誰の人生にも「土壇場」は付き物です。

この絶体絶命のピンチを撥ね退けて見事に生還した素晴らしい面々を紹介します。

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ぜひ知って欲しい。「諦めない本物の人生」がここにあることを。

「---菅原!!見捨てたんじゃないんだ!分かってくれ!---」登山家「松田宏也」は、そう友の名を叫んで単独下山を果たした。1982年5月のことであった。場所は中国四川省大雪山系の最高峰「ミニヤコンカ」である。松田さんはパートナーの菅原信さんと快晴下で頂上アタックを仕掛けた。その直後である、天候が急変した。食糧は1日分だけ携帯していた。雪洞でビバークすること2度、ついに諦めて下山を開始する。さらにまずいことに、トランシーバーが故障してしまう。そのためベースキャンプとの交信が出来なくなってしまった。二人は凍傷に冒され両手足の感覚が麻痺していた。C2キャンプまで下りれば何とかなる、そう思って頑張っていたが、サポート隊はすでに撤収した後であった。菅原さんの衰弱が早く、松田さんから遅れだした。松田さんは苦渋の選択をした。「単独下山しよう、待っていれば二人とも助からなくなる---」そのとき、松田さんの腹部に激痛がはしった。胃に穴が空いてしまったのである。松田さんは飢餓と疲労、凍傷に冒された手足、腹部の激痛に耐えていた。目には涙を浮かべていた。友を置いていく悔しさ、幾度となく幻聴を耳にした。さらに幻覚を見た。だが、決して希望を捨てなかった。生きて還るのだ。その執念は19日後に実を結ぶことになる。現地の人に発見され奇跡の生還を果たしたのである。しかし凍傷はひどく両足のくるぶしから下を失ってしまった。両手の指さえも---だが持ち前の執念は健在で、懸命にリハビリに励み、現在でも登山を続けている。

その航空機事故が起きたのは1972年10月のことである。ウルグアイ空軍機571便は、45名の乗員・乗客を乗せてアンデス山脈に墜落したのだ。その日のうちに死亡したもの12人。5人は行方不明になる。チリとアルゼンチンの国境付近にその機は墜ちた。高度4200㍍あり、積雪は10㍍もあった。28人の生存者があり、10日目には食糧がつきた。さらに17日目に雪崩が発生し、8人が死亡した。19人が取り残された。どこを見ても雪山だらけで動物の姿すら見かけない。このままでは、生存者全員が餓死するほかなかった。雪崩に襲われた時に、仲間の一人が「---オレが先に死んだら身体を食べても良いから、生き延びて欲しい---」と言い残していた。生き残った仲間たちは空腹と恐怖とで正常な思考などできない状態になっていた。だが、彼らはラグビーチームを中心とした統率された集団であった。そのため争い事などは起きなかった。彼らは悩んだ末に「カニバリズム」を実行した。つまり仲間の肉を食べたのであった。彼らは、全員がカトリック教徒であった。だから「カニバリズム」を「聖餐」であるとして自らを納得させた。この墜落事故は、後に映画化されて反響を呼ぶことになる。その映画こそ「アライブ---生還者---」である。仲間の人肉を食べて飢えをしのぎ、救助を求めるための「遠征隊」を組織して、決死の覚悟で下山を試みた。そして72日後にようやく救助されることになる。その遺族の子供が云った言葉に彼らの心は慰められたのである。「---あなたの中に、わたしの父は生きているのね---」

高校時代、国立競技場を沸かせたスター選手だったが---不幸な交通事故に遭い下半身不随に

日本で唯一のサッカー「車椅子監督」が「羽中田昌」氏である。1964年山梨県生まれの彼は、サッカーの名門、韮崎高校を2年連続で全国大会準優勝に導いた。そして1983年にバイク事故に遭った。走行中、突然前輪がパンク。投げ出されてしまったのだ。ガードレールに激突し、背骨が折れた。その結果、下半身麻痺という重い障害が残ってしまった。サッカー選手としては「人生の終わり」であった。1度は別れたはずであったが、後の奥様になるまゆみさんが寄り添ってくれたのだ。「ごめん---来ちゃった」そう言って彼女は明るく励ましてくれた。そのおかげもあって、懸命に手術後のリハビリに取り組み、山梨県庁に職員として職を得た。公務員として、安定した生活が続いていく予定であった---あの日までは。1993年5月であった。日本サッカーを劇的に変えることになった「Jリーグ」の開幕である。「羽中田昌」さんは苦しむことになる。「---なぜ、オレはあのピッチに立てないのか」「もう一度、サッカーの世界に戻りたい---」サッカーの人気が高まっていく世間の熱気を見て、彼は悔しくて仕方がなかった。「待てよ、選手として無理でも指導者としてならやれるのではないか---そうだ!指導者になってみよう」奥様のまゆみさんは、夢を語る羽中田氏に反対などしなかった。さっそく県庁に辞表を出した。「夢を追い求めよう、どこまでも」そうしてスペインに渡ったのだ。言葉の壁、資金難、その苦労を夫人とともに乗り越え、難関をくぐり抜けて「S級ライセンス」を取得する。どんな境遇でもNever Mindの精神が必要だ。絶対に「諦めてはいけない」

第一通報者故の嫌疑をかけられた「河野義行」さんの悲劇---「松本サリン事件」

犠牲者の一人は「河野義行」さんの妻澄子さんであった。澄子さんはサリンを大量に浴びたために14年間意識が戻らなかった。その物言わぬ妻の看病を続けていたが、とうとう2008年8月5日、妻は意識が戻らぬまま旅立ってしまった。「河野義行」さんは、事件発覚から9カ月もの間、犯人同然の扱いを受けたのである。疑いが晴れたのは「地下鉄サリン事件」が発生したからである。カルト集団「オウム真理教団」による犯行であった。過去に例がないほどの過激な「報道被害」と云えた。この14年間というもの、怒りや悔しさを感じない日はなかった。澄子さんが亡くなってから、「河野義行」さんは、その苦難の体験について考え続けた。ある日、河野さんを訪ねて来る人があった。10年間刑務所で過ごし刑期を終えた人の名は「藤永幸三」であった。元オウム真理教信者であり「松本サリン事件」で使われた噴霧車を作った人物であった。彼は、謝罪するために河野さんを訪れたのだ。河野さんは、このとき「彼は償いを終えて詫びるために来てくれた。---もう恨みを持たないことにしよう---限りある人生をつまらないものにするのも、豊かな心で生きるのも自分なのだから---」河野さんは藤永が庭木の手入れができることを知る。そして庭木の手入れを彼に任せることにしたのである。藤永は月に1回河野宅にやってくる。庭木の手入れをするためである。死刑を待つ身となった教祖「麻原彰晃」への恨みの感情が消えたとき「河野義行」さんは、澄子さんの死を前向きに受け入れることができたのだ---

「きっとYesと言ってもらえる」---全米に知られた”脳性麻痺”のトップセールスマン、この努力家の名は「ビル・ポーター」である。彼は「あきらめなければ道は開ける」という両親に手渡されたメモを持ち歩いていた。脳性麻痺による不自由な足を引きずって毎日100軒の家を訪問した。いくら断られても罵声を浴びせられても、「きっと次の家ではYesと言って貰える---」ビルは呪文のようにこの言葉を反芻しながら不自由な足で歩き続けたのだ。この努力の半生が映画化され話題を呼んだ。「ビル・ポーターの鞄」である。世の中には「健常者」も障害者」もいない。ただ「途中で諦める人が夥しいぐらいに存在する」それが事実である。生きることに疲れてしまった人には、映画でも書籍でもどちらでもよい。ぜひ味わってみて欲しい。生きることは「希望をもって闘うこと」である。

絶望が歓喜に変わったのは,なんと8年の後---「奇跡のリンゴ」

NHK「プロフェッショナル---仕事の流儀」で放送され大反響を呼んだ、絶対に不可能と云われた「リンゴの無農薬栽培」の成功である。この「奇跡のリンゴ」は2年間放置しても腐ってカビが生えたりしないのだ。いや、むしろ水分が抜けて甘い干し菓子のようになる。世界にたった一つしかない「リンゴ栽培」に成功した「木村秋則」さんであったが、その挑戦は苦難の連続だった。農薬散布の翌日からは、奥さんは決まって体調を崩し寝込んでいた。「この農薬は人体に強すぎる。リンゴにも影響があるはずだ。農薬・肥料漬けのリンゴが人体にもいいわけがない」そして、ある時、ふと書店で1冊の本と出会った。それが「無農薬栽培」である。彼は、悩み苦しんだ末にある決心をする。「無農薬」で「リンゴ」を作るのだ。この常識を超えた無謀な試みに、奥様は無言で同意してくれたが、翌年から、リンゴの収穫がなくなり1家の生活がどん底におちいる。仕方なく、木村さんは、農作業の合間にはバイトをした。庭の雑草でさえ家族で食べた。家族総出で害虫駆除を行った。だが無農薬にすれば害虫が増える。次第に「リンゴの木」が枯れていった。木村家の農園だけが荒れていった。「やっぱりダメなのか---」木村さんは落胆した。常識には抗えなかった。生活もままならない。気が付けば木村さんは、1本のロープを持って山中に彷徨っていた。適当な「枝ぶり」を探していた。自殺するためであった。そして、「運命」の発見をする。「首吊り用のロープ」を掛けようとしたとき、そのロープがあらぬ方へと飛んでしまった。拾いに行くと1本の「どんぐり」の木があった。木村さんはふと思った。「このどんぐりの木には農薬もなく化学肥料もない。なのになぜ?」木村さんは、その土に気が付いた。踏んで見るとふかふかして柔らかい。思わず口に含んでみた。その土は「自然のいのち」が感じられた。「これだ!この土をリンゴ園で再現するんだ!」木村さんは、もう死のうとしていたことも忘れていた。それからも苦闘の連続であった。周囲は彼を「狂人扱い」した。だが、今度の木村さんは、やり方が間違っていないという確信があった。さらに数年の後、木村さんのリンゴ園は花盛りになったのである。そして、ここに「奇跡のリンゴ」が生まれた。「狂人」という非難を浴びようと、あきらめずに続けること。その先に「栄光」がある。「木村秋則」さんこそ「奇跡の人」である。

その「奇跡の人・中村久子」が永眠したのは1968年であった

三重苦の「ヘレン・ケラー」は来日した際に、「あなたは、私よりも不幸、そして私よりも偉大です。あなたこそが奇跡の人に違いない」と率直な感想を述べていた。「あなた」こそ、四肢切断の身でありながら辛苦に耐え抜いた「中村久子」さんである。彼女は、波乱の人生を生き抜いた真実の「偉人」である。1897年岐阜県生まれ、3歳の時悲劇に見舞われる。凍傷が元で難病に冒され、両手の肘から先と、両足の膝から下を切断せざるをえなかった。さらに7歳の時には父親が他界する。母親は、両手・両足を失った娘に対し、自立できるようにと、1年がかりで自力で食事ができるように訓練した。さらに掃除や炊事も命じたのであった。母親は、いつ自分が死んでも、娘には生活に困らないようにしようと懸命であった。だから、あえて心を鬼にしたのだ。このときは、あまりにも母が厳しかったので「本当の母ではないのかも---」と久子は相当に恨んでいたそうだ。彼女は、口と舌さらに短い手のない腕を使って裁縫までも習得した。さらに、その状態で習字の訓練と続く。10年が経過すると、着物が縫えるまでになっていた。しかし、母親を憎み「いっそのこと殺して欲しかった」とまで思った日々もあったのだ。20歳を迎えたとき、久子は「見世物小屋」の舞台に立つ。生活費のためであった。座員からはいじめられ、つらい日々であったが、その1座の同僚と結婚した。そして長女の出産。そのとき初めて厳しかった母親の愛情に気がついたのだ。母親を思い出しては涙が出た。「手足がなくても生活できるのは、あの母のおかげなんだ」そう思うと母に「感謝」せざるをえなかった。昭和12年、「ヘレン・ケラー」と面会し、新聞にも取り上げられた。だが、巡業中のことであった。その母が死んだ。死に目に会えなかった。37歳で再婚し生涯の伴侶を得た。1968年、「中村久子」は孫たちに囲まれて幸せな晩年を過ごし、ことさらに厳しかった母を偲びつつ、72歳で永眠した。「手足なき身にしあれども 生かさるる 今のいのちは 尊かりけり」 この久子が詠んだ歌を、すべての日本人は噛みしめて欲しい。いかなる人生にも「絶望」はない。

映画「奇跡の詩」で再現されたアマゾンの決死行

事故当時17歳のドイツ人少女「ユリアナ・ケプケ」は、1971年ジャングルの生態研究をしている父親に会うためペルーのリマから奥アマゾンのプカルパに向かう飛行機に母親と搭乗した。飛行機はプロペラ機で、その乗客は92名であった。そして悲劇が襲う。この飛行機はアンデス上空で乱気流に巻き込まれて空中分解した。生存者は1名だけ、それが映画の主人公になった「ユリアナ・ケプケ」である。だが、状況は最悪だった。未開のジャングルに、水も食料もなく、たった一人で投げ出されたのだ。そして、本当の奇跡が始まった。彼女は絶望の中で生物学者の父親の言葉を思い出していた。「ジャングルで道に迷ったら、水の流れる方へたどって行けば良い。流れはやがて大河になり、そばには人が住んでいるものだ」彼女は、その言葉を頼りに必死で歩き続けた。木の葉のしずくで喉の渇きをいやし、6日間を歩き続けた。体力は限界であった。背中に強烈な痛みを感じた。肉バエに食われていた。手が届かずどうにもできなかった。そうして、やっと河岸に出た。ここで彼女は、簡易的な「いかだ」を作ることを思いつく。ところが、今度は胸の当たりに激痛が走った。思わず見ると20cmもある大きなヒルが何匹も噛みついている。さらに、流木を探そうと水辺に入った彼女を別の敵、肉食ドジョウが襲ってきた。またも猛烈な痛み。彼女の心は、苦痛と恐怖で負けそうになる。しかし、苦闘の末に「いかだ」が完成した。彼女は川を下り始めた。すでに8日が経過していた。何度か幻覚を見た。そして運命の9日目であった。小さなカヌーが岸に繋がれているのを発見した。地元の青年が釣りに来ていた。青年は水を与えて介抱してくれた。そして彼女が墜落機唯一の生存者と知り、驚いて街までカヌーを漕いで知らせに行った。こうして、彼女はプカルパの病院に運ばれた。眼底や鎖骨など複数の骨折があり、全治1カ月の重傷であった。最後まで望みを捨てなかった彼女は、駆け付けた父親と感動の再会を果たしたのであった。

絶望的な貧困生活を根性で跳ね返したばかりか、奇跡の王座挑戦までを果たし、チャンピオンとなった極貧失業者。人々は彼をこう呼んだ---「シンデレラ・マン」

実在した伝説のボクサーの名は「ジェームス・ブラドッグ」1905年にニューヨークで生まれたアイルランド系アメリカ人である。1926年にプロライセンスを取得する。強い右パンチを武器として頭角を現し、将来を期待された。ところが1929年の株式大暴落・世界大恐慌と歩調を合わせるかのように、ブラドッグ自身も勝てなくなってしまう。すでに結婚して子供もいた彼は、港湾労働などの日雇い労働をして生活費を稼いだ。そして全力で家族を守り抜いた。だが、決してチャンピオンになる夢を捨てなかった。「いつか再びリングに上がる。そして勝つのだ」貧しい暮らしを続けていても、心の中まで貧しくはなかった。心はすでにチャンピンであった。そんな折りも折り、彼に「消化試合」のオファーがくる。1934年のことであった。彼はこの千載一遇のチャンスをものにするのだ。そして世界王座に挑戦することになった。その運命のタイトルマッチは1935年6月13日のニューヨーク、ロングアイランドのリングであった。チャンピオンは「マックス・ベアー」であった。ブラドッグの勝利を予想した人は誰もいなかったのだ。起こるはずのない「番狂わせ」であった。それは、大恐慌にあえぐ大衆を熱狂させたのだ。この物語は「ラッセル・クロウ」主演で映画化された。

ヨットレース中の事故で遭難、乗員はたったひとりを残して次々に死亡。奇跡の生還「たか号」の悲劇

痩せこけ、伸びた髭、眼が異様に光る一人のヨットマンが、太平洋上で救出されたというニュースが国内を駆け巡ったのは、1992年1月であった。救助された男性は「佐野三治」さん。「たか号」から奇跡の生還を遂げたクルーの一人であった。そして後に「たった一人の生還」(新潮文庫)と題された手記を発表した。この手記によって、27日間の「修羅場」が明かされたのである。それは「修羅場」という以上の凄絶なものであった。1991年12月のグアム島レースに参加、12月26日正午に出港した。

しかし、しばらくは快調に進んでいたが、天候が悪化してきた。そしてメインセールが破損してしまう。12月29日の20時過ぎに衝撃音とともにヨットは転覆。「イーパブ」(救難信号発生装置)が故障という最悪の事態に陥る。クルーは「ラフト」(救命いかだ)に乗り移る。だが、この時もアクシデントが襲う。リーダーの水川秀三氏が死亡した。「ハーネス」を外すことができず水没したのである。致命的悲劇はさらに続いた。「ラフト」の緊急用備品は、乗り移る際に流出してしまったのである。そのため食料と飲料水のほとんどを失ってしまう。生き残ったクルーは6名、畳2畳ほどの「ラフト」で漂流した。だが、水や食料がなかった。残っていたのは、わずかにビスケット9枚とペットボトル1本だけである。翌1月8日、衰弱が目立ち、幻覚を見るようになった。佐野さんたちは、自分の小便さえ口に含んだ。1月10日に「武市俊」氏が死亡した。彼は、ヨットの世界では「神様」と呼ばれるほど有名なヨットマンであった。さらに翌日に3名が死亡。生き残っていたのは佐野さんと「高瀬恒夫」さんの二人。1月13日、偶然舞い込んだ「カツオドリ」を捕獲した。佐野さんは、これを器用にさばいて二人で食べた。だが1月16日に高瀬さんは心臓発作を起こして死亡した。佐野さんは一人残された。1月24日、佐野さんの気力もつきてしまった。彼は金具を使ってリフレクターの裏に遺書を書いている。そして運命の1月25日、英国船籍の貨物船が漂流するラフトを発見した。佐野さんは一人で生還を果たしたのである。

難病に立ち向かった強い精神---癌から復活した「アームストロング」の奇跡

本人の闘病記「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」は世界で最も多く読まれた「癌闘病記」とされる。しかも、彼はトップアスリートでもあった。闘病中に全身の筋肉が落ちてしまった。そこから「奇跡の復活」が始まるのだ。想像を超える苦闘の日々が続く。世界が注目する最高峰の自転車競技「ツール・ド・フランス」復帰2戦目に彼は見事な優勝を果たす。そこからさらに7連覇を成し遂げた。真の「挑戦者」とは「アームストロング」のような崖っぷちに立っても心が折れない勇気ある人のことをいう。並みの精神力では、とうてい成しえない「偉業」でもある。誰もが「もう彼は終わった」といった。だが彼の「決意」は揺らぐことはなかったのだ。睾丸癌を発症したとき、生存率は10%未満であった。さらに癌細胞は「脳」にも転移した。それでも彼は諦めなかった。手術は成功したが、苦しい治療に耐え抜いたのみならず、退院後の身体作りも壮絶なものだった。現状に「不満」ばかりを云い募っている人には、この書を読んでみるとよい。いかに自分が甘えているのかがよくわかる。