まで上告した。そして2度の差し戻し審が行われる。死刑と無罪の両極端な判決が下されている。さらに1968年3度目の最高裁で被告4人の全員「無罪」が確定した。彼ら4名の被告は、無実を勝ち取るまでに7度も判決を受けている。「自白」こそが動かしがたい「証拠」とされていたのである。

語り継がれるこれぞ冤罪「島田事件」---冤罪が晴れたのは35年後のことであった。

静岡県島田市で発生した幼児絞殺事件。1954年3月10日のことであった。市内の幼稚園に通う園児が2日後に絞殺遺体で発見された。目撃証言が複数寄せられたが逮捕には至らなかった。警察は威信をかけて捜査に当たった。事件後、200人以上が取り調べを受けている。だが犯人検挙には至らなかった。そうして5月下旬に「赤堀政夫」氏が逮捕された。彼は軽度の知的障害者であった。さらに彼には窃盗の前科があった。取調室では激しい暴行が行われたようだ。この頃、警察は自白優先主義であった。当然取り調べは苛烈を極めた。「赤堀政夫」氏は暴行に耐え切れずついに自白した。もちろん公判では無罪を主張している。1958年1審で死刑判決が下される。幼児は、ただ首を絞められたのではないそうである。当時の報道では「なぶり殺し」「鬼畜の所業」といった文字が躍った。これらの所業が極刑をよんだらしい。さらに2年後の控訴審でも1審が支持され、上告の最高裁でも結果は変わらなかった。彼は4度の再審請求を試みた。そして1986年再審請求が認められた。ここにきてようやく殺害方法の再鑑定が行われたのである。それこそ死刑の根拠となった鑑定である。結局鑑定に問題ありと判断され、静岡地裁へ審理差し戻しとなった。1989年、逮捕から35年後に「赤堀政夫」氏は無罪となった。彼が逮捕されてから捜査も打ち切られていた。それこそ、この事件は、正しく「冤罪」であったことを物語っている。それは、この時点で「真犯人」が見つかって欲しくはなかったのではないだろうか。

「毎日花壇」を清らかに美しい短歌で飾った死刑囚---死刑執行前夜に最後の投稿

この歌人の名を覚えて欲しい。「島秋人」昭和42年11月2日没。享年33歳であった。「島秋人」本名は中村覚といった。敗戦後、一家は命からがら満州から帰還した。その新潟県柏崎市で極貧の生活をスタートする。彼が、死刑宣告を受けるような重罪を犯したのは、「自殺願望」が原因である。後に友人への手紙に書いている。「---もう少し、家がせめてもう少し貧乏では無かったなら、もう少し、丈夫な(身体)であったなら---」と。幼児期に罹った脳膜炎の影響もあり、小学校時代から成績がさえず、身なりもさえず、低能児扱いをされている。さらに終戦後の多くの日本人が飢えと病に苦しんだ時代である。「生い立ち不幸」とは、彼のことではないだろうか。彼は病気の卸売りのようでもあった。脳膜炎に始まり、結核、肺炎、カリエスと続く。そのせいか、ひ弱であり泣き虫であり、のろま、と叱られていた。14歳のとき肺結核で長患いであった母親が死亡。いつしか彼のこころには「自殺願望」が頭をもたげてしまう。中学でも勉強はできず、母の死後は幼い妹たちの面倒をみていたようだ。中学卒業後、工場勤務をするが、長続きせずに職場を転々としている。この頃、ようやく人並の体力もつき、真面目に辛抱すればよかったのだが、「自殺願望」が邪魔をする。彼は「空き家」に放火してしまった。さらに志願して「刑務所入り」を果たしている。4年の刑期であった。その間、九州・小倉の「城野医療刑務所」へ治療のために送られている。「精神病」と診断されていた。おそらく「うつ症状」が亢進したのだろう。出所後は家に戻らずに彷徨った。そして事件を起こしてしまった。昭和34年4月5日の夜であった。新潟県小千谷の寺で泊めてもらおうとしたが断られてしまう。そこで彼は新潟市内の「鈴木福治」宅に行きついた。すきっ腹を抱えて軒先でうずくまっているところを家人に見つかり「ドロボー!」と騒がれてしまった。彼は反射的に家人を追ってその家に侵入してしまう。犯行から41時間の後に三条市で逮捕される。罪状「強盗殺人」である。刑務所出所後、行き場がなくて刑務所に舞い戻りたいがために更なる重罪を犯す。このような事例は、その当時に度重なっている。根底には「貧困」がある。「中村覚」も例外ではなかった。1審新潟地裁での「死刑判決」は覆ることはなく、昭和37年6月1日彼の死刑が確定した。そして獄中において文章の書き方、文学(主に短歌である)さらに教養も短歌とともに身に着けたのである。このあたり「無知の涙」を著し、やがて刑死した「永山則夫」と似ている。そして執行までの限られた時間を短歌とともに「歌人」として精一杯生きたのであった。

「この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し」

「土ちかき部屋に移され処刑待つひととき温きいのち愛しむ」

それから1カ月後「島秋人歌集」が刊行された--- 

「国家の英雄」を夢見て死刑宣告---今なお「冤罪」が囁かれる「三鷹事件」

この鉄道事故は、「三鷹事件」として戦後の歴史に汚点を残した。作家・松本清張が戦後の「黒い霧」として作品を残している。今なお「冤罪」の噂が後を絶たない。三鷹事件の”死刑囚は獄中で病死したので、死刑は執行されなかった。ただ、「冤罪」の疑い濃厚な死刑囚「竹内景助」の名誉が回復されることはなかった。1949年(昭和24年)7月15日、国鉄中央線三鷹駅(現JR)において無人列車が暴走する事故が発生した。引き込み線に停車していたはずの7両編成の電車が突如暴走を始めた。電車は脱線し民家に激突した。この事故で6人が死亡13人が重軽傷を負った。実はこの時、国鉄(現在のJR)では10万人規模での人員削減を実行中であった。国鉄が過剰な従業員を抱えてしまったのにはやむを得ない事情があった。戦後の日本兵の復員である。幸運にも生きて還ってきた功ある兵隊たちを数多く雇用したのであった。日本はまだ米国の占領下にあった。そして「共産党」が大躍進していた。そのことに危機感を募らせたのがGHQである。当時の国鉄労組は、共産党員およびシンパでほぼ占められていたのだ。GHQの意向、あるいは指示があったかどうか定かではない。この三鷹事件を利用すれば、当局は「共産党」あるいは「左翼勢力」を潰すことが出来ると考えた。事故から1カ月の間に国労組合員20人が次々に逮捕された。その半数の10人が起訴された。この中でただ一人非共産党員がいた。それが、この事件の死刑囚となってしまった「竹内景助」である。この「竹内景助」とは如何なる人物だろうか。彼は、大正10年2月1日長野県で養蚕農家の次男坊として生まれた。祖母は松代藩士の娘で実直なひとであった。景助はおばあちゃん子であった。祖母の言うことにはなんでも素直に聞いたという。おそらく、景助の中には松代藩士の影響が色濃く残っているのに違いない。武士は、殿様や家を守るためには、「無実」であっても従容として死を受け入れる。後に弁護士の甘言を受け入れてしまったのは、彼の中にある武士の魂ではあるまいか。結果として彼は「死刑囚」という恐るべき立場に追いやられたのだ。当時は、三鷹電車区の検査係それが竹内の仕事だった。彼は熱心な仕事ぶりを評価されていたが共産党のシンパになっていた。しかし竹内に、事故の前の日に解雇が言い渡されていた。それで腹を立てて電車を暴走させた、というのが捜査当局の主張であったようだ。竹内は拷問に耐えて無実を訴えていた。---ところが、弁護士は恐ろしいことを提案してきた。「単独で脱線させた、と自白してくれ」という。「共産党員の共同謀議が立件されれば、間違いなく全員死刑になるだろう」そして最悪の場合共産党は解散を命じられる。「それを救えるのは党員ではない君だけだ。党員ではない君の単独犯なら、よもや死刑にはなるまい。10年がいいところだ」だが、竹内は同意しない。当然であった。彼には妻も子もいた。「---罪を被ることなどできない」弁護士は、竹内の弱点を知っているかのように続けたのだ。「今の左翼勢力の盛り上がりはすごい。やがて共産政府が樹立されるだろう。そのときこそ竹内君は国家の英雄になれるんだ」「仲間の命を救えるのは竹内君しかいないんだ」と弁護士は云った。「竹内景助」は同意した。単独犯を主張した彼は起訴された。1審は竹内に「無期懲役」が下った。そして仲間9人全員が無罪になった。だが、昭和26年控訴審の東京高裁で恐るべき判決が出る。「1審の無期懲役を破棄し被告に死刑を宣告する」彼は逆転されてしまう。あわてた竹内は証言を翻し無実を主張して上告する。だが---もう遅かった。昭和30年6月21日最高裁で上告が棄却された。ここで「竹内景助」の死刑が確定したのであった。---戦後の「黒い霧」「竹内景助」はこの後脳腫瘍を発症して昭和41年獄中で死去した。享年45であった。

1945.8.22もう一つの終戦記念日---徹底抗戦を訴えて”玉砕”した「尊攘同志会」

敗色濃厚の日本が「ポツダム宣言」を受け入れたのは1945年8月15日である。この日、昭和天皇の「玉音放送」が行われたのであった。だが、すべての日本人が「無条件降伏」に賛同したわけではなかった。反対する人もいた。中でも右翼団体「尊攘同志会」を率いる「飯島与志雄」は、12名の会員と港区愛宕山に立て籠もった。彼と同志にとって「日本」は神州不滅であって「無条件降伏」などは容認できなかった。とうてい受け入れられる事態ではなかったのであった。8月16日、武装した彼らは「内務大臣・木戸幸一」とその実弟を襲った。そして内務大臣に「降伏撤回」「ポツダム宣言非受諾」を要求した。だが成功などするわけがなかった。すでに「昭和天皇」によって「戦争終結」が宣言されている。「尊皇絶対主義」を掲げる「飯島与志雄」は、如何なる降伏であろうが「天皇陛下」を御守りしたかったのだ。神州を蹂躙され、陛下に危害を加えられることなど想像もできなかった。警視庁特高課(当時)は、約70名の警官を動員した。愛宕山を包囲して武装解除、投降を呼びかけたが、彼らは応じなかった。8月22日警官隊は発砲を開始した。すると「天皇陛下バンザイ!」の叫び声が響き渡った。その直後に手榴弾が炸裂、ここに「尊皇同志会」は全員死亡した。同じような「騒乱事件」はその後3件発生している。それまで”信じてきたものが全否定される”ことぐらいつらいことはないのだろう。だから8月15日に「殉死」を選んだ人もいたのであった。後に「東京裁判」が開かれる。「戦犯」として処刑される東條英機は、側近から「あなたが刑に服すことによって、天皇陛下の身は守られるでしょう」という言葉で安堵したと云われる。

三島事件の9年前、理想を掲げて「変革」を画策した人物がいた---川南豊作「三無主義」クーデター事件

警視庁公安部は、この4カ月前にはクーデター計画を掴んでいた。1961年12月12日、新宿他福岡県内32ヶ所を一斉捜査。カービン銃や日本刀、防毒マスクなど150点を押収した。そして関与した13名を逮捕した。これこそ戦後初のクーデター計画であった。この計画は「川南豊作」の主張をもじって「三無政策事件」と呼ばれた。「三無」とは、「官公庁の財政緊縮」「公社・公団」の民営化による「無税の推進」、「大規模な公共事業実施」による「無失業」そして「宇宙兵器開発」による「無戦争化」であった。これらを「三無主義」と表現したが、川南自身は”さんゆう”と発音していたらしい。これは老子の格言に拠っている。事件の首謀者「川南豊作」(当時59歳)は、事件当時には没落はしていたが、かつての大造船会社「川南工業」の代表者であった。その全盛期には、三菱重工長崎造船所を凌ぐほどの造船量を誇った。当然、彼は財界・軍部との深いつながりがあった。60年安保闘争をめぐり、「共産主義・左翼革命」の台頭が顕著にみられた時代であった。理系秀才はこぞって左翼思想に共鳴した。このような風潮を好ましく思わなかった彼は「三無塾」を立ち上げ塾生を集めた。そして共産主義勢力やそれを容認する政治家・閣僚たちの「粛清」を夢想するようになる。1970年の「三島由紀夫」のような、ある意味「牧歌的」なクーデター計画ではなかった。彼の計画によれば、蹶起は1962年2月ごろであった。構成は「三無塾」の塾生を主体にして200名以上で国会を襲撃、これを占拠する。さらに議員を監禁した上で報道管制を実施する。自衛隊には中立を呼びかけ、戒厳令下における臨時政府樹立を目指すという本格的ものであった。捜査が進むにつれ国民に衝撃が走った。大戦時に勇名を馳せた「桜井徳太郎元陸軍少将」さらに「5.15事件」に参加した「三上卓元海軍中尉」の名があり、陸軍士官学校卒業者が多数いたからであった。そして世間はさらに驚いた。それは、宗教法人「最福寺」の「江口恵観」が参加していたからであった。それほど「左翼運動」のうねりが大きく「日本の共産化」を危ぶむ人も多かったのであった。この「三無主義」という主張だが、経済成長を成し遂げた現在からみれば、そのほとんどは達成されている。

「朝日ジャーナル」は、犯行を煽ったのか---「朝霞自衛官殺害事件」

その事件は1971年(昭和46年)8月21日に発生した。場所は「陸上自衛隊朝霞駐屯地」であった。殺されたのは、歩哨任務中の陸士長である。逮捕されたのは「大学生」3人組である。彼らは、戦争ごっこをするために駐屯地まで来たのではなかった。彼らは「幹部自衛官」の制服を着こんでいた。侵入の目的は、武器を強奪するためであった。この3人組こそ「新左翼赤衛軍」と自称する共産主義思想に共鳴する学生である。逮捕された彼らの一人は、とんでもない供述を始めたのであった。「朝日ジャーナル」記者(当時)だった「川本三郎」の名前が登場する。彼は、スクープ情報欲しさに金銭まで渡していた。当時の朝日新聞(現在でも同じだが)は、さながら「新左翼」の「サポーター」のような新聞であった。「川本三郎」は、「お金を逃走資金として使ってくれ。事件後は、情報をスクープとして使う」と云っていたそうである。おそらく、彼は新左翼思想に共鳴していたのだろう。だから、朝霞駐屯地への侵入を手助けした。あるいは、この事件のシナリオを描いたのも彼かも知れない、と店長は考えている。なお、この翌年1972年(昭和47年)には、連合赤軍による大量リンチ殺人「山岳ベース事件」が起きている。さらに「浅間山荘事件」と続き、テレビ中継されて国民の目を釘付けにしている。「川本三郎」であるが、この事件の詳細を「マイバックページ」としてまとめ上げ2011年には映画化されている。機会があれば、若い人に鑑賞をおススメする。「全共闘・団塊の世代」である。こんな空気が日本全体を包み込んだ時代があった。

わが国初の心臓移植ドナーは、生きているのに心臓を摘出されていた---疑惑の「和田心臓移植」驚愕の真実

当初こそ、その報道は驚きと歓喜をもって日本中を駆け巡った。それは「日本初の心臓移植手術に成功」というものであった。昭和43年8月8日である。この移植手術については、執刀医の和田寿郎札幌医大教授(当時)は殺人罪で告発された。だが関係者による信じられない口裏合わせが行われ、うやむやにされてしまい、和田教授を裁くことはできなかった。医学界が一致して真相に封印をしてしまった。移植手術後83日で宮崎信夫青年は早すぎる人生を閉じてしまった。彼の疾患は必ずしも心臓移植を要するものではなく、他の適切な治療が実施されれば20年以上長生きしただろうと云われていた。また心臓提供者の山口義政青年は、海水浴で溺死したとされていたが、真相は違っていたらしい。彼は救急搬送中に必死の救命隊員の心臓マッサージにより、呼吸が自然呼吸に戻っていたという。さらに、搬送された病院では「筋肉弛緩剤」を投与されていたらしい。これは「殺人」ではないだろうか。移植手術当時は、関係者は口裏合わせをしていたが、30年以上も経過してようやく真実を明かす関係者も現れ始めた。青年の意識はまだ回復していなかった。だが、その意識が戻ることは二度となかったのである。そのとき、生きていた彼の心臓は取り出されてしまったからである。さらに驚くべきことに、山口青年の心電図の記録は破棄されていた。脳波や血圧の記録もないのだ。つまり周囲の医師たちは、蘇生した彼を生かそうとする努力を一切行っていないのである。搬送された病院で彼の姿を見た当時の麻酔医は「異常な光景」を目撃している。「まるで手術直前の様相を呈していた」という。1947年8月14日札幌地検は「嫌疑不十分」として和田寿郎教授を「不起訴」とした。傲岸不遜の彼は、昭和62年東京女子医大を65歳で定年退職した。人の命よりも自らの医学的功名心を優先させ、この移植手術は、二人の若者の未来を無慈悲に奪ってしまった。これが、心臓移植の発展に必要であったとは到底思われない。この名を覚えておいて欲しい、「和田寿郎札幌医大教授」---彼は、医師になるべきではなかった。人の命を救うのが医師の仕事であるが、彼は人の命を犠牲にしても自分の名声が欲しかった。「虚栄の篝火」に照らされたなんと空しい一生であろうか。

「お金は幸福を遠ざける」---別府フェリー乗り場から3億円のダイビング

別府国際観光港フェリー乗り場の岸壁から1台の乗用車が転落した。1974年11月17日午後10時過ぎであった。海面下に沈み、その5秒後に男が浮かび上がり助けを求めた。沈没したクルマには男の妻子3人が残されていた。3人はクレーン車で引き揚げられたクルマの中で折り重なって死んでいた。だが、物語は意外な速さで進行する。男は「荒木虎美」、旧姓が「山口」で婿養子であった。警察はこの「荒木虎美」の結婚には疑問を抱いた。それは結婚直後に3億円という当時としても破格の生命保険が家族に掛けられていたからである。およそ1カ月ののち「荒木虎美」は妻子3人に対する殺人容疑で大分県警に逮捕された。この事件は「別府3億円保険金殺人事件」と呼ばれるようになる。「荒木虎美」は雑誌テレビなどに積極的に顔を出しては無罪を訴えていた。1980年3月28日大分地裁は死刑を言い渡した。1989年1月13日上告中の「荒木虎美」は、癌性腹膜炎で獄死した。享年61歳であった。1984年にロスで発生した「疑惑の銃弾事件」は、マスコミを使って世論を誘導しようと画策していたが、おそらく、この「別府事件」を参考にしたのではないだろうか。いずれにせよ、黒に限りなく近い灰色の容疑者たちは、快適な一生をおくったというわけにはいかなかった。彼たちは知らなかったのだ。「お金が人を幸福にするわけではない」ということを。この1974年10月14日、あの「長嶋茂雄」が惜しまれつつ現役引退をした。案外、「幸福」とは、ビールを飲みながらプロ野球観戦をすることであったりするのである。「荒木虎美」は、殺害目的で養子縁組を行ったとされる。彼は3億円を詐取して何に使おうとしていたのだろう。

「---聴け!静聴せい!貴様らは、それでも武士なのか!」---「三島由紀夫」の絶叫は、空しく市ヶ谷上空のヘリにかき消されていく

「バカ野郎!降りてこい!英雄気取りをするな!誰か三島を引きずりおろせ!」このとき市谷駐屯地に乱入した男が「生命を賭けた演説」をしていたが、真面目に耳を傾ける自衛隊員は居なかったようである。三島本人も「盾の会」幹部もクーデターを実行できるとまでは考えていなかったようであった。「---どうも自衛隊員にはよく聴いてもらえなかったようだ---」そして、事前の手筈通りに三島由紀夫と森田必勝は割腹自殺を遂げている。「三島由紀夫自衛隊クーデター未遂事件」は1970年11月25日である。天才作家と称賛され、ノーベル賞候補にもなっている「三島由紀夫」が、市ヶ谷総監室に乱入し割腹して果てた事件」は、世界中に衝撃を与えた。彼が、最後の気力を振り絞って自衛隊員に訴えた数々の言葉については、再評価すべき時期にあると店長は密かに考えている。それは、「憲法改正」の動きがようやく芽吹いてきたからでもある。彼は絶叫する「聴け!---戦後教育の中で、日本の男の美徳であったはずの”尚武の心”を忘れ、”物質”のみを求めるようになった日本人。---我々の愛する歴史と伝統の国、日本。これらを骨抜きにしてしまった日本憲法に身体をぶっつけて死ぬ奴はいないか!自分と一緒に起つ奴はいないのか!---貴様ら、それでも武士か!」

左翼思想の政治活動と云えば「総括」---この恐怖の「総括」は直接に「私刑」を意味した

日本にも存在した政治カルト集団、その名も「連合赤軍」である。当時は「新左翼」と呼称されていた。この「連合赤軍リンチ殺人事件」が発覚したのは1971年であった。武力による革命を志向する彼らは、銀行を襲い、銃砲店を襲い、そしてアジトを設営して武装訓練を開始する。この「連合赤軍」の残党5名が軽井沢の別荘に人質を取ってろう城したのが「あさま山荘事件」である。警官隊と激しい銃撃戦が繰りひろげられ、その様子はテレビ中継もされた。視聴率は89.7%を記録したそうである。この「あさま山荘事件」の解決後に彼ら「連合赤軍」の驚愕するリンチ殺人が発覚する。---「総括せよ!」リーダー「森恒夫」と「永田洋子」がこう発言するとそれは「私刑にせよ」と同義語であった。「死」を意味したのである。はて、どこかで似たような事件が---そうだった「オウム真理教事件」である。時代背景の違いが、こちらでは「政治カルト」であり、記憶に新しいのが「宗教カルト」なのであった。両方とも、世の中に不満があり現状を打破したいと願う「理系秀才」が絡めとられてしまった。その点において共通点がある、と店長は勝手に考えている。このリンチ事件は「山岳ベース事件」と名前が付けられている。また、このアジトから脱走した二人を探し出し殺害して埋めたとされる「連合赤軍印旛沼事件」が直前に起きていた。「山岳ベース」で殺害されたのは12人である。永田洋子たちは、計14人を私刑にしてしまった。事件が明るみになるや世間に衝撃が走ることとなったが、同時に学生たちの「左翼的な活動」は急速度に収束に向かった。極論すれば、若者たちの「興味と関心」が世の中の矛盾や有り様に向かわず、極めて個人的な問題だけに向かい始めたのである。「永田洋子」---もし、もう少し人並の容姿で生まれていれば、こんな凶悪重大な犯罪を起こさなかっただろうに---2011年2月5日、最後まで再審請求を続けていたが、死刑執行を待たず、脳腫瘍のため獄死した。享年65歳であった。そして、もう一方の「森恒夫」だが、逮捕の翌年獄中自殺を遂げている。

浜口雄幸射殺事件---暗い世相はここから始まった

東京帝大卒業、大蔵官僚を経て蔵相に就任した高知県出身「浜口雄幸」、元老「後藤新平」にその硬骨漢ぶりを買われ肝入りで蔵相に就いていたのである。浜口は民政党が結党されるやその総裁の座に就いた。そして首相に。金本位政策を打ち出し協調外交をその柱とした。ところがタイミングが悪く大恐慌のあおりをまともに受けてしまった。さらにロンドン軍縮条約の批准を巡って海軍軍令部と対立し結果右翼団体に命を狙われるハメになる。1930年(昭和5年)11月14日東京駅で特急「つばめ」に乗り込もうとするそのとき壮士「佐郷屋留雄」の凶弾に倒れたのである。有名になった言葉「もし死んだとしても男子の本懐だ---」を残している。浜口はこの怪我の手術を3度も受けたが翌年8月に死亡した。弾は小腸7ヶ所を傷つけ骨盤に達していた。その後の5.15事件では政友会内閣が倒れてしまい軍部の暴走が決定的となった。ここに、暗い世相「昭和」が始まっていた---

日米安保改定問題の影---血に染まった旧首相官邸

「岸信介内閣」退陣後、次の自民党総裁には「池田勇人」が就任した。その就任祝賀会が行われようとしていた。1960年(昭和35年)7月14日であった。会場に入ろうとした現職総理大臣「岸信介」であったが、背後から元右翼団体役員「荒牧退助」が迫っていた。彼は現職総理を狙っていた。その手には登山ナイフが握られている。首相は太ももを数回刺され鮮血が床に飛び散った。全治2週間の怪我であった。犯行に及んだ「荒牧退助」は、戦前の右翼団体「大化会」の幹事長であった。彼は、逮捕後に「安保改定で不手際があった岸信介を黙って辞めさせる訳にいかない。殺すつもりはなかった。彼を傷つけることによって、今後の政治はよくなるだろう」と名言を残している。この旧首相官邸は、「2.26事件」の舞台となった場所であったが、首相官邸は2002年に新築され、現在では1部の建物が残されている。

少年を誘拐、殺して細切れに---わが国では稀有なサイコ殺人鬼

ホルマリン漬けにした少年の肉片を眺めては、その日記を残していた猟奇犯人。事件は1957年4月2日に発生している。東京都中野区の日本棋院7段「森有太郎」の長男「慎太郎(事件当時26歳)」が、当時12歳の少年を騙して部屋に引き入れて殺害したのである。少年は細切れにされホルマリン漬けにされた。さらにその「標本」を床下に隠し、家族が寝静まると取り出しては眺めていた。その様子は日記にしたためられていた。およそ理解できない犯行であるが、「慎太郎」の精神が不具合を発したのはこの事件後であり、その不具合ゆえに事件が発覚したのであった。

「村八分」にされたと思い込み村落に復讐---1938年に起きた「津山30人殺し」の惨劇

この事件は、横溝正史の小説「八つ墓村」のモチーフになった岡山県津山市でおきた大量殺人事件である。当時では「不治の病」であるとされた恐ろしい病気「肺結核」犯人の「都井睦雄」(事件当時22歳)は、この結核を発症していた。そのため、友人たちや村の女性たちは怖がって彼の回りから姿を消してしまう。都井は、「村八分」にされたと思い込み、憎悪をかき立て、復讐したいと望むようになる。特定の集団への復讐が起因となる最近の犯行に「大阪教育大学付属池田小学校襲撃事件」がある。自分勝手な思い込みだが、おそらく「宅間守」と同様に、この「都井睦雄」も精神疾患だったのだろう。都井は決行する前に姉に犯行声明を書残していた。「---僕は、かほどまでにつらくあたる近隣の者に身を捨てて復讐をしてやろうと思うようになった。目的の日が来た。復讐を断行します」ちなみに「八つ墓村」という地名は津山市にはない。現在でも、旅行者が駅前の交番で「八つ墓村」はどこですか?とやってくるそうである。

「おまえは、井上準之助を狙え!肝はできているか」---「血盟団事件」

不景気のどんよりした雲に覆われた昭和7年であった。要人の暗殺が続いた時代である。日蓮宗の僧侶「井上日召」は、1928年に水戸で「護国堂」という私塾を開き「国家改造」の必要性を説いていた。彼の思想は過激なものであった。「一人一殺」を掲げ政界から財界果てには宮中の役人まで暗殺予定者のリストを作ったのだ。「北一輝」「大川周明」の「国家主義指導者」の理論武装に傾倒し、過激さは頂点に達していた。そのころ井上日召」の私塾に出入りしていた若者のなかに「小沼正」と「菱沼五郎」がいた。彼らは「血盟団」と自らを称していた。そして賛同者は海軍の中にもいた。ピストルを調達したのが「藤井斉海軍中尉」である。1932年2月9日、「大蔵大臣井上準之助」は本郷で暗殺され絶命した。さらに同年3月5日である。三井本館の玄関口で三井財閥の総帥「団琢磨」が銃弾に倒れた。やがて、これが、貧しい農家出身の”秀才たち””エリート軍人による「5.15事件」へと繋がっていく。

占領下で起きた「世紀の冤罪」---謎の「帝銀事件」

池袋からほど近い「帝国銀行椎名町支店」で毒物大量殺人事件が起きた。GHQの占領下にあった1948年(昭和23年)のことだ。午後3時すぎ、閉店後に残っていた支店長代理以下16人のうち12人が毒殺されてしまった。その「強盗」は「東京都消毒班」の腕章をつけて銀行にやってきた。彼は云った「(隣の)長崎1丁目で集団赤痢が発生した。今予防薬を持っている。これをすぐ飲みなさい」行員たちは疑うこともなくその「液体」を飲んだのであった。それは、青酸化合物であった。5分後、行員たちが苦しみだすのをしり目に現金と小切手を奪って犯人は逃走した。捜査は難航したが7カ月後に、容疑者「平沢画伯」を強引に逮捕した。そして「自白」させてしまう。画家は無実を訴え続けて95歳で獄中で死亡した。犯行に及んだ男は知的な瓜実顔の好男子であったという。誰もが東京都衛生課の役人だと信じて疑わなかった。それに彼は「後でGHQのホーネット中尉が消毒班を率いて駆け付けることになっている」と嘘をついている。画伯の名前は「平沢貞通」逮捕当時56歳であった。その年恰好は、目撃情報とよく似ていたらしい。だが、物証のないまま「死刑」が確定する。画伯への、死刑は執行されなかった。冤罪だとすれば世にも気の毒な話である。「平沢」画伯、無実を訴え、95歳でその無念の生涯を閉じた。

当時のソ連の命運を握ったスパイ---幾多の謎を残す「ゾルゲ事件」

戦後、一躍有名になったスパイ「リヒャルト・ゾルゲ」1933年から1941年の間、日本でスパイ活動を行っていた。日本と同盟国ドイツの主に軍事情報を盗み、本国ソ連に流していたとされる。1983年に日本に潜入する。当時の日本は「満州国」をでっちあげ中国への権益を強化していた。さらにソ連への侵食が懸念されていた。彼は朝日新聞社の「尾崎秀実」ら数名と諜報活動を開始する。ソ連は日本との同盟国ドイツの動向が心配であった。1941年「バルバロッサ作戦」と呼ばれるドイツのソ連侵攻作戦の秘密情報をゾルゲたちは入手した。だが、「スターリン」はこのスパイ情報を無視、ソ連は緒戦でドイツに大敗を喫してしまう。1941年、今度は日本軍の「南進」をキャッチ、ソ連は、この情報をもとに極東に配備していた部隊をヨーロッパ西部に再配備する。そうしてドイツの進攻をくい止めることに成功した。そのころ、日本で、共産党幹部の「伊藤律」が逮捕された。1941年10月であった。伊藤の密告から「ゾルゲ」は日本で逮捕された。事件の詳細は1949年にGHQによって発表されたのであった。

汚職事件が政局に発展---その裏にはGHQ内部での勢力争い

まるでロッキード疑獄事件を思わせる政財界を巻き込んだ事件。発生したのはGHQ統治下の戦後日本であった。1948年(昭和23年)「昭和電工」は当時中堅の化学会社であった。社長の日野原節三は、「復興金融公庫」からおよそ23億円の融資を受ける。その金を政財界にばら撒いたのである。摘発は、GHQの差し金だと云われた。

この事件では政財界で64人が逮捕された。さらに当時の「芦田均」内閣が倒れてしまう。芦田内閣は、中道3党(民主・社会・国民協同)の合同内閣であった。そのあとに誕生したのが「民主自由党」の「吉田茂」であった。現在の「自由民主党」のルーツでもある。その後、この「自民党」は長期にわたり政権を担うことになる。それを考えると、日本の運命はここで決したとも云える疑獄であった。日野原社長の「赤坂の愛人」まで登場して大騒ぎになったのだが、結局、有罪になったのは2名だけである。だが、GHQ内部対立で勝利したグループと後の「自民党」吉田茂にとっては、この政局こそ運命を変える絶好の好機であった。この大型汚職事件が長きにわたって語り継がれる所以である。(この項は「昭和平成金融事件簿」とコンテンツを共有しています)

皇居で発生した群衆の狂乱---踏み付けられて16人が犠牲に

正月の恒例行事「皇居一般参賀」で事故が発生した。それは1954年(昭和29年)であった。皇居前には38万人が集まっていた。警官による厳重な警備が行われていた。群衆を制御するためにロープが張ってあった。そして入場開始、警官は、そのロープを持ち上げる。待機していた群衆は待ちきれなかった。いっせいに二重橋の石橋に殺到した。事故が起きる。群衆の中にいた老婆が倒れてしまったのだ。あおりを受けて50人ほどが倒れ込んだ。だが後方からその様子は分からず、群衆は殺到していく。踏み付けられた16人が死亡する惨事を招いてしまった。さらに重軽傷者65人という大事故であった。この事故は「二重橋事件」と呼ばれた。ここは通常であればおよそ人が死ぬような場所ではない。群衆パニックで犠牲者を出してしまう事故は最近でも起きている。2001年兵庫県明石での「花火大会」である。狭い歩道橋に見物客が殺到、そして11人が圧死した。この事故では責任をめぐって裁判が続けられている。

終戦直後、殺し合いに発展した「アナタハンの女王事件」---若い女性をめぐって男たちは殺し合った

太平洋戦争が終結する1年前、日本軍への食糧を輸送していた漁船が米軍の攻撃を受けて沈没した。生き延びた乗員30名が「アナタハン島」に上陸を果たす。この島は、サイパン北120㌔付近の小さな島であった。無人の島ではなかった。ここには日本人の農園技師と、夫に取り残された若い女性が住んでいた。1944年6月である。

上陸した30人は、この日本人たちと合流する。つまり、一人の若い女と31人の男とが共同で暮らすことになったのである。これが「アナタハンの女王事件」と呼ばれる凄絶な殺し合い事件の幕開けであった。しばらくすると、気の合った者同士に分かれて暮らすようになる。若い女は農園技師と関係を持って暮らし始めた。そして彼らは1945年8月15日の終戦記念日を知らずに島で生活を続けたのだ。そして翌年、山中に墜落したB29が発見された。その機体の中に存在した物こそ「悲劇」を呼ぶ代物であった。「ピストルと弾丸」である。そのあとで彼らがどうなるのか、容易に想像できる。ピストルを手にした男は、農園技師を脅して若い女を奪ってしまう。ところが、この男が殺されるのだ。さらに若い女を巡って殺し合いが続いた。殺された男は合計で9人になった。残った男たちは集まって協議した。「---この際、若い女を殺してしまおう」

若い女は、「アナタハン島」を抜け出して米軍に投降そして保護された。1950年5月であった。極限状況に投げ出された男たちであった。リーダーの不在、ピストルの発見、若い女性の存在。これが揃ったとき「悲劇」の幕が上がったのだ。この特異な事件は、全容が解明されたわけではなかった。語り草になっただけである。

命を狙われた「深沢七郎」---小説「風流夢譚」事件

日米安保条約の改定を巡って揺れた1960年であった。社会党委員長「浅沼稲次郎」が日比谷公会堂壇上で、右翼少年「山口二矢」に刺殺された。その前には「岸信介」首相が襲われている。その年の10月、雑誌「中央公論」に「風流夢譚」が発表された。この小説は問題作であった。当時、新進気鋭の作家であった「深沢七郎」であるが、右翼団体に命を狙われるハメになる。そのため彼はやむなく地下に潜るのだ。ストーリーを見よう。夢の中での物語ではあるが、衝撃のドラマが展開する。なんと、革命が実現し時の皇太子が斬首されてしまうという場面が出てくるのだ。当然だが、宮内庁は「不快感」を示す。さらに右翼団体は「不敬」であるとして、中央公論社に激しい抗議を行った。そして傷害事件が起こる。1961年2月1日、中央公論社の社長宅を右翼少年が襲撃したのである。家事手伝いの女性が殺され、社長夫人も重傷を負った。この事件から、「皇室もの」はタブーとなり、出版社などの「自主規制」が強化されたことは言うまでもない。(この項は「世間を騒がせた映画監督・小説家たち」とコンテンツを共有しています)

歴史で習ったけどよく知らない「大逆事件」---明治43年の暗黒

起訴された26人のうち12人にはわずか半年後に死刑が執行された。1910年(明治43年)、容疑は「明治天皇暗殺計画」である。「幸徳秋水夫妻」が中心人物とされていた暗殺計画であったが、事実は違っていた。明治天皇暗殺を夢想し爆弾製造に取り組んだのは「宮下太吉」という。彼は、山梨県出身の職工であった。労働者を取り巻く劣悪な環境に疑問を抱き、「社会主義・無政府主義」に傾倒していった。折しも「幸徳秋水夫妻」は、「平民新聞」などで社会主義的言論人として名を上げていた。宮下は幸徳秋水を尊敬していた。その後幸徳秋水夫妻を訪ねて計画を打ち明ける。だが、幸徳秋水は、この計画には疑問を持ちむしろ消極的であったらしい。爆弾こそ完成していたが、爆殺計画は夢物語ともいうべき具体性がなく、曖昧なものであった。それを「大逆事件」として問題視し、明治政府にとって目障りな「活動家たち」を次々と検挙した。さらに異例ともいえるスピード裁判である。およそ現代では考えられない展開である。その法廷で死刑判決が下された「幸徳秋水」の妻、菅野スガは、「みなさん、さようなら!」と力強く言い放ったという。

大正12年関東大震災の陰で---「大杉栄惨殺事件」

関東大震災は1923年9月1日に発生した。なんと14万人の死者・行方不明者を出したのであった。それから2週間あまり後に、大杉栄、伊藤野枝が憲兵隊に拘束された。麹町憲兵分隊に、大杉の6歳になる連れ子もいっしょであった。大杉栄と伊藤野枝は愛人関係である。そして「無政府主義」運動を続けていた。彼らを殺害したのは、憲兵隊大尉「甘粕正彦」であった。甘粕大尉は、懲役10年の刑に服したがわずか3年で出所している。その後「満州」に渡って活躍する。そのため「真犯人」は他にいるという説もあった。1945年に「甘粕正彦」は服毒自殺を遂げている

満州国皇帝「愛新覚羅溥儀」暗殺計画---テロリストは日活俳優

1935年(昭和10年)4月である。新宿3丁目で一人の若い男が職務質問をされて、やにわに逃走した。彼は、間もなく拘束されたが、その後の取り調べで恐るべき「計画」を話し出した。満州国皇帝を巡幸中に暗殺する、という驚愕する内容であった。盗んだ拳銃も所持していた。この悲しい暗殺者の名は、「小宮山登(当時22歳)」という。岡山県出身である。日活俳優として数本の映画に出ていた。俳優になる前だが、刀を振りかざして中国大使館に乱入し懲役刑を受けている。当局は危険人物としてマークしていた。小宮山は、思想的には「無政府主義者」であり、典型的な「一人一党右翼」であった。皇帝を暗殺して満州国瓦解に追い込む計画であった。さらにソ連大使館の焼き討ちも予定していたらしい。だが、彼の経歴は謎が多く、なにが「反権力闘争」に向かわせたのか判然としない。戦後の小宮山は、戦犯釈放を訴えてハングリーストライキをやり10万人の署名を集めて米国に送っている。結局何をしたかったのやら、店長には理解できなかった。

戦後史の大きな謎---黒い霧につつまれた鉄道事故

わずか2カ月の間に国鉄を舞台にした3件の事故が起こった。1949年(昭和24年)7月から8月にかけて発生した「下山事件」「松川事件」「三鷹事件」である。この時期の時代背景を理解しておかなければ、とても真相は見えてこない。戦後復興のなかで「労働運動」が「共産党勢力」と結びつき、過激度を増していた。なかでも「国鉄労組」は、「共産主義勢力」の温床であった。「ソ連」が成立し「中国」までも共産国家になってしまった。そして占領国の米国は「ソ連」との「冷戦状態」に突入しており、「日本を共産圏に組み込む」事態はなんとしても避けたかった。それには、「日本経済」の再建が急務である。特に膨れ上がった「国鉄の債務」の解消が急務であった。そんな折、7月5日、「下山定則国鉄総裁」が行方不明になっていた。翌6日、下山総裁は意外な場所で発見された。足立区内の常磐線上で轢死体となっていた。自殺なのか殺されたのか現在でも判明していない。GHQの関与も疑われた。作家の松本清張は、これらの鉄道事故を題材にした「日本の黒い霧」を著している。これらの「鉄道事件」後に、日本は思想的に右旋回をした。それは米国の国益にかなったものであった。

日本人なら記憶して欲しい---「日本の一番長い日」

戦争終結が「御前会議」で決定した。1945年8月14日である。「ポツダム宣言」を受け入れ、「無条件降伏」することを天皇は決断した。これを国民に知らせるために、天皇の肉声で「録音盤」が作成される。ところが、陸軍の参謀将校たちには「徹底抗戦」したい意見も根強かった。彼らは「戦争続行のクーデター」を画策した。それは、この「録音盤」を奪い、「終戦の詔勅放送」を阻止することであった。陸軍軍務課の竹下正彦中佐、畑中健二少佐は、近衛師団司令部に向かった。「戦争継続」のための「蹶起」を要請するためであったが、煮え切らない「森師団長」に腹を立て射殺してしまう。「日本の長い日」のはじまりであった。畑中少佐は虚偽の命令書を作成して皇居を占拠した。彼らは躍起になって「天皇の録音盤」を探して回った。---だが発見できなかった。ここに「蹶起」は失敗、彼らは皇居前でピストルを使って自決する。やがて「玉音放送」が日本中に駆け巡った。「---国民は耐え難きを耐え、忍び難きを忍び---」人々は、涙をながして地面に伏してこの詔勅放送を聴いた。---日本は、この戦争に負けたんだ---安堵と脱力感に襲われながら。

「天皇に戦争責任があると思う」---この発言で狙撃された長崎市長

本島長崎市長が銃弾に倒れたのは1990年1月18日であった。犯人は、右翼団体「正気塾」の田尻和美(当時40歳)である。市長は、「昭和天皇」の決断がもう少し早ければ、ヒロシマ、長崎の原爆投下も無かった、という発言もしている。だが、この市長発言は全国に影響した。賛同・共感する人たちが多くいたが、本島市長への脅迫・嫌がらせも相次いでいた。その中に、「田尻和美」もいた。拳銃を持った彼は、長崎市役所前で市長の右胸を撃ち抜いたのであった。幸運にも致命傷に至らず、一命をとりとめている。だが3カ月の入院を要する重傷であった。ところで、中世史の専門家「網野善彦」氏は、「天皇制自体が、既成の社会規範からほど遠い人間や集団を引き寄せる磁力を内包している」と述べている。それは南北朝の動乱で、当時の「後醍醐天皇」が怪しげな私兵の頭目「楠木正成」を重用したことに端を発するとしている。

判明しただけでも10人の高齢者を殺害---戦後復興期のなかで

「極悪非道」と形容された1965年に登場した殺人鬼「古谷惣吉」である。彼は、金銭強奪目的で1カ月の短い間に12人も殺害した。殺人は広域におよび、人気のない場所に一人で住む高齢者ばかりを手あたり次第に襲い、金銭を奪い殴り殺して逃走していた。福岡、兵庫、京都などで犠牲者が出てしまった。警視庁は同一犯とみて捜査を開始、熊本刑務所を仮出所していた「古谷惣吉」を全国指名手配した。西宮市で廃品回収業者2名が殺され、その小屋に隠れていた「古谷惣吉」は逮捕された。犯行動機はあまりにも短絡であった。「金をくれ」「飯をくれ」と要求し、断られると殺害に及んだ。最初の犯行は1965年11月9日であった。このとき彼は50歳手前。なんと29年も獄中で過ごしていた。1985年5月31日死刑執行、享年71歳であった。わが国経済が順調に拡大していく中で、この世に生まれるべきではなかった彼は、その犯罪にまみれた長すぎる生涯を終えた。

異様な生育環境が育てた性の怪物---大久保清という悪魔

この希代の殺人鬼が死刑に処されたのは1976年1月22日であった。群馬県高崎市生まれ、享年41歳、早熟すぎた性の怪物はその生涯を閉じた。婦女暴行の代名詞となった「大久保清」、関係した女性は50人とも云われる。そして、抵抗した8人の女性が命を奪われた。彼はロシア人の血を引いていた。そして端正な顔立ち、柔和な物腰で、物色した若い女性に声を掛けていた。その中には女子高生もいたらしい。「私は画家です。絵のモデルになってくれませんか」ほとんどは、警戒されることもなく、大久保清のクルマに乗ってきたという。清には年齢が離れた次兄がいるが、父はその嫁に手を出して離婚されている。さらに別の女性を自宅に連れ込み、小学生の清たちの前で平気で性行為をしていたという。そして、清の人格形成に最も悪い影響を与えたのが母親の溺愛であった。母は清を「僕ちゃん」と呼んでいて30歳をすぎてもその呼び方は変わらなかった。この母親は、芸者であった母とロシア人との間に生まれた私生児であったそうだ。清は、小・中学を通じて「学習意欲がない。他人への思いやり、さらに協調性がない」、などと評価されている。小学生時代から女風呂を覗いたり、幼児の性器を悪戯したり、性的な素行不良は納まらなかった。

わが国初の「遺体バラバラ」殺人---被害者は「警察官」だった

東京都足立区の荒川放水路で男性の遺体が発見されたのは1952年5月10日であった。見つけたのは小さな子供だった。子供は胴体だけの遺体を「お化けがいるよ!」と大騒ぎをした。さらに5日後には下流で首が漂着しているのが発見された。その後の捜査で男性の身元が分かった。なんと27歳になる志村署の巡査であった。そして犯人が逮捕された。それは、被害者の内妻である小学校の女性教諭であった。世間は驚いた。だが、殺害の動機が明らかにされると、驚きはやがて同情に変わった。

内妻は、巡査から正式に「入籍」してもらえず、家庭内暴力を日常的に受けていたのである。時代背景を見ておこう。昭和27年の日本である。戦後、米国の思想が入ってきたとはいえ、まだ日本的な「男尊女卑」思想は根強いものがあった。この時代、たいていどこの家庭でも夫は妻に対して多少の暴力を振るったものである。この事件の家庭では、夫は巡査のピストルまで持ち出し、内妻を脅かし暴力を振るっていた。殺されても当然であったそうだ。男女同権が認められてから2年経過していた。

名張市毒ぶどう酒事件---第二の「帝銀事件」で5人が死

三重県名張市の公民館、親睦会でその毒ぶどう酒事件が発生したのは1961年3月28日であった。祝杯のために「ぶどう酒」が振る舞われた。その中には農薬が混入していたのだ。事件後の捜査で、「テップ」という有機リン系の農薬であることが判明する。結果5人が死亡し、2人が重症になり、さらに10人が軽症という大惨事を引き起こしたのだ。この事件は「奥西勝」という主催者の会長が容疑者として逮捕された。だが証拠は警察によってねつ造されたものであった。「奥西勝」には逆転有罪「死刑」判決が下されている。しかしこの事件には謎も多く「冤罪」の可能性が当初から云われている。「三角関係」を清算しようとしたとされる奥西勝の「動機」についても何か合点いかない。この事件が「第二の帝銀事件」と呼ばれる所以である。

テレビ草創期の大スター「力道山」---刺殺された国民的スターには隠された人脈があった

昭和20年代、放送が始まったテレビは、まだ一般家庭に普及していなかった。それが大スターを生み出した。街頭テレビには「力道山」の雄姿があった。食い入るように見守る黒山の人々。角界を引退してプロレスに転向した「力道山」その人である。1963年(昭和38年)12月8日ナイトクラブ「ニューラテンクオーター」において、「力道山」は暴力団構成員の「村田勝志」と喧嘩になり登山ナイフで腹を刺されてしまう。その怪我がもとで腹膜炎や腸閉塞を発症し、あっけない最後を遂げてしまった。「力道山」の死後、彼の出自が明らかにされている。北朝鮮の出身であり、スカウトされて角界に入門したが、自ら万結を切って引退を表明した。プロレスで大成功し、副業も成功していた。さらに「山口組」とも親交が深く、政治家や大物右翼さらに韓国や北朝鮮にも人脈を持ち、彼は単なるプロレスラーではなかった。米国レスラーを「空手チョップ」でなぎ倒す「力道山」の活躍に日本人はおしなべて狂喜していた。それは、先の敗戦で自信を失っていた国民に勇気と自信を取り戻してくれたのだ。

戦後の大衆運動の激化---「血のメーデー事件」

朝鮮戦争を契機とした、米ソの対立は社会のあらゆる面で影響を及ぼしていた。復興の時代の1952年(昭和27年)の労働運動の激化は死者を出す惨事となってしまう。

皇居前でデモ隊6,000人と警官隊5,000人が衝突したのである。5月1日、警官は銃を発砲する事態となった。多数の重軽傷者を出し、そして二人が亡くなったのである。

この頃「武装闘争路線化」していた日本共産党はこの「事件」を評価していた。だが、なぜ発砲されたのかまでは解明されなかった。

米国二世気取りが流行した時代---日大ギャング事件発生

「オーミステイク!」とは、現金を強奪した犯人が叫んだ言葉である。1950年(昭和25年)日大の本部付運転手だった「山際啓之」当時19歳は、同大学事務員給料を運ぶ現金輸送車を襲い現金を奪った。彼は「ジョージ」と自称しその名の入れ墨まで彫っていた。世間はあきれかえった。戦後、女性は強くなり自己主張する存在になっていたが、軽薄な若者も増えていたようであった。彼は逮捕されたとき、まるで在日米軍兵士のように両腕を広げ「オー・ミステイク!」と云い写真に納まったのであった。戦争に負けたとはいえ、こんな”おバカばかり”が生き残ってしまった---大人たちは「あの戦争は何だったのか、こんな若者を作るために尊い犠牲を払ったのか」とあきれると同時にひどく失望した。この事件の名前があえて「日大ギャング事件」と呼ばれているのはそうした事情があった。

東大生が始めた「街金」の悲劇---「光クラブ」事件

戦前のモラルに反逆する戦後の若者たちを「アプレゲール」と呼んだ。「山崎晃嗣」は、その旗手であった。

昭和23年、東京で「街金」が生まれた。経営者は東京大学法学部の学生である。金融会社は「光クラブ」といった。

三島由紀夫がこの事件に材を取り、小説を発表している。それは「青の時代」という。三島由紀夫本人は失敗作といっているが、店長の私には、けっこう面白い小説だった。

ところで、当時はまだこの手の貸金業者はいなかった。いわば、戦後のドサクサが生んだといってもいい。経営者の東大生を「山崎晃嗣」という。彼は1日15時間もの猛勉強を繰り返して東大に入学している。終戦後に復学した山崎は「若槻礼次郎」以来の「秀才」と云われていたそうだ。東大生で友人と起業したのが「光クラブ」である。営業方法はこうだ。月に1割3部の配当を約束して一般から出資を広く募り、それを当時盛んだった闇ブローカーに、2割1部から3割の高金利で貸し出した。戦後から脱しつつあった日本で、いつまでも一般の人が闇金融を使うはずもなく、破たんは時間の問題だったようだ。結局出資金の返却に応じられなくなってしまう。当時の物価で3,000万円の負債を抱えて倒産した。そして山崎はカラの金庫の前で服毒自殺した。薬物に「青酸カリ」を選んだのは「すべて清算」という1流のジョークを書残すためだったのではないか、と店長は勝手な推測をしている。

「やあ、やあ我こそは、南朝天皇の後継者なり!」---戦後の混乱期に出現した自称「南朝天皇」事件

名古屋在住の雑貨商、熊沢寛道が、当時のGHQマッカーサーに陳情書を提出した事件である。1945年(昭和20年)の珍事であった。GHQはこの「事件」を日本国民統治のために「利用」できないものかと考えたふしがある。「現天皇は、陰謀と暗殺で皇位を奪った人物の子孫である」などと思い切った説が述べてあった。戦前・戦中においては「死刑」にされてもおかしくない蛮行といえた。これは米国や各国の新聞にも掲載されたという。熊沢は、すっかり気分を良くしており、「大延天皇」と自称し、さらに「南朝奉戴国民同盟」なるファンクラブまで組織するに至る。その会員はたちまち3,000人を超えたというから驚きである。だが、そのさらに偽物の「天皇」が登場したために「元祖・熊沢天皇」の影が薄れてしまうのであった。やがて彼は「ピエロ」化し、忘れ去られてしまった。

「アプレゲール青年の暴走」---新橋バー「メッカ」殺人事件

バーで酒を酌み交わしているとその天井からぽたぽたと何やら---雨漏りかいな?1953年(昭和28年)7月27日の夜であった。店員が屋根裏を調べると、電気コードで両足と首を縛られ、鈍器で頭を潰された無残な死体が転がっていた。殺されたのは証券外務員(当時39歳)である。彼は犯人の正田とは同僚であったが、正田にだまし討ちにされて金銭を奪われた。世間が「アプレゲール」などと驚いたのは、犯行を行った正田の背景である。正田は、この春慶応大学経済学部を卒業して証券マンになっていた。昭和28年当時で大卒といえばエリートであった。まだ、ほとんどの人が高卒で就職していた。彼の犯行動機は、表面上では単なる金欲しさであった。被害者に1点の落ち度もなかった。だが、法廷では正田の心の内部まで斟酌することなどできなかった。その隠れた暗い葛藤とは、幼いころに長兄から受けていた家庭内暴力である。そして正田は死刑に処されている。作家の加賀乙彦は、「死刑囚の記録」の中で、「戦中・戦後の変遷のなかで、私たちは大人たちの醜い変節を見てきた。私は正田が、その醜い大人たちに復讐をしたような気がしている」と述べている

捜査失敗で身代金を奪われた---「義展ちゃん誘拐殺害事件」

犯人逮捕は事件発生から2年後、義展ちゃんは殺されていた。世間が騒いだ「身代金誘拐事件」それが1960年5月16日発生の「義展ちゃん事件」である。犯人は近所に住む「小原保」(事件当時32歳)であった。奪った身代金で借金を返済しており足が付いていた。小原を逮捕するチャンスがあった。だが警察のミスで取り逃がし、身代金まで奪われるという当局の威信丸つぶれであった。その世間からの非難をかわす為に後の冤罪(狭山事件)を招いたとされている。この事件はドラマ化されているが、犯人の小原保役を「泉谷しげる」が熱演して評判になった。

日本人テロリスト3名の誓い---死んでオリオンの三ツ星になろう!

テルアビブ空港乱射事件。日本人テロリスト(当時は左翼過激派と称された)3名による、無差別殺人事件は1972年5月3日であった。手引きしたのは、PFLP(パレスチナ解放戦線)である。実行犯は、奥平剛士・安田安之・そして岡本公三であった。彼らはイスラエルのテルアビブ・ロッド空港で自動小銃を乗客に向けて乱射、死者26人、重軽傷者72名を出す惨事を引き起こした。彼らは事件直後に手りゅう弾によって自爆したが、岡本公三だけが生き残った。なお、彼らのリーダーが、2000年11月8日に潜伏していた高槻市で逮捕された「重信房子」である。パレスチナ・ゲリラの「自爆テロ」は、このときが最初であった。

17歳の青春はテロリスト---社会党委員長暗殺事件

今でも度々17歳少年が重大事件を惹き起す。だが、「和歌」を詠むような多少なりとも知性を感じさせるような少年はいない。少なくとも、「浅沼稲次郎社会党委員長」を刺殺した少年には「知性」を感じてしまう。彼が詠んだとされる和歌である。「ちはやぶる神の大御世とこしえに仕えまつらん大和男子は」17歳のテロリスト「山口二矢」辞世の和歌である。事件は1960年10月12日の日比谷公会堂で発生した。この日、学生服に短刀を忍ばせた小柄な少年が公会堂に向かっていた。立会演説会が行われ、安保条約を巡っての狂乱と喧騒に日比谷公会堂は包まれていた。正面壇上には、「浅沼稲次郎委員長」がしゃがれ声で演説していた。ヤジ、怒号がこだましている。予定の時間が迫っていた。そのとき、舞台の右下通路にいた少年が壇上におどり上がった。少年は両手で短刀を固定し、大柄な委員長に突進した。そして倒れ込もうとする腹部の短刀を引き抜き、さらに攻撃する。山口は、60年安保闘争が盛り上がる中で「大日本愛国党」へ入党していた。日本にも「共産革命」が起きるかも知れないと、本気で考えていたようだ。だから、委員長を刺せば社会党に打撃を加えられると思っていた。取り調べで、彼は「後悔はない。大義を実行したまでだ」と云ったという。11月2日、「山口二矢」は東京少年鑑別所で首を吊った。その壁には、歯磨き粉を使った古典的な文字が残されていた。「七生報国、天皇陛下万歳」山口二矢、享年17、七度生まれ還ってなお陛下にお仕えしたい。その大義に殉死し、本懐を遂げた孤独な魂であった。純粋な17歳、果たして彼は幸福だったのだろうか。

役者根性で玉砕!---右翼の豪邸に特攻した自爆事件

この事件は、世間を呆れさせる程度の衝撃があった。特攻服に身を包んだ俳優が、右翼大物の豪邸めがけセスナ機で突っ込んだのである。1976年3月23日であった。映画俳優の前野霜一郎(光保)が世田谷区の「児玉誉士夫邸」にセスナ機で激突した。彼は当時29歳の役者である。生前の「三島由紀夫」に憧れていた。劇団ひまわり出身で子役から映画に出ていた。彼の気分は「特攻隊」そのものであった。激突する時に「天皇陛下万歳!」と叫んでいたと報じられた。だが、狙われた「児玉誉士夫」は無事であった。1970年の「三島由紀夫」割腹事件は、意外なところに副産物を産んだと云える。あるいは、前野は特攻服に身を包みたかっただけなのかも知れなかった。どこにも「おバカはいるもの」である。

警視庁幹部私邸を爆破---問答無用のテロ事件

「過激派」という呼称が一般化したころそのテロが起きた---土田警視庁警務部長爆破事件であった。それは1971年12月18日である。歳暮に紛れて届けられた爆弾を土田夫人が開封するや爆発した。夫人は即死であった。そばにいた四男が重傷を負った。窓枠を付けたまま窓、天井が吹き飛んでいた。犯行は、後に「連合赤軍」を名乗る「京浜安保共闘」と見られたが、彼らは証拠不十分として釈放されている。土田部長は、異例のコメントを発表した。「君らは卑怯だ」という言葉が当時有名になっていた。この時代、高度資本主義がほころび始めていたのは確かであった。ソ連という国家が強力であった。ベルリンの壁も強固であった。それが音を立てて崩れ落ちることなど、誰も予想できない時代であった。

美濃部達吉の不幸---天皇機関説で批判集中

日本史で学んでいるはずであるが、東京帝国大学教授が銃撃されて怪我をした。襲われた理由は、美濃部達吉「天皇機関説」にあった。この説には、この店長でさえ疑問を抱いたのであった。天皇は「国家」の下に「機関」として存在するという。「それはおかしい。それは、天皇成立の神話的背景を無視した暴論」だと思ったのだ。もちろんこの事件は、教科書で知ったのであったが。銃撃事件は、1936年2月21日に発生している。これは、あの2.26事件の5日前である。昭和11年であった。美濃部達吉は、その前年「不敬罪」で告発され、貴族院議員を辞職していた。犯人は29歳の右翼、小田十壮であった。時代が時代だけに、相当な非難が巻き起こったに違いない。

奇妙なカルト集団---暗欝な時代背景が生んだ「死のう団」事件

この奇怪な人たちを形容する言葉がない。店長の国語力では無理である。1937年(昭和12年)2月17日のことであった。昭和12年、きな臭い時代背景だ。だが、その割腹未遂事件を起こした連中の思想も目的も判然としていない。まったく奇妙な事件であった。皇居前、国会議事堂、警視庁前、内務省階段付近で、それぞれ男が突然「死のう!」と叫び、自分の腹に短刀を突き付けたというのだ。同時多発テロ、と云えばいいのか。いずれも未遂で終わっている。本気で死ぬ気であったかどうか疑わしい。誰にも危害を加えていないのだが、警視庁では、この全員を逮捕した。このヘンな人たちは「日蓮会殉教青年党」を名乗っていた。日蓮宗にそんな教義があるのかも分からない。たぶんないだろう。この事件、とんだ副産物を生んでいる。事件を担当した警視庁の警部が、なんと割腹自殺しているのである。

新年参賀(昭和44年)---「ヤマザキ!天皇を撃て」

その男は確かにそう叫び、昭和天皇に向けてパチンコ玉を跳ばした。天皇には当たらなかった。犯人の男は、「奥崎謙三」戦争復員後、神戸でバッテリー商を営んでいた。トラブルから殺人事件を起こし10年の懲役刑を受け出所直後であった。「パチンコ襲撃事件」は、1969年1月2日である。彼は、ニューギニア戦線に派遣され奇蹟的に生き延びていた。そして「ヤマザキ」とは、還らぬ人となった戦友の名前である。「奥崎謙三」は終戦直前に俘虜となり、負傷兵として病院に収容されていた。そこで、戦争への疑念と戦争責任について自分なりに考えていた。そして復員後に殺人事件を起こして刑務所暮らし。服役中さらに天皇を憎むようになったらしい。この過酷なニューギニア戦線についてのドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」が上映されたのは1982年である。この映画で「奥崎謙三」は有名になっている。1969年と云えば「高度経済成長」へとまい進していたころであるが、いまだ戦争を引きずっている気の毒な日本人は多かったのだろう。

日本初の航空機乗っ取り事件---「よど号」ハイジャック

羽田から飛び立った日航機を乗っ取った犯人たちは、「北朝鮮」の実情を知らず、平壌行きを機長に命じる。この日本初のハイジャックは、1970年3月31日に発生した。犯人の「赤軍派」メンバーは、この地に「共産革命」の拠点を作るつもりであった。しかし、亡命希望の犯人たちは、航空機の搭乗チケットの買い方が分からず、チケットカウンターの場所も知らず、集合地点に遅れたり、さんざんであったようだ。メンバーは、主犯の「田宮高麿」が大阪市大、サブリーダー「小西隆裕」は東大である。全員で9名であった。彼らは、北朝鮮では住居を与えられ、ゲストと呼ばれ、大事にされたらしい。だが、当時の彼らはこの事件が、「日本人拉致事件」に繋がっていくことなど知るよしもなかった。また、彼らが期待していた「軍事訓練」に参加を許されず、主犯の田宮は平壌で失意のうちに死亡した。「共産主義革命」を夢見た秀才たちは、ただ平壌で無為に過ごし、自分の人生を棒に振っただけであった。また、この事態を解決するために「山村運輸政務次官」が人質になって日航機に乗った。そして英雄になり、その次の衆院選で、彼はトップ当選を果たしている。

戦後復興の陰で叶わなかった純愛---天城山心中事件

元満州国皇帝一族の娘が心中した。身分の違いは、まだ当時はどうしようもなかった。恋人と二人で天城越えはできなかった。「あの世で幸せになろう---」と、愛し合う二人はピストルによって心中した。1957年(昭和32年)12月10日。1週間前から捜索願いが出されていた、学習院大学学生の「愛新覚羅えいせい」さんと「大久保武道」さんの若いカップルである。「えいせい」さんは、最後の皇帝「愛親覚羅溥儀」の実弟の娘である。だから「姪」にあたる。「大久保武道」さんは東北出身。皇族ではない。終戦によって大衆化された学習院に進学した。もし皇族であれば、身分の違いを苦にしての心中などは無かっただろう。身分制度も終戦で終わりを告げていたが、社会慣習として、まだ根強く残っていた。遺書が学生寮舎監に届いていた。覚悟の心中であった。この悲劇ののち、恋人同士で交された手紙をまとめた「われ御身を愛す」が出版された。そしてこの書はベストセラーになった。「もう身分など関係ないのに---なぜ死など選んだのだろう」そんな疑問を当時の日本人は誰もが思った。だが、愛親覚羅家の二人の結婚への反対を誰も押し留めることなどできなかった。世が世ならば、敗戦などが無かったなら、「えいせい」さんは、名門中の名門の血縁である。彼女は、正真正銘のプリンセスなのであった。同時にまた、「大久保」青年と出会うことなどもなかった。戦後12年を経過していた。しかし皮肉にもこの翌年、社長令嬢の「正田美智子」さんが、民間人として初めて、現平成天皇とご結婚された。店長は、「えいせい」さん心中事件が皇室に影響を与えたのではないかと考えている。

三億円強奪事件---戦後の未解決と云えば迷わず筆頭に挙げたい

東京・府中刑務所前の路上で、偽白バイ警官によって強奪された三億円。1968年12月10日の朝であった。犯人は

様々な伏線を貼り、あっさり輸送車の職員たちを欺いた。あざやかな手口だった。奪われた現金は、東芝府中の賞与であった。当時は、給与やボーナスはどこでも現金を支給していたのだ。この事件が未解決で終わってしまった原因は初動捜査のミスだと云われている。現在でも犯人ではないか?と疑われているのが、不良集団「立川グループのS少年」である。少年は事件のあとで自殺している。この立川グループは末端もで含めると総勢60名とも云われていた。少年Sはリーダーであった。そして捜査対象は、なんと118,000人にも上ったという。当時都立府中高校の生徒であった現在のタレント高田純次の名もあったらしい。また、別件で関係ないのにも関わらず不当に逮捕され、その後の人生をもズタズタにされた気の毒な方もいる。

主文「悪魔の申し子に死刑」---裁判長は、確かにそう断じた

なんと5人の殺人、10件の詐欺で死刑に処された西口彰(判決当時38歳)検察は、この悪魔に向かって「史上最高の黒い金メダルのチャンピオン」と形容したそうである。1963年10月19日最初の強盗殺人が発生した。福岡県で専売公社(現NTT)の現金輸送車が襲われたのだ。運転手と職員の二人が犠牲となった。犯人の西口は、大学教授や弁護士に成りすまし犯行を重ねる。12月3日には、なんと千葉地裁でお金をだまし取っている。さらにいわき市の法律事務所で弁護士バッジを盗み出し、弁護士と称して詐欺を行っている。恐るべき男である。大学教授と偽って見破る人がいなかった。弁が立っていたのだろう。1970年12月11日死刑が執行された。

悪魔の詩訳者殺人---犯行はテロ組織なのか

歴史の闇に沈んでしまった。1991年7月12日であった。場所は筑波大学である。事件当時44歳の五十嵐一助教授は、イスラム研究の第一人者であり、「悪魔の詩」翻訳者として知られていた。7階のエレベーターホールで、首を切られて倒れているのを早朝の清掃員が発見した。周囲は血の海であり、助教授のカバンにも多数の切り傷があった。防御傷だと思われる。強力な力が加えられていた。助教授の首は切断寸前であったという。

この「悪魔の詩」はイギリス人によって書かれており、イスラム社会では禁書であった。この小説はイスラム社会を冒涜しているとされ、その当時のイラン最高指導者ホメイニ師が、小説の著者と関係した人物全員の処刑を布告していた。事件当日の午後に出国したバングラデシュ留学生がいたが、その行方は分からなかった。

どちらが悪魔なのか---藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件

神奈川県藤沢市で奇怪な殺人事件が起きた。1987年2月22日、知人が訪問して目撃したもの、それはまるで信じられない光景であった。男と女が一心不乱に死体を切り刻んでいたのである。被害男性は、女の夫である。Aさんとしておこう。男はAさんのいとこであった。知人はあわてて警察に通報した。警察が駆け付けた時、彼らはひたすらハサミで頭部の肉をそぎ落としていた。この男女とAさんは同じ宗教団体に所属していた。そしてAさんに悪魔が取り憑いたと思い込んで殺害したのであった。解体を始めたのも、悪魔を追い出すためであったらしい。頭蓋骨には清めの塩を詰めた。逮捕されたときでさえ「悪魔、悪魔」と口走っていたという。店長は彼らこそ「悪魔」であると思っている。だが、その宗教団体には、悪魔祓いの儀式など存在しなかった。では何が彼らを狂わせたのだろう。天使だろうが悪魔だろうが人を殺していいはずがない。人は人に対して天使にも悪魔にもなれる。どうせなるのなら天使になろう。店長は改めて思う。

阪神淡路大震災に吹き飛ばされた---埼玉愛犬家連続殺人事件

この事件は、犯人夫婦の死刑が確定している。立件された犠牲者は4人とされているが、実際には何人いるか正確に分かっていない。事件後、連日のように報道され、世間の愛犬家を当惑させていた。埼玉県熊谷市で事件は起きた。犯行を重ねた夫婦はペットショップ「アフリカケンネル」を経営し、顧客に法外な金額を吹っかけていた。それが最初の殺人を招いたのだ。1匹10数万円の成人犬を1,000万円で会社役員に売りつけたのである。高齢のアフリカ産であった。ダマされたと知った会社役員は返金を要求した。1993年4月20日、お金を返すといって会社役員を呼び出し、猛毒の硝酸キニーネを栄養剤と偽って飲ませたのである。夫婦は、詐欺まがいのペット販売を繰り返していた。そのためトラブルが多かった。それらの仲裁に暴力団幹部を同席させた。しかしすぐにこの幹部から金銭をゆすられるようになった。夫婦は、謀議してこの暴力団幹部も殺してしまった。さらには、この夫の愛人にも法外な価格で犬を売りつけ、返金を迫られると薬物で殺害した。この事件の直後阪神淡路大震災が発生する。さらにはオウム真理教事件と続けて震撼させる事件や災害が起きて忘れ去られてしまった。では、なぜ闇に葬り去られたのか。それは殺した遺体の処理である。素人ではない、と後に評されたほどその解体処理が見事だったのである。

強姦殺人犯は同校の生徒会長---江戸川区の衝撃

少し時を遡ってみよう。店長も住んでいた江戸川区である。1958年8月17日。都立小松川高校の校舎屋上で殺人が起きたのだ。強姦未遂がきっかけだという。しかも被害者と加害者は同校の生徒であった。店長は、この事件を最近ようやく知ったのである。犯人は「李珍宇」亀戸の生まれであるが、父親は酒を飲んでは暴れる放蕩者で、母は耳が不自由であった。教科書さえも彼は買って貰えなかったという。しかし、教科書は友人から借りて書き写し懸命に勉強した。父親のようにはなりたくなかったのだろう。中学を卒業して町工場で働き定時制高校に通った。それが小松川であった。だが、この事件で逮捕後に彼はさらに別件の強姦殺人を供述した。少年法が適用される18歳であったが、彼には死刑判決が下された。1962年11月26日、死刑執行。わずか22年の、貧困と差別に苦しめられた不本意な生涯を閉じた。借りた教科書を書き写してまで勉強に励んできた。中学卒で懸命に働いた。すべて自分を取り巻く環境が呪わしかったからである。「日本人に復讐する!」それこそ彼が必死で努力を続けた原泉であった。

名古屋デート中カップル拉致監禁強姦殺害---記憶してほしい残虐事件

この事件の正式名称は「名古屋アベック殺人事件」であるが、店長はあえて「拉致監禁強姦殺害」としたい。襲われて引き回され殺害されたのは、将来を約束し、二人の理容院を持ちたいという夢をもっていた、当時20歳と19歳の若いカップルであった。なぜこの若い恋人同士が狙われたのか。事件は1988年2月23日午前4時半ごろである。まず、この時間であるが、通常深夜から早朝にかけて公園にいるはずのない時間である。将来の目標のためにホテル代を浮かせていたと考えられる。犯行グループは17歳から19歳の男女6人、彼らは札付きの不良どもであった。名古屋TV塔噴水近くに集まりシンナーを吸っていた。初めは金銭を奪うだけで良かったのだ。そのためにデート中の若いカップルを物色した。すでに二組が強盗被害にあっていた。そして、もう一組やろう、となって襲われたのがこの理容師を目指す若いカップルであった。そしてこのカップルを悲劇が襲う。不良どもを本気で怒らせてしまう。彼ら犯行グループは3台のクルマに分乗していた。そして被害者のカップルを見つけると前後を2台で塞ぎ、逃げられないようにした。被害者の男性は、無理やり前後にクルマを動かしたので、2台は激しく損傷した。そうやって逃げようとした。これが不良どもに殺意を抱かせてしまったのである。しかも彼らの1台は、暴力団組員の所有であった。犯人たちは、男性を殺害し、クルマの弁償代わりに、女性を組織に売ろうと考えた。そして残虐なリンチが男性に加えられる。さらに半狂乱になって命乞いをする恋人の目前で彼を絞殺してしまった。そして犯人たちは、女性をクルマで連れ去り自室に監禁、かわるがわる女性は強姦された。さらに最後には絞殺され三重県山中に遺棄した。想像できるだろうか。この非人間性。残虐な行為。では防ぐことはできなかったのだろうか。クルマをぶつけて逃げようとしたのはまずかったと思える。では、素直にお金を渡せば無事ですんだのだろうか。加えられた惨酷な行為を考えると、最早逃げ場はなかったとも云える。被害者はクルマのガラスを鉄パイプで破られ車外に引きずり出されている。さらに男性はめった打ちにされ、女性はライターで髪の毛や身体を焼かれたりした。およそ一人ではできない惨酷さだ。不良少女たちもリンチに加わり、笑いながらはやし立てていたそうである。事件発覚後6人すべてが逮捕された。リーダー格の少年には、無期懲役が言い渡された。「少年法」という壁のため、二人を殺害しても死刑にできなかったのである。彼ら犯行グループに更生の機会が必要だろうか。大いに疑問が残る。被害カップルは、リンチ・強姦殺人という地獄を味わっている。「少年法」は義務教育を終えている犯罪者には適応するべきではない、と思うのだ。

パリからの便り---佐川一政人肉事件

遠くパリからびっくり仰天のニュースが届いた。1981年6月11日、留学中の佐川一政は、オランダ人の女子大学生をダマして部屋に招き入れる。そして、その肉を食べる目的で射殺する。佐川は、記念撮影しながらその遺体をレイプした。こうして佐川には至福の時間が訪れる。太ももと胸の肉片を細かく切り、フライパンで炒めた。二日にわたり、その人肉を塩、胡椒、辛子で調理、味付けをして食べたのであった。その瞬間、佐川は魂が震えるほどの喜びを感じていたという。そして他の部位は解体して、スーツケースに詰めた。翌日、公園そばの池に投棄しようとした。その池の付近でカップルと遭遇する。佐川はスーツケースを放り出して逃げた。だが、すぐに見つかり逮捕された。佐川には文学の才能があったらしい。仏語で著した修士論文は出版される直前だったという。佐川は、小学生のころから人の肉片を食べたくて仕方がなかった。彼はそのことでずっと悩んでいたそうだ。16歳のとき精神科医の元を訪れ相談しようとした。だが相手にされなかった。このとき、何か適正な処置が行われていれば、この事件は起きなかったかも知れない。そして、怪奇文学の世界で彼の才能が発揮され、すぐれた文学作品を後世に残したかもしれない。現地の法廷では、佐川は精神異常と判定され無罪となった。そして精神病院に収監された。その後退院、国外追放となり帰国をする。帰国後、都立松沢病院に入院。そして退院後、創作活動を続けている。この佐川一政であるが、未熟児で生まれたためか、発育が正常ではなかったようだ。身長は150cm足らず。頭脳明晰であったらしいが、身体上の劣等感には相当悩んでいたようである。それは精神疾患と無関係とは言い切れないと思える。どちらにせよ、被害者のオランダ人にはまことにお気の毒ではあった。

世間に衝撃---金属バット両親撲殺事件

いま改めて時代背景を見ておきたいと思う。就寝中の両親をこの家に住む次男が襲った。1980年11月、川崎市高津区の高級住宅街でその惨劇は起きた。「3年B組金八先生」が流行ったころ、まさに受験戦争時代である。当時は大学進学ブームでもあったし、多くの大学が新設されていた。次男は成績がパットしなかった。だが、父親は東大卒で大企業に勤めるエリートである。長男も一流大学に進学している。だが当人は勉強ができる方ではなかった。クラスでビリから1,2番という不甲斐なさであったらしい。大学受験には2度失敗していた。両親は日ごろから「お兄ちゃんに比べてあなたはなんてザマなの」と叱責するのが常であった。ある日、次男は、父親のキャッシュカードを無断で使い、発覚して激しく叱られている。受験の度重なる失敗、両親の落胆、蔑むような兄の目線。もうすべてが厭になった。それに、盗んでいないのに現金を盗んだといって叱られた。次男は寝付けなかった。隣で両親が寝ている。「何か武器はないかな」次男の部屋には金属バットがあった。そしてバットで両親の頭を打ちすえていた。自分がなにをしでかしたのか、覚えていなかった。1984年4月、次男には懲役13年の刑が確定している。受験戦争が過熱していたころの痛ましい事件であった。

渋谷の中心で愛を叫ぶ---ではない、銃を放つ

まるで映画のようであったという。白昼、渋谷で起きた銃撃戦である。1965年7月29日。犯人は18歳の怒れる青年であった。彼は、ライフルでスズメを撃っていたが、付近の住民がこれを不審に思い警察に通報する。職務質問を受けた彼は、その警官を襲い、射殺して制服や銃を奪った。

そして、逃亡中に渋谷の銃砲店を襲い、人質を取って立てこもった。そこから警官隊との銃撃戦が始まったのである。凶弾は警官に命中、通行人にも当たり、多数の重軽傷者を出した。やがて機動隊の催涙弾により身柄を確保された。ガンマニアだった犯人、片桐操。彼は猟銃免許を持っていなかった。職務質問中にその警官を殺したのは、「ライフルを取り上げられると思ったから」だという。幼すぎる身勝手な犯行動機ではあった。片桐は奪った警官の制服を着て逃走していた。コスプレか?

戦後最大の大量殺人鬼---勝田清孝連続殺人

殺人罪で立件されたのは8件であるが、実際には22人の犠牲者がいるらしい。1972年から約10年間、凶悪かつ残虐な犯行を繰り返している。最初はケチな空き巣であった。それが次第にエスカレートするのだ。事故通報で駆け付けた警察官をクルマで轢きピストルを奪い取る。ここから犯行が凶悪さを増していく。勝田の窃盗や強盗容疑は、約40件にのぼった。愛知県警管内で迷宮入りとなっていた殺人事件のほとんどが勝田とつながったのであった。勝田清孝、2000年11月30日死刑が執行された。同時に二つの事件で死刑判決が下された、日本で初めての事態であった。なぜ1年以上にもわたり勝田は野放しになっていたのか。疑問が残る。だが理由があった。彼はジキルとハイドのような二面性をもって日常生活を送っていたのである。犯行期間中に夫婦でクイズ番組にも出演している。真面目な消防士として市民に溶け込んでいたのだ。そして犠牲者にはそれぞれ複雑な人間関係があり、余計に捜査を困難にしていたのである。どちらにせよ、2度とこの世に現われてほしくない人物である。

日本人にも居た!狂気の父親---栃木実父殺し事件

外国では時折耳にするのだが、まさか日本人にも居たなんて。店長は信じることができないでいるのだ。1973年4月4日、最高裁は実の父親を殺害した女性に執行猶予付きの懲役刑を言い渡したのである。当時は「尊属殺人」という刑罰があり、「無期」か「死刑」と決められていた。ところが本件を契機に「尊属殺人」という特別な量刑は廃止された。それほど、父親を殺害するにいたった娘には同情が集まったのであった。彼女は事件当時29歳であったが、すでに5人の子供があった。それもただの子供ではない。実の父親が彼女に産ませた子供だという。おわかりだろうか。彼女は、実の父親から性的虐待を受け続けていたのだ。それも14歳からである。母親もほかの子供たちを連れて家を出ていた。だが、この女性だけは連れ出すことができなかった。父親が手放さなかったのだ。そのうち妊娠、出産させられ、彼女は逃げ出すことを諦めてしまっていた。おそらく、この父親は脳内に異常があったのだろう。そう考えなければ、もはや説明がつかない。

狂気の通り魔はこの男から---深川通り魔殺人事件

店長が知る限り、通り魔殺人は、この無慈悲な親子殺害事件が最初である。犯人の川俣軍司は、「子供連れがうらまやしかった」と、女子供だけを殺傷したのだ。1981年6月17日午前11時30分過ぎのことであった。東京都江東区森下の商店街で事件は起きた。ベビーカーの幼児二人を含む4人が死亡。さらに、川俣は女性を人質に取り、中華料理店に立て籠もったのである。彼は意味不明の要求を警察に出している。実は覚せい剤の常用者であった。人質となった女性は川俣のスキをついて逃げ出し事なきを得る。川俣は踏み込んだ警官たちによって確保された。その姿はTVに映し出されたのだ。なんとブリーフパンツに白いソックスであった。世間は驚いた。常人ではなかった。覚せい剤の怖さをまざまざと見せつけられた。川俣軍司29歳、貧しい漁師の家に生まれ、集団就職で茨城県鹿島郡波崎町から上京した。築地のすし店で住み込みで働くが長続きはしなかった。川俣は、4人も殺しておきながら、精神鑑定で責任能力なしと判定され、死刑を免れた。

いまだ解明されないカルト事件---オウム真理教

地下鉄サリン事件が起きた時、店長は都内で営業していた。霞が関にある法務省営繕課には、毎月のように訪問した。その日は東西線で中野駅を利用中であった。事件の場所と発生時間は、当日は運良く店長の行動範囲外ではあったが---。それからというもの、連日ワイドショーはオウム一色になったものだ。

さまざまな犯行が明るみになった。世間の耳目を集めたのは、理系出身の秀才が幹部として大勢集まっていたことだ。東大はいうに及ばず、阪大や早稲田など綺羅星の如くであった。世間は驚愕した。「優秀な子供たちが、なぜカルトにハマるのか」

あの髭面の40男(当時)になぜ帰依などしたのか。世間の謎は深まるばかりであった。バブルが崩壊して長くデフレ下の不景気にあり、閉そく感がこの時代を襲っていたのも事実ではあるが。一連の事件で最も気の毒であったと思うのが「坂本弁護士一家殺害事件」である。彼らは嘘をついて玄関を開けさせて侵入した。そして当時1歳の子供まで殺したのである。子供だけでも助けて、と懇願する母親の眼の前で。

現代死刑判決の基準---永山則夫連続射殺事件

日本中が恐怖に襲われた連続射殺事件。1968年10月から翌年4月までの約半年間のことであった。事件は函館から名古屋までの広い範囲で発生したのである。警備員やタクシー運転手など4名も殺害された。警視庁は、広域重要事件に指定した。そして逮捕されたのは、当時19歳の「永山則夫」であった。ピストルは、彼が横須賀米軍基地に忍び込み盗んだものである。世間は、犯人の永山の年齢を知って驚愕した。未成年だったからである。新聞各社は、犯人が未成年であったが、異例の実名報道を行った。死刑判決が下されたのち、彼は、無知・貧困が犯罪を呼んだと訴え始める。そして獄中で読書に励み、語彙を習得し、教養を深めた。やがて「無知の涙」を発表する。それから文学者としても知られるようになった。減刑嘆願書も支援者から提出された。

「永山則夫」生い立ち不幸も極まれり、であった。彼が生まれたのは、北海道網走である。8人兄弟の7番目であった。父親は仕事をせず博打に耽った。母は行商をして子供たちを食べさせていた。食べ物にはいつも困るような極貧であったという。「このままでは、子供たち全員が助からない」そう思った母親は、子供4人だけを連れて実家のある青森へと移り住む。則夫は取り残されてしまった。残された4人は、魚市場で落ちている魚を拾って飢えをしのいだという。やがて、集団就職によって「永山則夫」は上京する。仕事はいつも長く続かなかった。彼が獄中で読んだ書物は、「マルクス、カント、ルソー、プラトン、ヘーゲル、トルストイ、キルケゴール」などの哲学書や思想書であった。貧しさゆえに勉学の機会を奪われたのである。彼が平凡な家庭に生育していれば、間違いなく作家で成功していただろう。永山則夫、97年に死刑が執行され48年の短い、そして不本意な人生に幕を閉じた。

日本人は忘れてはいけない---小平義雄連続強姦事件

小平義雄、終戦直後に世の中をパニックに陥れた強姦魔である。1945年5月から翌年8月まで若い女性7人を強姦し殺害した。彼は戦時中は、横須賀海兵団に所属していた。彼の凶暴性が最大限に発揮されたのが、中国の各地を転戦していたときである。中国政府が、なぜここまで日本政府に謝罪を要求してくるのか、その答えがこの小平義雄なのだ。だからこそ、すべての日本人は忘れてはいけない。中国大陸において、戦闘兵ではない一般家庭に押し入り、銃剣を突き立てて妊婦も殺害したという。大陸では、強姦や殺戮を繰り返したそうである。小平には戦争も平時もなかった。小平の性欲は、尋常ではなく、制御できないほどであったという。戦争犯罪人として処刑されるべきなのは、この小平ではなかっただろうか。1949年10月5日、死刑に処された。

 東京都港区赤坂の高級マンションで起きたバラバラ殺人

この凄惨な殺人事件は1967年に起きた。世間は事態が明るみになるや震撼していくことになった。犠牲者は銀座クラブのママさんで、トップマダムとしてTV出演したこともある知られた存在であった。殺された当時は28歳である。犯人は金融業者で、金銭トラブルが犯行の動機であったという。彼女は、風呂場でノコギリを用いて解体され、遺体の1部が各地に捨てられ、それらは次々に見つかっている。金融業者は少年を使って殺害し、遺棄したようだ。この事件が語り継がれたのには理由があった。それは、赤坂でその後起きた幽霊騒ぎであった。そのマンションの住人から「女の幽霊を見た」「深夜にノコギリで何かを切断する異様な音が聴こえる」などと管理人に苦情が出たのであった。近所の寿司店に女性から電話注文があり、それは犯行現場の部屋からだったらしい。さらにその銀座のクラブでも幽霊騒ぎがあった。新しいママは雇っても気味が悪くなって、相次いで店をやめてしまった。やがて閉店したという。それからである。バラバラ殺人が増加することになった。

驚愕の焼け太り---ホテル・ニュージャパンの横井英樹

横井英樹は「乗っ取り屋」として有名であった。特に五島慶太と組んで行った、後に東急百貨店となる「白木屋百貨店」乗っ取り事件で名を上げていた。彼が経営権を握っていたのが、ホテルニュージャパンなのであった。ホテルが、英国人宿泊客の部屋から火の手が上がり全焼してしまったのは、1982年2月8日のことであった。消防当局から再三防火設備の不備を指摘され、改善命令を受けていた。スプリンクラーは設置されていなかった。建物は違法な増改築を繰り返し、まるで迷路のような構造になっていた。それが犠牲者を33人も出してしまった原因である。現場は赤坂見附のそばにあり、利便性が抜群に良かった。火災の翌日、店長の私はこの付近で営業していた。まだ火事のなま生しい状況が残っていた。上空を取材ヘリが旋回していた。横井英樹は、この敷地を担保に1,000億円の融資を受けていた。それが、時はバブルの入り口であった。火災ホテルは廃墟のまま放置された。そして、その土地の値段が急騰した。地価は3倍以上に跳ね上がった。横井は逮捕され、有罪判決が下った。その後廃墟は更地になり、新しいビルが建設されている。しかし、幽霊が出た、という噂が絶えない。

アイドル岡田有希子飛び降り自殺---真相不明

人気歌手の岡田有希子が投身自殺したのは、1986年4月8日のことであった。世間に衝撃を与えたこの自殺。ファンによる後追い自殺が相次ぎ、良からぬ社会現象となった。現場のビル前には献花する人々が途切れなかった。そして2か月後に、騒ぎがやっと治まりつつあった6月18日のフジテレビ「夜のヒットスタジオ」放映中、生出演で中森明菜が「ジプシークイーン」を歌っていたとき、岡田有希子の亡霊が背後に出現して騒ぎになった。検証なども行われ報道され、幽霊事件に発展した。岡田有希子の自殺直後の遺体写真が週刊誌に掲載されており、その報道に非難が集まった。そして2000年7月19日に元マネージャーが事務所トイレで首を吊って死亡した。彼は真相を知っていたと云われる。

いたいけな少女ばかりを殺害---宮崎勤幼児誘拐殺害事件

宮崎勤の異常・猟奇性が大げさに報道され、世間の彼への処罰感情が沸きあがった。彼の毒牙にかかった幼児は4名にも。そして事件後、地元紙を発行していた実父は、心労が昂じて自殺している。多摩川への入水自殺であった。1989年2月、宮崎は殺した幼児の遺骨を焼いて遺族に送りつけている。それを1部食べたという。また、「今田勇子」名で犯行声明文を書いたりした。常人には為し得ない恐るべき犯行であった。しかし、その心の闇が解明されないまま2006年に死刑が執行された。彼は処刑前には、相当に死刑を恐れていたらしい。しかし、もう2度とこの世に現れてほしくない人物である。

すでに歴史の中だが、現在で起きても不思議ではない---ピアノ騒音殺人事件

隣人トラブルは今でも多発している。このケースは、加害者が音に過敏で、その異常ぶりに近所の住人は誰も気づかなかったところで発生した。

神奈川県平塚市の団地で不幸な事件が起きた。1974年8月28日朝9時30分頃である。8歳の長女、4歳の次女、33歳の母親が侵入してきた男に刺殺された。何度も包丁で刺されていた。ピアノといっても1日わずかな時間である。犯罪を誘うとは誰にも思われない。ところが、犯人の大濱松三をイライラさせるに充分であった。彼は風で窓ガラスが揺れても神経が荒れたのだ。こうして感情を爆発させた大濱にはいかなる制御も不能であった。

この事件、防ぐとすれば何か手だてがあるのだろうか。団地では難しいとはいえ、どんな隣人に囲まれているのか、まず把握しておくことである。

その前に今では音の出ないピアノもある。ヘッドホーンを利用するのである。それから家庭の防犯対策を万全にする。日頃から用心しておく。

特に団地ではどのような人物がいるか分かったものではない。