「遺書」は自殺する人が書き残す。生きる人は、そんなものは残さない。

そして、「遺書」は世相を敏感に反映する。特に10代の「遺書」には、その時代の

息吹が感じられる。冒涜するわけではないが、それは、「流行歌」の変遷のようで興味深い。

このコラムは、作品社刊行の「昭和・平成10代の遺書」をテキストにしています。

 

いじめ行為の狂暴化と金銭の「ゆすり・たかり」がエスカレート

平成6年11月27日のことであった。自宅の庭で首を吊って死んだのは、中学2年生の「大河内清輝」君である。この件は、大河内君が金銭を取られていたことが報道されて世間に衝撃が走った。遺書では、イジメていたクラスメートの実名は明かしていなかった。名前は出せない、と断っている。だが、金銭を巻き上げられた日を克明に記している。だが、理解できないのだが、大河内君は、自分をイジメていた少年をカバってさえいるのである。

遺書の1部「---そして僕からお金を取っていた人たちを責めないでください。僕が素直に渡してしまったからいけないのです---家族のみんなへ14年間本当にありがとうございました。僕は旅立ちます。でも、いつか会える日がきます---」これを読むと「大河内」君は「死後の世界」を信じているかのようである。

世間が驚愕した殺人--いじめの仕返しは10倍返し

昭和59年10月2日に発生したのは「仕返し殺人」であった。大阪市北区天満橋の大川から、頭部を激しく殴られ、さらに両目を潰された無残な遺体が発見された。被害者は大阪産業大高校1年生であった。ほどなく同級生二人が逮捕された。被害者は体格が良く柔道初段の剛腕である。その仲間であり、いじめ被害に遭っていたのが二人の加害少年である。金槌を使って70数回も二人で殴り続けたという。被害者の体格が良く、いつ反撃に合うか分からないので夢中で殴ったと思われる。さらに念を入れた。瀕死の被害者を大川に投げ込んだ。事件当日、二人の少年は「自転車泥棒」を働いた。殺害された被害者から強要されたのである。その盗んだ自転車に被害少年が跨ったところを後ろから金槌で殴りつけたという。加害少年たちは、「いつもいじめられていた。---もう殺すしかないと思いやってしまった」と供述している。同様の事件は、昭和63年に奈良県で起きている。こちらは中学2年生である。金槌ではなく「野球のバット」であった。

戦後40年を迎えた平和な社会---復活した「旧陸軍」

かつて軍隊内で陰湿な暴行が蔓延していた。意味もなく制裁を加えられ、執拗な「イジメ」にあい、自殺した「学徒兵」は数多くいたらしい。ほとんどは「戦死」とされたため公式記録には記載されていないようである。そして昭和60年代に騒ぎになったのが、中学校や高校での「いじめ自殺」である。覚えている方もいるだろう。昭和61年2月1日に、東京都中野区立富士見中学校2年生「鹿川裕史」君(当時13歳)が首吊り自殺した。場所は父親の実家に近い盛岡駅前であった。鹿川君の遺体の足元に遺書が置いてあった。「突然、姿を消して申し訳ありません。まだ死にたくはない。---だけどこのままじゃ生き地獄になっちゃうよ---」遺書には彼をいじめていた級友たちの実名も記されていた。中野署の調べで実態が判明している。富士見中学校では、鹿川君への陰湿ないじめが連日繰り返されていた。昭和60年度から平成6年度までの10年間で、公立の小・中・高に絞っただけで、毎年2万件を超えている。なかでも昭和60年度は15万件を超えていたのだ。公立学校の「軍隊化」と表現したくなるほどである。

永遠への憧れ---成熟拒否して自殺

昭和63年5月31日午後7時50分頃に、千葉市に住む会社員の長女(当時12歳)が新小岩のマンションから身投げして死亡した。少女は市立中学の1年生であった。持っていた生徒手帳から身元が判明したが、遺書が書き記されていた。「---あと何年かしたらおばあちゃんになってしまう---」などと書かれていたという。死にたくなるほどの現実だろうか。この時代には、これは「特異な考え方」ではなかったのかも知れない。少女は祖父母との同居ではなかったのだろう。もし同居なら、起こりえなかった自殺だと店長には思えてしまう。これらの事例に戸惑いを隠せなかった世間であるが、これは「成熟拒否」と理解されていた。

昭和50年代、悩み多き「小学生」の出現---”哲学”自殺する子供たち

この、経済成長の最終章の時代背景を見ておこう。少子化がようやく社会現象として現れたころである。核家族化が進行し、「家族団らん」が死語化しつつあった時代。人生に疑問を抱き、苦悩するほど孤絶し、老成する小学生の出現であった。両親が共働き、子供部屋を与えられ、食事も一人のことも多い。親との関係は希薄し、小学生の心が癒されるものは、ゲーム機やテレビだけになっていた。家族の解体は、小学生の孤独を生んでしまった。自殺まで走ってしまう子供は少数に違いない。だが、着実に数を増やしていたのだ。「生きていくのがいやになった---」「ちがう人生を生きたい---」この文言は「遺書」によくあるものだ。だが、普通は中高年の人がしたためる。ところが、これを小学生が書き残すようになってしまった。平成7年1月6日愛知県知多郡内の会社員宅で小学6年の長女が首を吊っていた。母親が発見して病院へ搬送されたが助からなかった。鉛筆書きの遺書には「---育ててくれてありがとう。---生きていくのが嫌になった」とあった。何を悩んでいたのか分からないが、同じようなケースはいくつも報じられている。

昭和40年代の大学進学ブーム---時に自殺という悲劇を生んだ

次に紹介する自殺には、関西ならではの”笑えぬギャグ”を感じるのだ。場所は大阪府堺市である。昭和48年4月12日に発見されたのは、長坂久志さん(当時19歳)であった。久志さんは、昨年高校を卒業し1年浪人していた。だが不幸にもその1年の努力は実らなかった。再び受験に失敗していた。受験ノイローゼである。状況から「不合格を苦にして」首を吊ったらしい。その久志さんの姿に家族は唖然とした。彼は、英語の辞書や受験参考書、問題集を背負っていたのであった。およそ8㌔はあったそうである。天国でも受験勉強を続けるつもりだったのだろう。痛ましい自殺であるが、なぜか「可笑しさ」がある。関西でなければ起きないように思う。

「死後の世界を検証する」ため---死んでみます

この「実験」も高度な探求心から行われた。現在では「あり得ない」自殺である。それは昭和48年4月17日、毎日新聞東京本社に1通の「手紙」が届けられた。千葉県鋸南町の高校生「谷口俊雄」君(当時15歳)であった。「私は自殺を計画しました。実行予定日は4月15日です。---私は死後の世界というものを信じています。それを確認するために死んでみることにしました---鋸山で高校生の男子が自殺をしていたら、それは私です」驚いた新聞社が調べたところ、本当に谷口君はその地で投身自殺を遂げていた。昭和40年代から若者に広がったものが「超能力、予言、心霊術」である。合理的判断が及ばない領域のブームが始まっていた。谷口俊雄君は、新高校生で中学時代は学年で1,2番を争う秀才であったらしい。この「事件」に関して心理学者の「加賀乙彦」や「大原健士郎」がマスコミからコメントを求められたが、どう理解すればいいのか戸惑いを隠せなかったようである。世間には理解できる大人たちはいなかった。

17歳の青春はテロリスト---社会党委員長暗殺事件

今でも度々17歳少年が重大事件を惹き起す。だが、「和歌」を詠むような多少なりとも知性を感じさせるような少年はいない。少なくとも、「浅沼稲次郎社会党委員長」を刺殺した少年には「知性」を感じてしまう。彼が詠んだとされる和歌である。「ちはやぶる神の大御世とこしえに仕えまつらん大和男子は」17歳のテロリスト「山口二矢」辞世の和歌である。事件は1960年10月12日の日比谷公会堂で発生した。この日、学生服に短刀を忍ばせた小柄な少年が公会堂に向かっていた。立会演説会が行われ、安保条約を巡っての狂乱と喧騒に日比谷公会堂は包まれていた。正面壇上には、「浅沼稲次郎委員長」がしゃがれ声で演説していた。ヤジ、怒号がこだましている。予定の時間が迫っていた。そのとき、舞台の右下通路にいた少年が壇上におどり上がった。少年は両手で短刀を固定し、大柄な委員長に突進した。そして倒れ込もうとする腹部の短刀を引き抜き、さらに攻撃する。山口は、60年安保闘争が盛り上がる中で「大日本愛国党」へ入党していた。日本にも「共産革命」が起きるかも知れないと、本気で考えていたようだ。だから、委員長を刺せば社会党に打撃を加えられると思っていた。取り調べで、彼は「後悔はない。大義を実行したまでだ」と云ったという。11月2日、「山口二矢」は東京少年鑑別所で首を吊った。その壁には、歯磨き粉を使った古典的な文字が残されていた。「七生報国、天皇陛下万歳」山口二矢、享年17、七度生まれ還ってなお陛下にお仕えしたい。その大義に殉死し、本懐を遂げた孤独な魂であった。純粋な17歳、果たして彼は幸福だったのだろうか。(この項は「歴史に埋もれた重大事件」とコンテンツを共有しています)

ビートルズを聴きながら---ガス自殺

目黒区に住む木見不二江さん(24歳)は、昭和46年12月12日に自室でガス自殺した。彼女は籐椅子にゆったりと腰を掛けマフラーの編み物をしていたようだ。テーブルには飲みかけのワイングラスがあった。ゴージャスな死である。さらにステレオの電源が入っていて、「ビートルズ」のレコードがセットされていた。曲は分からないが、店長はこれを「Let it Be」ではないかと推測する。なぜなら、この曲こそ「ビートルズ」がインド旅行中に「般若心経」と出逢って魂を触発されて作られた曲だからである。

若者が獲得した新しい「死生観」---「心霊への関心」

昭和40年代の顕著なもう一つの傾向が「霊的」なるものへの関心である。まだ「スピリチュアル」という言葉はなかった。世の中が安定しており、1億人が総出で「中流」を目指していた時代でもある。身の回りに物質があふれていた頃、青少年に広がっていったのは、「精神的欲求」である。世の中や自己の在り方を探求しようという水準以上の賢い頭を持った青少年の過去には例をみなかったブームの到来である。それがまた新たな「自殺」を引き起こしたのだ。

昭和47年8月25日午前零時頃、群馬県藤岡市郊外の墓地で抱き合って首を吊っている二人の少女が発見された。同じ中学に通う1年生の佐藤牧子さんと佐倉久美子さん(ともに12歳)である。佐倉さんのノートには遺書のようなメモがあった。「佐藤さんから自殺を誘われたので、私も死ぬ。死んだら佐藤さんは18世紀のフランスへ、私は19世紀のイギリスの神様になる」と書かれてあったという。佐倉さんは大の漫画フアンであったようだ。相当漫画の影響を受けているのだろう。また、このころから死後の世界が論じられ、憧れを抱く人たちが増加した。

昭和40年代には、「シンナー中毒死」の他に、クルマを使ったあり得ない「暴走自殺」が起きていた。

無関係の家族4人を巻き添えにしたのだ。事故を追ってみたい。昭和43年11月24日に静岡県富士宮市の国道で正面衝突事故が発生したのだ。センターラインを越えて事故を引き起こしたのが、タクシー運転手の「和田清一」である。彼は、事故当時25歳であった。結婚を申し込んだが相手に拒絶されヤケになった。だが、道連れにした人たちが、どの犠牲者も彼とは無関係である。それに結婚を申し込んだ相手でもない。この腑に落ちない「無理心中」事故は、現在の「人を殺して見たかった」に共通する「不可解さ」があるだろう。まず、同乗させられて大けがをしたのが、「和田清一」が旅館に投宿して呼び出した「旅館コンパニオン」であった。事故の相手は無関係の家族4人が乗っていたクルマだが、衝突で大破し全員が死亡した。信じられるだろうか。本人は頭に軽傷を負ったのみ。死ぬなら一人でやれよ、と云いたくなる。さらに、「和田清一」は、鉛筆書きの遺書を遺している。「おかあさん、あにき、武さん、さようなら。さっちゃんと会っているときが一番楽しかった---」この「さっちゃん」が、結婚を申し込んで断られた女性のような気がする。なんだろう、このエゴイズムの発露。稚拙な遺書。店長は何ともやりきれない。

平成4年に起きた「女子中学生シンナー集団自殺事件」を紹介したい。12月31日、水戸市内のマンション7階の踊り場から、5人の女子中学生が次々に飛び降りていった。目撃した近所の住民からの通報で警察が駆け付けた。3人はすでに死亡。1人は重体になり、もう1人は重傷であった。水戸警察署で事情が調べられた。5人は大の仲良しであった。「死ぬ相談がまとまり、恐怖を和らげるために5人でシンナーを吸った」という。動機は、5人が友人から借りたお金を返さず、リーダー格の少女は「救護施設に転籍させられていた。その少女が施設を抜け出して他の4人を呼び出した。少女が施設に戻れば「罰」が待っている、と話した。5人の少女は苦悩する。「もう、いっそのこと---死を選ぶ」ことになったのである。周囲の保護者や先生たちには、とうてい理解できなかったのではないだろうか。

豊かな社会の実現は、戦中・戦後時代を成長した人々の悲願でもあった。ところが、社会がそれを成し遂げたと思いきや、青少年の現状への不満が爆発すると云った「負」の側面をもたらしてしまう。その社会的現象は、昭和40年代に巻き起こった。それが、「シンナー中毒」によって引き起こされた自殺や事故死の増加であった。現在のような「大麻」「薬物」よりは簡単に入手出来たのだ。その発端となった事件は、昭和40年2月,群馬県太田市で発生している。この軍需産業で発展してきた地で、6人の高校生がシンナーを吸ってラリっていたところを「補導」された。この事件のせいで、太田市は「シンナー中毒発祥の地」という有難くない称号を手に入れた。当時シンナーはどこでも買えた。薬局でも文具店でも購入できた。この「太田市高校生シンナー事件」が昭和43年11月10日に東京新聞で報道されて以来「シンナー中毒ブーム」が全国で沸き起こってしまう。

漁船に忍び込み、密室の船首ハッチ内で集団窒息死した高校生。昭和44年6月13日に呉市に繋留してあった漁船に忍び込み、シンナーを遊びをしていた5人の少年の遺体が発見されている。この事件以降、「集団自殺」に至るシンナー事故が多発した。このブームは長く続き、昭和50年代になっても終焉を見なかった。日常に不満を抱え、勉強も嫌いな青年たちは、シンナー中毒による「幻覚」の中に逃避した。しかも数人の仲間で実行することが多く、集団化、低年齢化していく。これは、ときに精神錯乱を引き起こす。最近では、違法ドラッグのほうが、むしろ入手し易くなっている。

昭和30年代に女性の間に新しい価値観が生まれた。日本人の「美人」への憧れであった。

米国の映画・音楽が雪崩のように流入してきた。朝鮮戦争特需を経て、日本人の間に「心のゆとり」が芽生えてきた時代である。昭和25年第1回「ミス日本」に選出された「山本富士子」はあっという間に「人気女優」になった。さらに昭和28年、モデルの「伊東絹子」は「ミスユニバース第3位」となり、「美女」への国民のあこがれは頂点に達したのであった。「整形手術」が流行したのも無理はない。そして「整形失敗のケース」も多発し、それを苦に自殺する若い女性の悲劇もとどまらなかったという。昭和45年4月25日付けのサンケイ新聞に「整形の跡が良くならないので死にたい。私が死んだあと、他人に顔を見せないで下さい」という遺書を残して渋谷区幡ヶ谷在住の女性(27歳)が自殺したと報じている

唄は世につれ、と歌謡曲はかつて紹介されていた。このコラムでは、「自殺」は世につれ、と云うべきだろうか。

この時代、想定外の意表を突く自殺が際立って流行していた。昭和24年、25年である。例えば、大阪市北区の場合、市バス屋上では「盆踊り」の最中であった。その踊りに加わっていた男性従業員が、バッテリー用の「濃硫酸」を飲み、そのままビルから身を躍らせた。昭和24年8月19日の大阪新聞が伝える。人員整理のうわさが駆け巡っていたらしい。その従業員は「西山広二」さん当時21歳である。戦後の混乱期である。この時代、失業者も多かった。だから「死」を決意するには十分な理由である。

2000年に流行の兆しを見せたのが「通り魔殺人」である。理由は「人を殺す経験をしてみたかった」である。だが、この時代、そんなことを夢想する青少年などいなかった。誰もが「食べるためには必死であった」からである。

もう一つ、昭和32年8月13日頃の事例を紹介しておきたい。現場は三重県名張市内の山頂付近、男性の膝下の1部が見つかった。そして50㍍にわたり肉片が散らばっていた。ダイナマイトで自爆したらしい。岩の上には男女の衣服が揃えて置いてあった。手提げかごもそばにはあった。その中に「遺書」があり、その書かれた文面が報道された。男女は和歌山県の「森山征治君(21歳)」と「宮原富子さん(17歳)」であった。遺書には「別に死ぬ理由はないが、世間を驚かせるため」とあった。男女は相愛の仲であったという。現代風に云えば「自分を殺してみたかった」である。彼らも、あまりにも自分本位であり過ぎる。戦後、米国流の「個人主義」がもたらされたが、その弊害ともいえた。

一攫千金の夢破れ---覚悟の自殺

的中しないのが「常識」の「宝くじ」である。最近では、くじの当選金が高額になり、発売日前にはテレビCMが放映される。買えば当たるような気分にしてくれるから不思議だ。この夢のような「宝くじ」であるが、街かどの易者に「当たる」と云われて大量に購入した人がいた。彼はどうなったのか。当然的中などしなかった。そればかりか、「宝くじ」が外れたのを苦にして「自殺」してしまったのである。昭和の事件だが、平成の人たちには、どうしても信じられないであろう。昭和22年12月26日に和歌山市で当時24歳の職人「西野和彦」さんが、購入した「宝くじ」がすべてはずれたので「生きる力」を失ってしまい自殺したという。翌年正月の「大阪時事新報」が報じている。大正・昭和初期の哲学的な「苦悩」と比べてみて、なんという「差異」だろうか。現代から考えるとどうも腑に落ちない。愚かな行為と思ってしまう。「宝くじ」に外れることは、何も「死」を覚悟するほどの特別な事態だろうか。解せない。ただし、終戦後の混乱が色濃く残されていた時代である。その時代背景を考えて見なければ、単なるおバカな話になってしまう。

「五輪は国威発揚」---重圧に負けた男子マラソン・ランナー

昭和39年の東京五輪、国立競技場に悲痛なため息がもれた。二番手で競技場に戻ってきた「円谷幸吉」の背後には、追い抜こうとする英国の選手が迫ってきたからであった。「円谷幸吉」は、男子マラソンで「銅メダル」を獲得した。不振の男子陸上界にあって、それは「壮挙」とも云えた。女子バレーボールの「金メダル」もそうであったが、国民全体が感動に包まれた。自衛官の彼は、二階級特進を果たす。次回の「メキシコ五輪」への「金メダル」の期待が異常に高まった。だが、彼は「椎間板ヘルニア」という持病を抱えていた。さらにアキレス腱が悪化していた。五輪後の競技には、無理をして出場したが、成績は振るわなかった。新聞は、無責任に情け容赦なく彼を責めた。「迷えるランナー・薄れゆく五輪の栄光」などといった活字が躍ったのであった。元来責任感の強い彼であったが、「もう走れない---」という苦悩は、彼にとって「人生の終わり」を意味した。彼は「遺書」をしたためた。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。---幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。---ご心配お掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様のそばで暮らしとうございました」

この「遺書」は公開されたのだが、当時は大きな反響を呼んでいる。また、ノーベル賞作家の「川端康成」は、この韻律のある「遺書」を激賞した。父上様、母上様のあとに兄弟や親類への感謝の一文が続く。それには、次回の五輪には、もう期待に応えられないという「無念」さが哀切をもってにじみ出ていた。

「自殺クラブ事件」

昭和24年に世間を騒がせたのが、なんと「自殺クラブ」であった。これは、英国の作家「スティーブンソン」がロンドンの退嬰的な若者を描いた小説の題名であった。それが一般に広がったものである。1月7日である。大阪・北野高校2年生の男子生徒二人、川本悟郎君と山口忠明君が、兵庫県宝塚市の渓谷で服毒自殺していた。終戦後、あらゆる価値観が逆転する中で「虚無的な思考」に偏る青年たちが多く存在した。彼らは「わだつみ会」という「哲学研究会」を作り会誌も発行していた。創刊号には、「人生に対する懐疑」が書き連ねてあった。さらに5月31日には、メンバーの村上邦弘君(18歳)が奈良県で服毒死を遂げた。彼は「自殺協約書」なる誓約書を持っていた。その同人クラブのメンバーには1年生の女子生徒もいた。1月7日には、彼女も自殺するつもりで大阪駅まで出かけたが、先の二人に会えなかった。それは彼女が運悪く、待ち合わせ時刻を間違えていたからであった。そうして、この女子生徒は服毒を免れていた。さらに、若すぎる死を選んだ彼らは、原稿用紙4枚に、交互に遺書を書残していた。高校生たちは、退嬰的に死を弄んだのではなかった。彼らの”遺書”には、いたって真面目な面がにじみ出ていた。ごく普通の高校生が、しごく真面目に人生と向き合い、そして「自殺クラブ」という生き方を選択した。「いじめ」を苦にする現代の「自殺」とは違う彼らの「苦悩」が分かる気がする。

「大学紛争」の陰で自殺

福島県いわき市の砂利倉庫で、若い男性の首を吊った遺体が見つかった。昭和44年元旦のことである。自殺していたのは、当時19歳の安雄君である。彼は、日立製作所に勤務しながら東大受験のために勉強していた。遊びたい盛りであるが、大望を胸に秘め猛勉強に人生を費やしていた。生きがいといっても良かったのだ。ところが、世の中は「大学紛争」の真っ盛りであった。入学試験を取りやめる大学が続出した。そして、安田講堂事件の東大でさえ例外ではなかった。安雄君の失望と落胆は、想像もできない。彼は「手紙」を遺して行方不明になった。その「置き手紙」には、国や政府それに大学紛争を批判していた。家族には生前「東大の入試が中止されたら自殺したい」などと云っていたという。当時、「大学生」とりわけ「東大生」になることは、現在の「勝ち組」になることでもあった。価値観がまったく違うのだ。それを理解しないとこの事例は理解しがたい。

再び敗戦後の日本に戻りたい。

太平洋戦争が青少年に与えた負の影響は計り知れなかった。国民の6人に1人は失業しており、餓死する人が続出していた。そのような過酷な敗戦後を若者たちはどのように生きたのだろう。せっかく激戦地で生を得て、生きて帰還するも「トラウマ」はどうしようもなかった。帰国後数年を得て自殺するものは、「死んだ戦友に済まない」という自責の念から逃れられなかったのだ。昭和26年5月8日、硫黄島で事件は起きた。この激戦の島で、元海軍陸戦隊蔭山光雄(当時26歳)が、守備隊本部があった「摺鉢山」から投身自殺したのである。硫黄島は在日米軍の管理下にあったので、蔭山は「洞窟に遺した日記を探すために硫黄島へ渡航したい」と申し出ていた。それが認められて、米軍機で島へ渡ることが可能になったのである。だが、目的は果たせなかった。洞窟をくまなく探してみたが発見できなかった。蔭山は落胆し、同時に、その当時に島で命を落とした仲間たちに「生きていること」が申し訳なかった。彼は山頂まで登り「天皇陛下バンザーイ!」と叫んで身を投げたのである。蔭山と同乗した空軍司令部の「グリフィン」は戦史課員で、日記の資料的価値に関心があったので硫黄島に同行していた。彼は、蔭山から「23,000人も死んでしまった。自分が生きているのがつらい---」と何度も聴かされていた。期せずも、グリフィンは蔭山投身自殺の「立会人」になってしまった。

人生は七転び八起---死ぬ前に思い出して欲しい「格言」ではある。

昭和52年4月17日、茨城県取手市で起きた当時25歳男性のガス自殺。彼は優秀な高校時代を終えているが、どうしても東大医学部に入りたかった。早稲田理工学部に合格しているが、彼はあくまで東大医学部志望であった。そのため7度もチャレンジしていたのだ。店長は頭が下がる思いである。東大偏重時代の受験戦争が生んだ「悲劇」であるが、高度経済成長の爛熟期には、こうした受験失敗を苦にする自殺は、決して少なくはなかったのである。店長なら、喜んで早稲田に入学しただろうに。

もう少し「柔軟」に考えられなかったのだろうか。もし彼の目標が優れた「医師」になることであったなら、「東大医学部」でなくても「慶応医学部」でも良かったと思うのだ。

ここで、少し時計を進めてみる。高度成長を成し遂げて、成熟した管理社会に向かっていた時代である。

その自分への反感は、自殺願望となって自分を苦しめてしまう。遺書に「人気歌手」「人気アイドル」の名が残される例は昭和の初めごろから散見された。そして「あなたを愛しています」と、スターの偶像を理想化し、反対に自己を矮小化してしまう。「いっそ消えてしまいたい」という願望は肥大化して手がつけられなくなる。昭和49年5月21日午前10時20分頃、神戸市須磨区の市営住宅の路上で、若い女性が死んでいるのが発見された。女性は、大阪府立高校の2年生であった。カバンの中に「遺書」があった。そこには、行動予定のメモ書きと遺書らしきメモが残されていたのである。さらに、当時人気絶頂であった「郷ひろみ」の名前が書いてあり「あなたを愛しています。あなたのそばに行ければ---しあわせ」と記してあった。当時、「郷ひろみ」は、女性的な優しい顔立ちもあり異常なほどに人気があった。さらに昭和51年に熱狂的なファンの22歳の女性がガス自殺を遂げている。彼女は遺書を残していた。それには「さようなら。郷ひろみさん。あなたを死ぬほど愛していました」と記してあった。ほかにも「吉永小百合」「山口百恵」さらには「沢田研二」などが挙げられる。もちろん自殺を選んだ人たちは「郷ひろみ」の実体を知らないし、「愛していた」のは「偶像=アイドル」であって本人ではない。店長には、とても理解できない。ただこれだけは云えるだろう。青少年の行き場のない「閉塞感」が世の中に広がっていたのだろう。「いじめ」が大きな自殺の要因になるのは、平成になってからである。

満州国皇帝一族の娘が心中した。身分の違いは、まだ当時はどうしようもなかった。恋人と二人で天城越えはできなかった。「あの世で幸せになろう---」と、愛し合う二人はピストルによって心中した。1957年(昭和32年)12月10日。1週間前から捜索願いが出されていた、学習院大学学生の「愛新覚羅えいせい」さんと「大久保武道」さんの若いカップルである。「えいせい」さんは、最後の皇帝「愛親覚羅溥儀」の実弟の娘である。だから「姪」にあたる。「大久保武道」さんは東北出身。皇族ではない。終戦によって大衆化された学習院に進学した。もし皇族であれば、身分の違いを苦にしての心中などは無かっただろう。身分制度も終戦で終わりを告げていたが、社会慣習として、まだ根強く残っていた。遺書が学生寮舎監に届いていた。覚悟の心中であった。この悲劇ののち、恋人同士で交された手紙をまとめた「われ御身を愛す」が出版された。そしてこの書はベストセラーになった。「もう身分など関係ないのに---なぜ死など選んだのだろう」そんな疑問を当時の日本人は誰もが思った。だが、愛親覚羅家の二人の結婚への反対を誰も押し留めることなどできなかった。世が世ならば、敗戦などが無かったなら、「えいせい」さんは、名門中の名門の血縁である。彼女は、正真正銘のプリンセスなのであった。同時にまた、「大久保」青年と出会うことなどもなかった。戦後12年を経過していた。しかし皮肉にもこの翌年、社長令嬢の「正田美智子」さんが、民間人として初めて、現平成天皇とご結婚された。店長は、「えいせい」さん心中事件が皇室に影響を与えたのではないかと考えている。

戦後復興の陰で叶わなかった純愛---天城山心中事件⇒「歴史に埋もれた重大事件」へもお立ち寄り下さい。

本当に軍部は発狂していたのではあるまいか。この戦争は「資源」を求めるのが「目的」だったはずである。そのため、アジア南方に目を向けた結果、米国と戦端を開いてしまった。戦争末期になると「1億全員自殺」というとんでもない発想があったようだ。それを現在も伝えているのが、サイパンの通称「バンザイ岬」(マッピ岬)である。店長も訪れたことがある。このサイパン島では、守備隊のほか民間日本人家族に対しても軍から「自決せよ」と命令が出されたという。飛び降り自殺は1,000人とも1,500人とも云われている。そろって「バンザイ」と叫んでは次つぎと投身したそうだ。米兵は驚いた。「死んではいけませんー!」という日本語で呼びかけたが、思い留まる日本人は1人もいなかった。戦争末期には「死ぬこと」が目的になっていたと思える。これは「国家の犯罪」でなくしてなんであろうか。

戦争中の日本では、さまざまな言葉が新語に置き換えられた。「退却」を「転進」と云い、「全滅」をわざわざ「玉砕」と置き換えたのである。そして「自殺」を「自決」と置き換えた。言葉を置き換えることで何を狙っていたのか、なにやら現代でもありそうなバカげたことである。本質を国民から遠ざける手法であった。特攻機での戦死を「散華」と称して賛美している。実際には「戦果」を挙げたわけではなく、もたもた飛行して割と容易に撃墜されていたらしい。それにも関わらず「散華」として新聞には称賛されていた。また、軍人の妻が戦死した夫を追って自殺する事例が続出したらしい。これらをおバカさんと糾弾する人などいなかった。すべて「軍人の妻」がとった当然の行いとして称賛されている。国全体が狂っていたと言わざる得ない。妻の後追い自殺について、次の事例を紹介する。昭和12年、戦死した佐藤主計大尉(当時34歳)のあとを追って夫人梅子さんは、結婚式の花嫁衣裳で自殺している。「玉翠館」という新婚旅行で宿泊したと同じ部屋を取り、伊豆熱川の海中にその衣装を着て身を投じたという。戦後の焼け跡でさえ知らない団塊の世代以降の日本人には、想像もできない行為である。

次に紹介する遺書は、「神風特攻隊員」のものだ。沖縄周辺で戦死した「永田吉春」さん(当時18歳)である。たぶん、いまではこのような文章の書ける若者など探す方が無理ではあるまいか。遺書にいう。

「打ち捨てき この世の未練なきものと

 夢にぞ想ふ 父母の顔

嵐吹く 庭に咲きたる神雷の

 名をぞとどめて 今日ぞいで征く

巣立ち征く 南の空に海鷲が 

 帰るねぐらは 靖国の森

すだち征く やよいの空に今日も又

 帰らぬ友は 微笑みて征く」

いじめによる自殺は、実は軍隊から起きていた---戦争の時代に自殺が減らなかった理由

「軍隊は生き地獄、もう死んだ方が楽だ---」こう書残して縊死した初年兵は後を絶たなかったらしい。公式記録にはほとんど残されなかった。軍隊内では戦死と記録されたらしい。それは、軍の名誉を守るためもあるが、遺族年金の支払いに配慮した結果でもある。戦争後期になると「学徒出陣」が行われたが、その学生出身兵への体罰は、ほとんど集団リンチに近いものであったそうである。大学生は圧倒的に社会の少数派であり、貧苦の家庭出身者の古参兵からみれば、嫉妬や憎しみの対象であったことが容易に想像できる。「このままでは、生き地獄になっちゃうよ---」は、平成の「いじめ」による自殺してしまった少年の遺書である。どこか似ているような気がする。

社会的認知が進む現代では皆無?---女性の同性愛心中事件

昭和初期に際立った女性同士の恋愛である。戦後の米国から自由な恋愛が上陸してきたが、戦前の「レズビアン」増加も多様化する恋愛の「特殊な形態」であった。現在では、「行政サービス」も等しく受けられる役所や企業もある。だが、まだこの時代においては、「エロ・グロ」の域をでなかった。世間からは「狂人」として排斥されたのだ。そこで「死を選ぶ」同性愛者は決して少なくはなかった。昭和7年6月25日の「時事新報」では、相次ぐ女性同士の心中事件を報じている。さらに他の新聞でも各地で「レスビアン」心中が報じられている。まるで、花盛りの様相を呈しているが、この時期に何が起きていたのだろうか。不景気や政治への不信など、現在でもよくある世相である。男への嫌悪も背景にある。昭和に入り、女の意識が変容してきたことが一番である。

一大ブームになった自殺の連鎖---”聖地”三原山

昭和を代表していた自殺の名所と云えば「三原山」である。まるでツアー客のように「自殺志願者」が連日押し寄せていたというから驚く。昭和10年頃の世相である。後に成立した「劇場型犯罪」あるいは「模倣犯」という現象が俗世間を歩き回ったのであるが、これは「劇場型自殺」あるいは、「模倣的連鎖型自殺」とでも定義すべきだろうか。いきさつを振り返ろう。昭和8年2月12日、高等女学校2年生が三原山の火口に飛び込んで自殺した。当時22歳の彼女は、男尊女卑の制度・風習を徹底的に嫌悪していて、「そういう社会に未練はない」と遺書をしたためて死を選んだのである。さらに「新しい試み」とも云えるのだが、彼女の自殺を見届ける「立会人」が同行していたのである。さらに「立会人」付きの自殺者がもう一人いて、これらがセンセーショナルに報じられたのだ。この報道の直後から伊豆大島へ向かう連絡船は「自殺志願者」と「立会人」、さらには「自殺の見物人」で乗船する客が膨れ上がったという。その他に驚くべき「自殺」も報告されている。昭和8年7月3日付け「時事新報」が報じている。見物人から「誰か火口に飛び込む人はいないか!」という声が上がり「よし、オレが逝く」と返事がして一人が身を躍らせたという。信じられるだろうか。27,8歳の労働者風の男性であった。男性は遺失物を遺していたので、身元が判明している。

映画になった「坂田山心中」事件

神奈川県大磯町坂田山で、慶応大学生の調所五郎と湯山八重子が心中した。昭和7年5月9日であった。理由は、結婚を反対されたからである。現在では、およそ考えにくいことであるが、当時の恋愛には、悲壮感があり、そうした悲恋の恋人同士も多かった。結婚とは、家柄と家柄が結ぶことであった。だから、世間には結婚を苦にした自殺も数多く存在した。心中事件は「天国に結ぶ恋」として大々的に報じられた。甘美な死に憧れる若者のこころを惹きつけてしまった。だが、この二人の家柄は違えども、現代から見ても違うほど違っているわけではなかった。調所五郎は男爵一族であるが、一方の湯山は静岡県素封家の一人娘であった。おそらく湯山家には婿養子が必要だったのであろう。二人は同じ教会に通ううちに恋人になった。そして死後、検視が行われたが、彼女は処女であった。つまり、一般には上流階級出身の学生が教会といった清純な場所で知り合い、清純なままで死んでしまったのである。世間の共感を呼んだのは、無理もなかった。しかし、平成の現在では考えることすらできないものだ。

永遠の古典「華厳の滝」の樹木に彫られた遺書

明治36年5月である。第一高等学校の生徒であった「藤村操」(当時18歳)の遺書が発見された。それ以後、「華厳の滝」は自殺の聖地となり、それは昭和初期まで続いたのである。

遺書に云う「悠々たる哉、天壌。遼遼たる哉、古今。五尺のしょうくを以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に何らのオーソリテイに値するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す。曰く「不可解」我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る---」

理解できない。明治期の青年は、生に煩悶し「不可解」と結び、滝つぼに身を躍らせたのだ。なんと純粋な精神の持ち主だったのだろう。好きな女はいなかったのだろうか。不思議でならない。

昭和元年から不況が深化し、社会不安が拡大---「芥川龍之介の死」

流行語になった「ただ、ぼんやりした不安」で服毒死を選んだ人気作家、芥川龍之介であった。およそ、大衆読者のアイドルとなった最初の作家がこの芥川龍之介である。当時は次々と話題作を発表し多くのファンの心を掴んだといわれる。ちなみに「芥川賞」はこの作家の名前である。

当時の世相はあまりにも暗いもので、「昭和」とは「明るく陽気な平和の時代」という期待とはほど遠かったのだ。関東大震災で甚大な被害を被り、さらに世界的な景気後退に日本経済もさらされていた。現在でも不安はある。あるが「もう食えない」と思わざるを得ないほど、失業者も溢れかえっていた。芥川龍之介に同調して死を選んだ若者は、なんと50名以上に及んだという。

ユッコ・シンドローム---アイドルの死を認めたくなかった少年たち。

昭和61年4月8日昼過ぎであった。アイドル歌手として人気急上昇、テレビドラマにも主演がきまり、将来の「サン・ミュージック」を背負って立つとされた「岡田有希子」が、その所属事務所が入居する新宿のビルから飛び降りた。これが、当の4月だけでも5人の後追い自殺を生むことになる「ユッコ・シンドローム」のきっかけであった。若者の自殺は続き、さらに4名が遺書を書いて死を選んだ。どの遺書にも「岡田有希子さんのところへいく」と書かれていたのである。

究極のいじめ---目の前で自殺させる。

平成元年12月28日の朝日新聞に驚愕の記事が踊っている。新潟県南魚沼郡内で発生した、女子中学生飛び降り自殺。その前年の5月に塩沢町の中学生(当時13歳)は、級友3人にいじめられていた。「秘密をばらしただろう、謝れ」と云って迫られ、さらにベランダに連れ出され、「そこから飛び降りたら許してやる」と飛び降りを迫られていたという。この事件が「いじめ」によるとして告発したのは、被害者少女の両親であった。両親の依頼で、原因を突き止めたのは民間調査会社である。学校ではなかった。一般に学校側は事実を把握しても、表面には出さない。事なかれ主義が横行している。防ぐ力もなければ、事実を追求する力もない。