昭和、平成の金融事件に光を当て、その歴史的・社会学的考察を試みようと思います。

それが戦争に繋がったのか否かを社会学から考えて見ます。

さらに、「お金」が引き金になって引き起こされた社会的影響の大きい犯罪にも言及します。

意欲的なコンテンツをめざします。ぜひ応媛お願いします。

死刑制度廃止論者の弁護士、妻を殺害され「犯人に極刑を!」

山一証券が自主廃業を申請したのは、1997年11月24日である。この山一証券の関係者が二人も殺人被害に遭っている。まず8月14日、監査部顧客相談室長(事件当時57歳)が、大田区の路上で刺殺された。そして、10月10日代理人弁護士「岡村勲弁護士夫人」が小金井市の自宅で襲われ刺殺された。襲った犯人は、山一の有力な顧客で、1億円を超える大金を運用していたそうだ。そして苦情処理を担当していたのが「岡村代理人弁護士」である。岡村勲氏本人は、この日は不在のために無事であった。警察は、山一證券相談室長殺害の重要参考人として、すでにこの男をマークしていたという。だが、犯人のアリバイを崩すことが出来たのは、弁護士夫人殺害事件だけであった。「岡村勲弁護士」は、人権派として知られ、死刑制度には反対を表明していた。だが、自分の身代わりに殺されたのは他ならぬ妻であった。彼は法廷でこう訴えている、曰く「犯人に極刑を!」だ。では、なぜ男は山一證券を恨んでしまったのか。それには、当時の証券会社を取り巻く状況を知っておく必要がある。良く非難されていたのが「証券会社による損失補てん」である。これは、損を出したVIP待遇の有力顧客の損失を丸ごと被ることであった。VIP待遇されていたのは、例えば大物政治家や暴力団幹部などである。犯人の男は逆恨みをした。「結局---悪い奴らが得をする---」そう思ったときに、彼はナイフを忍ばせて、弁護士宅を目指していた。彼は、「宅配便業者」を装っていた。だが、弁護士は留守であった。応対に出た妻に偽物だと見抜かれてしまう。彼は咄嗟にナイフで妻を刺していた。この事件後、岡村勲弁護士は、被害者遺族の「人権」を回復させるために東奔西走することになる。当時の司法制度のもとでは、加害者の人権だけが守られ、反対に被害者の人権は無視されていたのである。

闇社会からの使者---「住友銀行支店長射殺事件」の深い闇

銃殺事件が起きたのは1994年(平成6年)9月14日であった。現場は、名古屋市千種区にある10階建てマンションの最上階である。犠牲となったのは、住友銀行名古屋支店長「畑中和文さん(当時54歳)」である。業界関係者は、こう嘆息したという。「---ついに消されてしまったか---」と。畑中支店長は至近距離から頭部を撃たれていた。当時の住友銀行は、バブル経済の主力銀行で、イトマン事件、平和相互銀行合併問題などの闇社会の話題に事欠かなかった。事件発生から3ヶ月後、名古屋市名東区に住む「近藤忠雄容疑者(当時73歳)」が自首して来た。取り調べに、近藤容疑者は現場に残された物証とは矛盾する供述を行っている。そのため、実行犯が他にいるか、彼が背後にある真相を隠しているのか、どちらかだろうと見られている。近藤は最後まで尻尾を出さなかった。名古屋地裁は、彼に「懲役7年」の実刑判決を言い渡した。バブルに酔いしれた住友銀行の後遺症は、想像以上に重くのしかかる。後に、住友銀行は三井銀行と統合されてしまった。地下人脈との黒い繋がりは闇に葬られ、この事件の深層は藪の中である。

藪から棒に蛇が出た?いや、出たのは1億円---川崎市郊外「竹やぶ現ナマ隠匿事件」の竜頭蛇尾

バブル期に起きた金融事件は多い。こちらは”金融事件”とは言い難いのだが、振り返ってみたい。1989年の春先であった。川崎市郊外の竹藪から”大金”が出て来たのだ。ボストンバッグに入れて放置してあったお金は現金1億円であった。さらに付近を探すと、別のバッグには現金9千万円が見つかった。この報道に、世間はいたく衝撃を受けた。「---これは何かヤバいお金では?」当局は、拾い主の身の安全を考慮して、その氏名は公開しなかった。庶民はこぞって嘆息した。「---あの1億円があればなあ----」「うちの庭にも誰か投げ込んでくれないものか---」さまざまな憶測が世間に流れたころ、ようやく落とし主が名乗り出る。その主は商事会社の社長であった。なんでもバブルでもうけ過ぎてしまい、税金逃れのために現金を隠したのだと云う。税金ぐらい潔く払って欲しかったと思う。その後の展開を期待した人は、いっせいに白けてしまい、報道もフェードアウトしてしまった。もう2度と、あのバブル経済は帰って来ない。寂しすぎる---

医科系大学で相次ぐ不正入学---「愛知医大事件」の想定外の顛末

昭和52年7月4日である。愛知医大で不正入試(裏口入学)が行なわれていたことが発覚した。文部省の調査によれば、愛知医大は、全入学者126人から総額35億円以上の寄付金を集めた。とりわけ、入学試験前に寄付金を払った父兄が10数人存在しており、その額なんと1億2500万円に達していた。文部省の意向で、愛知医大は理事長以下8名の引責辞任を発表した。そして、愛知医大に再建委員会が発足する。ところが、再建を巡って退陣した理事長と再建委の対立が深まってしまう。前理事長の寄付金脱税疑惑などが暴露された。すったもんだの果てに決着を見たのだが、その後に予想外の災難に見舞われる。同年9月13日である。件の愛知医大を舞台に、約3億円が強奪される事件が起きたのだ。裏口入学の斡旋の舞台が「福井県・昭英高校」であった。成績不良の生徒たちが、43人も愛知医大に最低足切り点以下で合格していた。この学校の父兄たちは、愛知医大の大学債を大量に買っていた。その基金は「昭英振興会」としてプールしてあった。9月23日、昭英高校の池戸理事長と湖海学園の館本部長が、保護者会の弁護士を名乗る男に呼び出された。二人は、ホテルナゴヤキャッスルに監禁されてしまう。「赤軍派」を名乗る二人組であった。そして「昭英振興会」が東海銀行にプールしていた2億8千万円を引き出させ強奪した。この捜査は難航した。裏金に関した犯行であったが、愛知医大にも昭英高校関係者にも隠さねばならない事情が存在したのだろう。迷宮入りかと思われていた昭和54年、東京・赤坂で名古屋生まれの金融業者「近藤忠雄」(事件当時57歳)が逮捕される。「近藤忠雄」は、この強奪事件で「懲役13年」の刑に服す。だが、彼は共犯者の名前を隠し通した。想定外の展開とは、「近藤忠雄」が出所後に起こした別の犯行である。出所後、金に困っていた近藤は、住友銀行大阪支店を脅迫したのだ。ところが、張り込んでいた警察にあっさり逮捕された。犯行動機は、おそらく刑務所に戻ろうと思ったのだろう。そして、驚くことに、彼は拳銃を所持していた。それも、平成6年9月14日に、住友銀行名古屋支店の「畑中和文支店長(当時54歳)」射殺事件で使用された拳銃であった。この射殺事件でも追及されたが、彼の供述は曖昧であった。そのため、警察は身代わりの公算大と見て、殺人罪の立件は見送られた。この頃、医療系大学での不正な入学が後を絶たなかった。子弟を医科大学に入れ、跡を継がせたいボンクラ息子を持つ病院経営者が多かったせいである。

利益供与問題で窮地---「新井将敬議員」首吊り自殺の背景

発覚当時、東京地検特捜部は、総会屋小池隆一に端を発する「4大証券会社の利益供与事件」を捜査していた。そして、1997年12月、日興証券を捜査中に自民党代議士「新井将敬」の取引伝票を見つけた。問題にされた「一任勘定」である。それは小池隆一と同じ構図であった。その後、逮捕された日興証券元常務「浜平祐行」は、新井代議士に利益を強要されたと供述したのだ。マスコミから激しいバッシングが浴びせられた。そして、新井代議士の記者会見が開かれた。彼は、苦渋をにじませ「皆さんの前には--もう--帰ってこれないかもしれませんが---」と結んでいる。その言葉は現実となってしまう。その翌年2月19日、ホテル・パシフィックメリディアン東京の一室で痛ましい姿で発見された。再起を期せばよいではないか、なにをそこまで---という世間の声も多かった。「新井将敬議員」は、在日であった。そのコンプレックスがゆえに彼は人一倍努力して来た。東大を卒業し大蔵省に入省、そして清新なイメージで政治家に転身した。18歳で帰化していた新井議員であるが、どの日本人よりも「日本人」であろうとした。誰よりも熱心に「日本人」であろうとしていた。三島由紀夫を読み込み、武士道を身につけようとした。日本人のアイデンティティを吸収しきったつもりでいた。「新井将敬議員」は、日本人”武士”で在りたかった。「浜平元常務」は、新井議員の利益供与の要請を天下にバラしてしまう。議員は「金がいるんだ。儲けさせてほしい」と店頭で要求したという。だが、この供述は、新井将敬議員のプライドをズタズタに引き裂いてしまった。もう、こうなった以上彼には「切腹」しかなかった。ホテルで自殺したとき、ベッドの下には日本刀が置いてあった。それは、右翼活動家「野村秋介」から貰った刀であった---

産経新聞がスクープ---「グリコ・森永事件」は、北朝鮮工作員の犯行?

その一大スクープが産経新聞の1面トップを飾ったのは、1997年7月4日であった。記事によれば、首謀者は、芦屋市に住む朝鮮商工会に力があった会社社長で、この実力者は、北朝鮮の金鉱山開発投資に失敗していたという。また、江崎社長を異常に恨んでいた在日の考古学者がいたらしい。彼は北朝鮮工作員と見られている。この朝刊記事は大反響を呼んだ。だが、警察は公式に認めず他紙の後追い報道はなかった。そのため、スクープ報道は、「---という説がある」で終わってしまう。「かい人21面相」という脅迫文でグリコ製品は大打撃を受けて、全国のスーパーからグリコ製品は軒並み撤去された。グリコの損失は50億円に上った。そして江崎グリコ株は急落する。この株式を空売りすれば大金を稼ぎ出すことが容易にできたのだ。事件を振り返ってみよう。1984年3月18日、江崎社長が誘拐された。そして社長は、3月21日に無事保護される。ところが「かい人21面相」と名乗る脅迫文が自宅に届けられる。有名になったので復習しておく。「けいさつの あほどもえ --おまえらの あたまの ていど さいあくや---」2000年2月13日、「青酸ソーダ混入菓子ばらまき事件」の刑事関連時効がすべて成立する。「くいもんの会社 いびるの もお やめや」という犯人グループから終結宣言が出された。一連の犯行の目的は、江崎グリコ株を売り浴びせて、大儲けするためだったのだろう。そして、産経新聞が記事にした「工作員では?」という説は最も真相に近いのではないだろうか。

バブル狂騒曲は永遠に---高級料亭の女将・尾上縫(当時61歳)の見た夢

バブル経済を象徴した「女将・尾上縫」。バブル経済の終息のホイッスルを吹いた女性である。彼女は、1991年(平成3年)8月13日に大阪地検に逮捕された。東洋信金の幹部と結託して「日本興業銀行(当時)」から2300億円もの不正融資を引き出したのであった。尾上縫は高級料亭「恵川」に「不動明王」を祀っていた。そして、この不動明王が上がる株を示してくれるという。これが女将の「霊感予言」といった。この時期、株は保持していれば何でも上がった。この予言を聞きたくて何人もの投資家、証券マン、金融ブローカーが群がっていたという。膨らみ続けるバブル経済のもとでは破綻することはなかった。特定の銘柄を訊くと、彼女は「騰がるぞよ---」あるいは「まだ早いぞよ---」と答えていた。想像できるだろうか。尾上の妄言が株式市場に大きな影響を及ぼしていた。おそらく神になったような気分だっただろう。尾上の前に多くのバブル紳士がひれ伏していたのだ。日本全体が狂騒状態にあった。市中に有り余った大量の「円」が土地と株式に向かった。だが、その「円」は刃を隠し持っていた。やがて無残に屍をさらしてしまった。「尾上縫」見果てぬ夢であった。土地神話を崩したのは誰あろう大蔵省(当時)当局である。高騰する土地の価格を冷やすために「不動産取引総量規制」を打ち出した。云わば経済のハードランニングである。この劇薬が効きすぎたために蛇口を固く締められた不動産会社がバタバタ倒産していく。銀行には大量の不良債権が残ってしまう。名門・日本興業銀行も例外ではなかった。当行の破たんは、大阪の女将「尾上縫」が一役噛んでいる。そうして殆んどの都銀は生き残りをかけて合併していく。建設会社の多くも消えた。

冷酷で陰惨、障害のある老夫婦をなぐり殺した花形行員---埼玉発「富士銀行行員顧客殺人事件」の凶行

埼玉県宮代町で夫婦の絞殺死体が発見されたのは、平成10年7月4日であった。その4日後に富士銀行春日部支店に勤務する「岡藤輝光」(現みずほ銀行、事件当時31歳)が殺人容疑で逮捕された。彼は福岡大学ラグビー部出身、鍛えに鍛えた屈強な身体であった。平成元年4月、「岡藤輝光」富士銀行に入行、俗にいう「バブル入行組」だ。殺されたのは、お互いに障害を抱えマッサージ店を運営する福田夫婦である。事件現場は、捜査員が目をそむけるほどの惨状であったという。「岡藤輝光」は福田夫妻の預貯金を他の経営難の運送会社に「浮き貸し」していた。もちろん違法行為である。期日を守るからと云って大金を預かっていた。その額2500万円。だが、期日までに運送会社からの返済はなかった。そして「岡藤輝光」は、この福田夫妻に「返済期日を裏書した名刺」を手渡していた。銀行に発覚すれば懲戒解雇になってしまう。彼は焦っていた。「なんとか帳尻合わせをしないとオレは破滅だ---あの名刺を取り戻さないと---」彼は追い詰められていた。正常な神経ではなくなっていた。「あの名刺だ---」富士銀行本店への異動の内示があったことが彼の神経をさらに狂わせていた。彼が「浮き貸し」を行ったのは風前の灯火の運送会社である。富士銀行だけでなくバブル崩壊により都銀は大量の不良債権を抱えていた。その運送会社に融資できる状況ではなかった。社長からは融資を泣きつかれていた。彼は見殺しにはできなかった。この時期「浮き貸し」は裏融資として大らかに行われていたのだろう。なぜ彼が冷徹な融資担当行員になれなかったのと云えば、彼は父親が大型トレーラーに乗って懸命に働く姿を見て育っていたからである。泣き付いてくるその社長の顔が父親と重なって見えていた。2500万円と云えば当時も今も大金である。この殺された夫婦も実はバブルの恩恵を受けていた。持っていた狭小な土地が予想外に値上がりしたのだ。その思わぬ大金を富士銀行春日部支店に預けていた。バブルの見えない赤い糸がつながってしまったのである。「岡藤輝光」に本店移動の辞令が出た。彼は動転する。おそらく精神が錯乱していただろう。そして、福田夫妻が犠牲になる7月4日を迎えてしまう。彼の犯行は実質的に「夫婦強盗殺人」である。量刑的には「死刑」が妥当ではないだろうか。平成12年12月20日東京高裁は、1審の浦和地裁「無期懲役」の判決を支持した。彼は上告しなかったため、「無期懲役刑」が確定した。彼はどうすべきだったのだろう。上司に相談して福田夫妻に2500万円は還すべきであった。精神錯乱状態に陥った彼は、強盗殺人を実行してしまった。この福田夫妻は、まったく落ち度がなかったのだ。バブルの恩恵で大金を手にしていたとは言え、障害者の身の上で懸命に生きてきたのである。貯金は老後資金でもあった。遺族の方はさぞや無念であっただろう。殺される理由も貯金を奪われる理由もなかったのに。繰り返そう。「死刑」が妥当であったと考える。

バブルに踊った平和相互銀行の消滅---「金屏風事件」の闇

疑惑を追及されていた竹下登総理の秘書「青木伊平」死の自殺で真相は藪の中に。この事件の背景は”魑魅魍魎”としている。基本は平和相互銀行の無謀な経営方針にある。同行の創業家「小宮山一族」と現行経営陣の主導権争いがこの問題をあらぬ方向に導いてしまった。バブル期の乱脈経営により制御不能に陥った。加えて創業家のワンマンぶりに当時の大蔵省は何度も腹立たしい思いをしている。そのため大蔵省は住友銀行のドン磯田頭取に「平和相互を何とかしろ!」とはっぱをかけている。(この項は執筆中です)

55年体制を崩壊させた「政界のタニマチ」---佐川急便事件

当時のボスは「田中角栄」であったが、軒先を借りて母屋を乗っ取ったのは「竹下登」である。右翼団体「皇民党」が「竹下ホメ殺し」街宣に乗り出した。これに困った竹下登は「金丸信」に泣きつく。金丸は佐川急便の渡邉社長に相談した。社長は関東の広域暴力団「稲川会」石井会長に解決を相談する。「ホメ殺し」はピタッと止んだが、代わりに佐川急便から大金が闇社会に流れることになる。「佐川急便事件」と称された事件は、広範囲に影響していく。「皇民党」が街宣を止めるための条件があった。「和解金」である。3,000億円とも云われている。その金を「東京佐川急便」が出したのである。そして、自民党は38年ぶりに政権与党の座から転落した。宮澤喜一内閣が倒れ、7党1会派による「細川護熙内閣」が誕生した。

ITバブルが育てた「あだ花」---ライブドア騒動

マスコミが育て、マスコミが蹴倒した時代の寵児「ホリエモン」こと「堀江貴文」東大在学中にウエブサイト制作会社「オンザエッジ」を立ち上げ、

当初こそその運営には悪戦苦闘した。離婚も成立してしまった。だが時代は彼を見捨てようとはしなかった。米国からのITブームが国内で沸き返り、実体を大きく上回る株価が実現するのである。「光通信」「ヤフージャパン」「ライブドア」「ソフトバンク」「楽天」---など数え上げれば綺羅星さながらである。「ホリエモン」は、2005年2月にニッポン放送株35%を取得した。親会社が小さく、その子会社がでかい「ねじれ現象」に彼は目を付けた。この買収騒動は、「フジサンケイグループ」と「ライブドア」の全面戦争と化し連日マスコミを賑わせ、一般大衆にも「株式投資」に対する興味をかき立てていた。

だが、この騒動は「ホリエモン」が絶頂期から転落していく始まりであった。その年彼は総選挙に出馬し、広島選挙区で「亀井静香」と争ったが惜しくも敗れてしまった。2007年3月東京地裁は「堀江貴文」に実刑判決を言い渡している。

汚職事件が政局に発展---その裏にはGHQ内部での勢力争い

まるでロッキード疑獄事件を思わせる政財界を巻き込んだ事件。発生したのはGHQ統治下の戦後日本であった。1948年(昭和23年)「昭和電工」は当時中堅の化学会社であった。社長の日野原節三は、「復興金融公庫」からおよそ23億円の融資を受ける。その金を政財界にばら撒いたのである。摘発は、GHQの差し金だと云われた。

この事件では政財界で64人が逮捕された。さらに当時の「芦田均」内閣が倒れてしまう。芦田内閣は、中道3党(民主・社会・国民協同)の合同内閣であった。そのあとに誕生したのが「民主自由党」の「吉田茂」であった。現在の「自由民主党」のルーツでもある。その後、この「自民党」は長期にわたり政権を担うことになる。それを考えると、日本の運命はここで決したとも云える疑獄であった。日野原社長の「赤坂の愛人」まで登場して大騒ぎになったのだが、結局、有罪になったのは2名だけである。だが、GHQ内部対立で勝利したグループと後の「自民党」吉田茂にとっては、この政局こそ運命お変える絶好の好機であった。(この項は「歴史に埋もれた重大事件」とコンテンツを共有しています)

ロッキード事件以来の大型汚職事件---リクルートコスモス

バブル経済華やかなりし頃、川崎市の助役が解任された。川崎駅前再開発事業に関する「リクルートコスモス未公開新株譲渡事件」であった。1988年(昭和63年)6月18日朝日新聞のスクープであった。誰の目にもありきたりの1地方公務員が犯した汚職事件のはずであった。ところが、これが後に政財界を揺るがす大事件となる。リクルートの系列不動産会社「リクルートコスモス」、この会社名が報道されない日がなかった。「未公開株譲渡」といった前例のない贈収賄である。この手法は「リクルート社」を起業して大成功していた「江副浩正」氏の発案であった。リクルート社の業容発展に大きな役割を演じた未公開株譲渡は多岐にわたり、名前が取りざたされた政財界人も広範囲に広がっていた。この「江副浩正」氏は東大在学中に友人と起業した、立志伝中の人物で、戦後の東大卒では最も実業界で成功したとされる。残した個人資産は40億円という。時代が選んだ人ではある。

ライブドア野口氏怪死事件---真相は藪の中に消えた

事件を振り返ると、2006年1月18日にライブドア取締役であった野口英昭氏(当時38歳)が、滞在中の那覇のカプセルホテルで血まみれになり瀕死の状態で発見された事件。野口さんは、1時間後に収容先の病院で死亡が確認された。沖縄県警は、これを自殺と発表している。しかし、自殺教唆説から、他殺説まで諸説が飛び交っている。というのも、世間はライブドア問題で揺れており、野口さんは「ライブドアの闇を知る人物」と囁かれていたからである。

バブルに散った名門商社---「イトマン」事件

当時、住友銀行を牛耳っていたのが「住銀の天皇」と言われた磯田一郎であった。磯田は腹心の部下「河村良彦」をイトマンに送り込み、土地の地上げや絵画取引などで数千億円の金を動かした。そして、伊藤寿永光や許永中という黒い紳士をイトマンに引き入れ、名門商社を食い散らかしたのだ。当時は連日経済紙を飾っていた。伊藤は、そのすじの男であり地上げのプロであった。そして架空の事業計画を策定し、イトマンを経由して住銀から巨額の融資を引き出した。この時期、磯田頭取の娘もこのイトマンに高額な美術品を売りつけ、5,000万円もの手数料を手にしていた。さらに、許永中や伊藤は、リゾート開発などをでっち上げイトマンから融資させ個人的に流用していた。大阪地検特捜部のメスが入ったとき、3,000億円が闇社会に消えていたという。

ジェイコム株大量誤発注---そしてその陰で

この会社は人材派遣会社であった。2005年12月8日に東証マザーズに上場された。そしていきなり発行株式の40倍以上の注文が殺到する。通常あり得ない事態であった。これは、みずほ証券が、「61万円で1株」の売り注文を「1円で61万株」の売りと誤って入力したためであった。みずほでは間違いにすぐ気が付き、取り消しの入力を行ったが、東証のシステムでは受け付けず、この誤った取引が成立してしまった。この誤発注のせいで、ジェイコム株を買った証券会社や個人投資家は巨額の利益を手にした。誤発注による利益であると証券会社は認識しており、すべての会社は自主的にその利益を返納した。これは東証の売買システムの不具合のせいであることが後に判明する。そして東証鶴島社長は辞任に追い込まれた。これは、導入時に危機管理がなされていなかったためである。大量の誤発注に対応できる、即座に取り消し注文が受けられるようなシステムではなかった。個人投資家に利益を返還させる法的根拠はなかった。それでも返金に応じた人もいた。有名になったジェイコム君以外には。

詐欺師は慶應義塾大学学生---投資家を手玉に

真相は分かっていない。彼が20億円とともにシンガポールへと消えてしまったからである。事件が報じられたのは、2012年5月である。人呼んで「平成の光クラブ事件」東京、神奈川の会社経営者から投資金を集め、さらに資産家からもお金を集めていた。今もって行方が分かっていない。彼は兜町にコンサルタント会社を立ち上げている。そして親でさえ運転手として使っていた。シンガポールでは秘書役の女子学生とともにカジノ付きの高級ホテルに宿泊していたらしい。立件されているのは、会社経営者が訴えている6,000万円だけである。謎だらけだ。

光クラブ事件---小説や映画のモデルに

昭和23年、東京で「街金」が生まれた。経営者は東京大学法学部の学生である。金融会社は「光クラブ」といった。

三島由紀夫がこの事件に材を取り、小説を発表している。それは「青の時代」という。三島由紀夫本人は失敗作といっているが、店長の私には、けっこう面白い小説だった。

ところで、当時はまだこの手の貸金業者はいなかった。いわば、戦後のドサクサが生んだといってもいい。

経営者の東大生を「山崎晃嗣」という。営業方法はこうだ。

月に1割3部の配当を約束して一般から出資を広く募り、それを当時盛んだった闇ブローカーに、2割1部から3割の高金利で貸し出した。戦後から脱しつつあった日本で、いつまでも一般の人が闇金融を使うはずもなく、破たんは時間の問題だったようだ。結局出資金の返却に応じられなくなってしまう。山崎はカラの金庫の前で服毒自殺した。

日本一の総合商社---鈴木商店、連鎖倒産

この事件こそ、暗い昭和の幕開けであった。それでは「鈴木商店」とは?会社名からは小さな会社を連想するがそうではない。全盛期には、スエズ運河を航行する船舶の1割は「SZK」鈴木商店の船であったそうだ。国内では三井を凌ぐほど繁栄していた。

鈴木商店---開港間もない神戸で洋糖業として明治7年に産声を上げた。そして、大正6年(1617)には売上はGNPのおよそ1割を上げ、日本一の商社になった。

主力取引銀行の「台湾銀行」が破たん。そのあおりを受け鈴木商店も倒産してしまった。なお、番頭の金子直吉は、小説やドラマのモデルになっている。

そして、この金子直吉が始めた事業は繁栄し、今日でも大企業として残っている。神戸製鋼がその代表である。近代日本の重化学工業とともに鈴木商店は発展していた。